第九話 地下の不穏な扉は、雨漏りと寝床と飯の次
俺が呟くと、リュミエラは封じられた扉から目を離さないまま、小さく頷いた。
黒い鉄鎖は、古びた砦の他のものと明らかに違っていた。錆びてはいる。けれど、長年ここに放置されていたような朽ち方ではない。
あとから誰かが来て、この扉だけを封じた。
そう思うと、背筋に冷たいものが走る。
「開けますか」
リュミエラが言った。
声は静かだったが、指先は外套の端をきつく握っている。
「開けない」
「えっ」
「いや、そこ驚くところか?」
「カナタなら、こういうものを見ると、気になって開けてしまうのかと」
「俺を何だと思ってるんだ」
「廃墟にロマンを感じる方です」
「反論しにくい」
コハクが扉に向かって低く唸った。
その声で、俺の中の好奇心は完全に萎んだ。猫がここまで警戒しているものを、装備も準備もない状態で開けるほど、俺は勇者ではない。
少なくとも、レギオンの面接に七回落ちた野良冒険者に過ぎない自覚はある。
「今日は触らない。まずはここで本当に寝られるかどうかだ。地下の不穏な扉は、雨漏りと寝床と飯の次」
「飯より後なのですね」
「飯より前に置いたら、たぶん俺たちが先に倒れる」
「それは、そうかもしれません」
リュミエラはようやく扉から視線を外した。
ただ、その顔色はあまりよくない。地下から漂う嫌な気配のせいか、昨日からの疲労のせいか、あるいは両方か。
俺は扉と廊下の間に、壊れた長机を引きずって置いた。
ぎぎ、と床に嫌な音が響く。
「封鎖、ですか」
「気休めだけどな。あと、コハク」
「にゃ」
「ここ、近づかない。いいな」
コハクは尻尾を一度大きく振った。
返事としては、まあまあ信用できる方だ。
そこから、俺たちは広間へ戻った。
旧監視砦をそのまま拠点にするには、問題が多すぎる。
だが、一晩だけ雨風をしのぐ場所としてなら、どうにかなりそうだった。広間の壁は厚く、暖炉も残っている。煙突が詰まっていないかは確認が必要だが、火を焚けるなら夜の冷えはしのげる。
問題は、埃と草と、よくわからない小動物の痕跡だった。
「まず、寝る場所を作る」
「はい」
「次に、窓を塞ぐ」
「はい」
「それから、暖炉が使えるか見る」
「はい」
「湯浴み場は明日以降」
「……はい」
今、少し返事が遅れた。
湯浴み場への信頼が、思った以上に厚い。
「そんな顔するな。水場が使えるか見ないと、湯も沸かせないだろ」
「それは理解しています」
「じゃあ、今日は生存優先で」
「わかりました」
リュミエラは素直に頷いた。
ただし、少しだけ残念そうだった。
追放された元聖女が、廃墟で湯浴み場の有無に落ち込んでいる。
普通に考えれば大変な状況だが、俺はなぜか少し安心した。自分の身体を清潔にしたいと思えるのは、生きる方へ意識が向いている証拠だと思えたからだ。
俺は外へ出て、壊れた厩舎から使えそうな板を運んだ。
重い。古い木材は水を吸っていて、持ち上げるだけで腕に嫌な負荷がかかる。けれど、寝床の下へ敷けば石床の冷たさを多少は遮れる。
リュミエラは広間の隅で、古い布を広げ、埃を払っていた。
まだ足取りは頼りないが、何もしないでいるよりは落ち着くらしい。
「無理するなよ」
「はい。軽いものだけにします」
「軽いものだけ、な」
「はい」
そう言いながら、彼女は壊れた棚板を持ち上げようとした。
「それ軽くない!」
「見た目よりは」
「見た目通りに重いだろ」
慌てて取り上げると、リュミエラは少しだけ気まずそうに手を引いた。
「……すみません。じっとしていると、余計なことを考えてしまって」
その声で、怒る気は消えた。
昨日まで首都にいた元聖女が、今は廃墟の埃を払っている。考えない方が難しい。
「じゃあ、布を畳む係で」
「係」
