第十二話:封印の囁き
数日後の深夜——。
月明かりすら届かない覇羅野学園の旧校舎は、昼間とは打って変わって不気味な静寂に包まれていた。
第一図書室の最奥に、ひっそりと存在する固く閉ざされた扉。
それこそが、地下深くへと続く階段への入り口だった。
そこを、二つの影が忍び足で下りていく。
焦った足取りで進む花石彩香と、その後ろを懐中電灯で照らしながら追う覇土山聡だ。
「彩香……本当に大丈夫なのか? ここは立ち入り禁止区域だろう?」
「ふふふ、問題ありませんわ! 私たちはただ、偶然ここに迷い込んでしまったと言えば良いだけじゃありませんか。それにしても、本当にこんな秘密の通路があったなんて……! さすが、覇土山家の情報網は素晴らしいですわね」
パーティーの場で彩香が小耳に挟んだ、平安時代の禁書が眠るという地下書庫の噂。
さっそく聡にその話を打ち明けてみたところ、名門・覇土山家でもその噂は周知の事実だったらしく、第一図書室の奥に隠し通路が存在するという情報まであっさりと手に入ったのだ。
「こうなると、秘伝の術式が眠っているという話も、あながち嘘ではなさそうですわね!」
「だがなぁ……もし見つかったら停学どころじゃ済まないぞ……」
(まったく、なんて根性のない男なのかしら……! こんな頼りない男だと分かっていたら、お姉様からわざわざ奪ったりしなかったのに)
心の底で悪態を吐きながらも、彩香は可憐な笑みを張り付けた。
「そんな風に仰らないで……! いざとなったら、聡様が私を守ってくださるのでしょう?」
「ッ……あ、ああ! もちろんだ!」
上目遣いに見つめれば、聡はすぐに鼻の下を伸ばして奮起する。なんて単純で扱いやすい男なのだろう。
彩香は軽やかな足取りで階段を下り続けたが——その実、胸の内は黒い焦燥に狂いそうになっていた。
帝国ホテルでのあの屈辱は、忘れようにも忘れられない。
地味で見すぼらしい姉だと馬鹿にし続けてきた凛が、あの李家の御曹司の隣で絶賛されていたことが、どうしても許せなかった。
それに、このままでは今の贅沢な暮らしすら危うくなる。
彩香には、もう自力で霊符を書く気などさらさらなかった。
そもそも、霊符作成に必要な霊気操作がうまくできず、枚数をこなすことすら不可能なのだ。
それもこれも、すべて凛が簡単そうにやってのけていたのが悪いのだと、彩香は本気で責任転嫁していた。
(あの愚図でノロマなお姉様が毎日何十枚も作れていたんだから、簡単な仕事だと思うに決まってるじゃないの! お父様だってお母様だって、私のことを『天才』って言ってくれたんだから!)
——彩香の評価は、元を正せば陰陽道の知識など皆無な静江が作り上げたものに過ぎない。
ほぼ凛の成果を横取りする形だったからこそ、父親の巌もすっかり信じ込んでしまっていたのだ……という事実に、彩香自身はまるで気づいていなかった。
ともかく今や花石家は、原因不明のまま霊符の品質低下を理由に、破産寸前まで追い込まれているらしい。
一刻も早く秘伝の術式を手に入れなければ、自分の立場も財産もすべて失ってしまう。
激しい嫉嫉と焦り。
隣を歩く聡をちらりと盗み見るが、あの李鳳龍と比べてしまえば遥かに見劣りした。
(あっちの方が、断然格上よね……。だったら、それだって私がもらうべきじゃないかしら? だって、この私が、あのお姉様に負けるなんて絶対にあり得ないんだから)
身の程知らずな打算と欲望を滾らせながら、彩香は地下の暗闇へと突き進んでいった。
一方の聡もまた、心の奥底で激しい焦りに押し潰されそうになっていた。
パーティーの夜、弟・智樹から突きつけられた冷徹な指摘を、あれから事あるごとに思い返してしまうのだ。
そして何より、ステージ上で圧倒的な輝きを放っていた凛の姿……。
元々、覇土山家が花石家との婚姻を望んだ最大の理由は、その霊符の巨額の利権である。
呪具の精製や大規模な結界構築を主力とする覇土山家にとって、花石家の最高級霊符は自社の呪具の価値を何倍にも跳ね上げることのできる、喉から手が出るほど欲しい逸品。
だからこそ聡は、天才と謳われた彩香を選び、地味な凛を捨てたはずだったのだ。
(それなのに……もしも花石家があの霊符を作れなくなったとしたら? 智樹の言う通り、あの力がすべて凛のものだったとしたら……正当な跡取りとしての立場すら危うくなるのでは……!)
自分の選択が致命的な間違いだったかもしれないという恐怖。
それを打ち消すには、いまや自力で「誰も見たことがない巨大な力」を手に入れ、実力を証明するしかなかった。
(ここで古の秘伝の術式を手に入れれば、俺はもっと上に行ける。智樹も、父上も、俺を認めざるを得なくなるはずだ……!)
