第十三話:狂獣の覚醒
翌朝、凛は久しぶりに一人で登校した。
鳳龍は次期当主としてどうしても外せない仕事が入ったそうで、今日は別行動なのだ。
もっとも、送っていくと主張するのを何とか押し留めたのは凛の方だったのだが。
(いつも一緒だったから……? なんとなく、隣にいない方が落ち着かなくなってる)
そんなふうに思ってはいけないと分かっていても、鳳龍の態度が甘すぎるのがいけないのだ。
自分は仮初の婚約者なのだから。
でも、と思う。
(鳳龍と契約を終了してしまったら、またアザの熱に悩まされるようになるのかしら)
そうなると非常に困る。
そして、困るのは冷気に悩まされる鳳龍だって同じなはずだ。
(その時は一体どうなるのかしら……。協力関係を続けられたらいいのかしら?)
協力関係とは、つまり身体接触——抱擁をし続ける関係ということだろうか?
優しく自分を抱き寄せる鳳龍の姿がポワンと脳裏に浮かび、慌てて頭を振った。
(駄目駄目、変なことを考えたら! ……それに、アザについてはまだまだ分からないことだらけよね)
気を落ち着かせるように、凜は空を見上げた。
鳳龍が言っていた伝承を思い出してみる。
『右腕に青き印を刻みし子は、東の島国へ渡り、左腕に赤き印を持つ者を探せ。二つ揃いし時、対の運命が動き出す』
(対印はなぜ引かれ合うのかしら。それに、日本では凶印として忌み嫌われるのに、香港では違うなんて。その違いはどこから生まれたの?)
そんなことを考えながら、校門をくぐった——まさに、その瞬間だった。
——ズズズズズズズッ……!!
地鳴りとともに、地面が激しく揺れたのだ。
ただの地震とは違う。
さらに、学園の奥から凄まじい衝撃波が駆け抜けた。
校舎全体を揺るがし、窓ガラスが次々と割れ落ちる。
「きゃああっ!?」
「な、なんだこの揺れは!?」
登校してきた生徒たちが悲鳴を上げて校庭にしゃがみ込む。
凛はハッと目を見開いた。
「あれは……!? 旧校舎の方角……?」
先ほどまでの青空を、どす黒く染めるほどの邪気が、爆風とともに噴き出すのが目視できた。
(何なの……あの恐ろしい邪気は……!?)
異変に気づいた教師たちが青ざめた顔で飛び出してきた。
「全員、校庭の中央へ避難しろ! みだりに校外へ出てパニックを起こしてはならん!」
「だが、生徒を優先して逃がせ! 早く!!」
(……指示が矛盾しているわね)
教師陣も元陰陽師ではあるが、現場を退いた者ばかりで、ここまでの緊急事態には対応しきれていない。
パニックによる将棋倒しといった二次被害を恐れて「留まれ」と言う者と、危険から「逃がせ」と言う者で混乱し、どうしていいか分からないのだろう。
日本の陰陽道の総本山である土御門省へはすぐさま通報がいったはずだ。
それでも精鋭の陰陽師たちが駆けつけるまでにはどんなに急いでも数十分以上かかるだろう。
だが——あの邪気の波動は、到底そんな時間を待ってはくれない。
(駄目……! あんな禍々しい邪気、放っておいたら学園だけじゃ済まない……! 街の方へ溢れ出してしまうわ!)
もし街へ漏れ出せば、無関係な一般の人々にどれほどの被害が出るか分からない。
(私なら……結界を張れるかもしれない)
自分が強力な浄化結界を張る力があるのは、分かっている。
実際の戦闘など経験したことはないけれど。
(私でも、術者たちが到着するまでの足止めくらいにはなるかもしれない……!)