やがて二人が辿り着いたのは、重厚な鉄の扉の前だった。
古びた木札には『地下書庫』と刻まれている。
扉には注連縄が幾重にも巻き付けられ、厳重に封印されていた。
「ひ、酷いカビ臭さ……。でも、ここですわね……! 早くその封印を解いてくださいまし、聡様!」
「お、俺は結界術は専門外だ。封印を解くなら花石家の領分だろう? 得意の霊符を使ったらどうだ。さあ、彩香がやってくれ」
「えっ……ええ、まあ……」
聡に促され、彩香はおずおずと結界の前に立った。
ポケットから霊符を取り出し、呪文とともに霊気を注ごうとする。
「——臨・兵・闘・者……あっ!?」
しかし、霊符に気が乗るどころか、先端から霊気がボロボロと霧散し、印を結ぶ前に霊符そのものが弾けて燃え尽きてしまった。
すぐ後ろで見ていた聡は、驚愕に目を剥いた。
(な……なんだ今の拙さは……!?)
まともに気を巡らせることすらできず、呪力をコントロールできていない。
あまりにも、下手すぎる。
「あ、彩香……? その、今のは……」
「く、暗くて良く見えなかっただけですわ! あらいやだ、私ったらうっかりして予備の霊符を忘れてしまったようです。さ、次は聡様が術を使ってくださいませ!」
「…………」
花石家といえば、代々霊符を専門にしてきた家系のはずだ。
天賦の才を持つと持て囃されている彩香が、こんな基礎中の基礎の霊気操作すらまともにできないなんて。
冷や汗が出るような嫌な予感がよぎる。
もしや智樹の言った通り、あの完璧な特級霊符を書いていたのは、彩香ではなく——?
可憐で愛らしいと思っていた婚約者のメッキが、音を立てて剥がれ落ちていく。
その時だった。
『……クク……哀れよな……』
「ッ!? 誰だ!!」
地下書庫の暗闇の奥から、ゾッとするほど冷たい声が響き渡った。
姿はない。
ただ、肌を刺すような粘着質な邪気が、暗闇の中から二人を包み込んでいく。
『……力を欲しておるのだろう? 対印の主を捻り潰し、望むものをすべて手に入れるための絶対的な力を……』
「あ、あなた……一体誰なんですの……!? つ、対印って……?」
気味の悪さに腰が引きかけながらも、彩香は闇に向かって問いかけた。
姿なき不気味な声は、甘く、甘く耳元で囁きかけてくる。
『我が名は問うな……。そなたらの欲望は実に心地よい。……良いことを教えてやろう。そのような生ぬるい術式では、この封印は破れぬ。だが……そなたらの『血』と『憎悪』を結界の封じ目に捧げれば……扉は開く……』
「血と……憎悪……?」
『左様……。その力さえ手に入れば、あの生意気な対印の主共も……いや、全世界すらそなたらの膝下に平伏することになる……。その力……欲しくはないか……?』
その不吉な誘惑に、彩香の瞳から理性の光が消えていく。
「そ、それじゃあ、お姉様も、それに李鳳龍様も……私の思い通りに……? 聡様!! 早く血をお捧げになって!」
「えっ……血を!? い、いや、彩香、流石にそれは不気味すぎる——」
「何を日和ったことを! さあ、お早く!!」
引きつる聡を無視し、彩香は強引に聡の手を掴むと、えいっとばかりに聡の指先に噛み付いた。
「ぎゃっ! 彩香! 何をする!」
「私もするのですからお怒りにならないで!」
叫ぶ聡をよそに、自分も指先を噛み切る。
そして二人分の溢れ出る血を、注連縄の結び目へと強引に擦り付けたのだ。
——ギギギギッ……!
血が結界に染み込んだ瞬間、赤かった血がドロリと真っ黒に濁っていく。
欲望と憎悪に満ちた者の血は、強力な邪気を孕む。
そんな不浄な血で、封印を正しく解除することなど元より不可能だということを、二人は知らなかった。
——パンッ!
小さな不穏な爆発音を立て、弾け飛ぶ注連縄。
——ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
「な、なんだこの揺れは……!? 彩香、お前一体何を……!?」
「きゃああっ!? 結界が……壊れていきますわ!?」
乱暴に壊された封印の亀裂から、永きに渡り閉じ込められていた黒い瘴気が激しい爆風となって吹き出した。
「そんなっ……! さ、聡様! 逃げますわよ!」
彩香と聡は腰を抜かさんばかりになり、そのまま一目散に逃げ出そうとする。
——けれど、扉の奥から影のような触手が伸び、目にも留まらぬ速さで二人を捕らえる。
『……フハハ……見事だ……。これですべてが整った……』
二人を唆した正体不明の声は、満足気な嘲笑を残し、闇の中へ消え去った。
その場には、咆哮を上げて扉から出ようとする巨大な暗黒の影と、囚われた彩香と聡だけが残される。
覇羅野学園を揺るがす、最悪の「妖魔騒動」の幕が上がろうとしていた——。
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