「あっ……そこの生徒! そっちは危険だ! 戻りなさい!」
制止する教師の声を背に受けながら、凛は旧校舎に向かって全速力で駆け出した。
◇
旧校舎の敷地内は、息もしづらいほどの邪気が充満していた。
「邪気が噴き出している元は……第一図書室……?」
凛が普段よく過ごしている場所だ。
古い書物などの貴重な資料ばかりだが、ほぼいつも無人のはずだった。
入口に足を踏み入れると、肌を刺すような邪気が一層濃くなる。
奥へ進むにつれ、空気の重苦しさは増していった。
最奥には鍵のかかった扉があったはずだったが、頑丈な立ち入り禁止の鉄扉は内側から吹き飛ぶように崩れ落ちていた。
そこで凛の目に飛び込んできたのは、恐ろしい光景だった。
(あ、彩香……! 聡様!?)
「嫌……嫌あぁぁぁっ! 助けて! 聡様、私を助けなさいよ……!! うっ、うっ……」
「離せ! 離してくれぇっ! 俺は覇土山家の跡取りだぞ! 離せぇっ!」
薄暗い黒煙の中で半狂乱になって叫んでいるのは彩香と聡だった。
二人の体は、扉の奥から這い出るドロリとした黒い影の触手に絡め取られ、引きずり込まれそうになっている。
二人は一晩中、ここで狂暴な邪気に晒され続けたのだ。
髪は乱れ、目には強い絶望と恐怖の色が浮かんでいた。
そして、崩壊した地下階段の吹抜けから——。
——ググ……ガアアアアアアッ!!
「妖魔……!!」
大気の軋みとともに現れたのは、全高三メートルを超える赤黒い影。
牙を剥き出しにした異形の巨獣のシルエットが、禍々しい邪気を揺らめかせている。
図書室が吹抜け天井でなければ、その巨躯と圧迫感で部屋全体が崩壊していたかもしれない。
巨獣が吼えるたび、壁や本棚からパラパラと土砂や木片が崩れ落ち、強烈な邪気の爆風が吹抜けを駆け抜けた。
何本もの太い尻尾はぬらぬらと蠢く邪悪な触手と化しており、その先で彩香と聡をズルズルと引っ張り回している。
恐怖で足が竦みそうになるが、捕らわれている二人を放ってはおけない。
(とにかく、あの二人を助けないと……!)
凛は懐から霊符を三枚抜き取ると、指先に霊力を走らせた。
澄み渡るような青白い霊力が霊符の端から端まで走り、眩い光を放つ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前! 急々如律令!」
凛が霊符を放つと、札が空中で三角形状に展開した。
強い浄化の光を放つ断絶結界が、触手の周りに形成される。
バチバチと弾ける光に打たれ、二人を絡め取っていた邪悪な影の触手が霧散していく。
「ひいいっ!?」
拘束を解かれた彩香と聡は、腰を抜かしたまま地べたを這いずり、異形の巨獣から逃げ惑う。
獲物を取り逃した巨獣は激怒し、赤く血走った眼光をギョロリと凛に向けた。
——ガアアアッ!!
巨獣は大きな口を極限まで開いた。
凶悪な長牙をが剥き出しバイバイにして、凛を呑み込もうと頭上から襲いかかった。
「くっ……!」
凛は間一髪、数枚の霊符を扇状に投げ広げた。
青白い霊気の円陣が、凛を囲むように破邪結界を構築する。
これが最後の札だった。
もうこれ以上、打つ手はない。
巨獣の鋭い牙の一撃を結界が間一髪で受け止め、頭上から激しい衝撃が凛の身体に響く。
攻撃術を持たない凛にとって、結界は唯一の防御手段。
だが、暴走した影のパワーは凄まじく、ギチギチと音を立てて結界へメリメリとヒビが入っていく。
(もう駄目……押し潰される……っ!)
一人で支え続けるには限界を超えた力。
結界のヒビを噛み砕くように、恐ろしい牙が凛の眼前へ迫る——。
その絶体絶命の瞬間。
凛の左腕——対印のアザが、焼けつくような激しい熱を帯びて脈打った。
(アザが……熱い……っ!!)
危機に瀕した凛の切実な念が、対印の共鳴を通じて、遠く離れた鳳龍のもとへと一瞬で伝波していく——。
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