「重要な役だ。布がないと寝床が完成しない」
「……はい」
リュミエラは真面目に頷き、古布を一枚ずつ畳み始めた。
丁寧すぎるくらい丁寧だった。端と端を合わせ、皺を伸ばし、破れた箇所を避けるように折る。神殿でそういう所作を叩き込まれたのかもしれない。
俺はそれを横目で見ながら、床の埃を箒代わりの枝で掃いた。
埃が舞う。
「げほっ」
「カナタ、大丈夫ですか」
「大丈夫。ちょっと廃墟の歓迎を受けただけだ」
「歓迎が粉っぽいです」
「かなり粉っぽい」
コハクが広間の中央を歩き、埃を避けるようにぴょんと机の上へ飛び乗った。
そして、まだ掃除していない場所で丸くなる。
「お前が一番働いてない」
「にゃ」
「監督のつもりか」
「にゃ」
「鳴き方が偉い」
リュミエラが、畳んだ布を膝に置いたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った、と言うには控えめすぎる。けれど、確かに空気が柔らかくなった。
日が傾く頃には、広間の一角だけはどうにか人のいる場所らしくなった。
板を敷き、その上に古布と外套を重ねる。窓穴には壊れた棚板を立てかけ、隙間には草と布を詰めた。暖炉の煙突は途中で鳥の巣が詰まっていたので、長い枝でどうにか掻き出した。
火を入れると、最初は黒い煙が逆流してきた。
「うわっ、目が!」
「カナタ、こちらへ!」
「にゃっ!」
三人で広間の外へ逃げた。
しばらくしてから戻ると、煙はなんとか上へ抜け始めていた。
暖炉に小さな火が灯る。
ぱちぱちと薪が鳴り、冷えていた石壁に橙色の光が揺れた。
「……おお」
俺は思わず声を漏らした。
さっきまでただの廃墟だった広間が、火ひとつで少しだけ違って見える。
人がいる場所になった。
帰ってくる場所、とまではまだ言えない。
けれど、今夜を越える場所にはなった。
「すごいですね」
リュミエラが小さく言った。
暖炉の火を見つめる横顔に、淡い橙色が落ちる。銀髪も白い装束もまだ汚れている。それでも、彼女の頬にはわずかに色が戻っていた。
「火があるだけで、こんなに違うんですね」
「文明って偉大だな」
「文明」
「前世では、ボタンひとつで部屋が暖かくなった」
「……それは魔法ですか」
「ある意味、魔法よりすごいかもしれない」
リュミエラは不思議そうに俺を見た。
説明すると長くなるので、俺は笑ってごまかした。
そのとき、腹が鳴った。
俺のだ。かなりはっきり鳴った。
「……」
「……」
「にゃ」
沈黙の中で、コハクだけが何か言いたげに鳴いた。
「いや、仕方ないだろ。朝から硬いパンと薄い粥だけだぞ」
「責めていません」
「顔がちょっと責めてた」
「驚いただけです」
リュミエラは膝の上に置いていた小さな包みを見た。
宿を出るとき、女将が安く分けてくれた食材だ。硬くなったパン。少量の干し肉。玉ねぎに似た小さな野菜。乾燥した豆。味は期待できないが、何もないよりはましだった。
「カナタ」
「ん?」
「調理場を、もう一度見てもよろしいですか」
俺は瞬きをした。
「調理場?」
「はい。竈は壊れていますが、鍋は使えそうなものがありました。水も、井戸が生きていればどうにかなります」
「でも、お前まだ疲れてるだろ」
「座ってできることだけにします」
「本当か?」
リュミエラの顔は真剣だった。
昨日からずっと、彼女は何かを受け取ってばかりだと思っているのかもしれない。助けられ、運ばれ、宿代を払われ、寝台を譲られ、廃墟まで連れてこられた。
だから、何か返そうとしている。
止めるべきか迷った。
だが、何もさせないことが優しさとは限らない。
「わかった。ただし、無理はしない。立ちっぱなしは禁止。重い鍋は俺が持つ。コハクは食材を盗まない」
「にゃ」
「今のは返事じゃなくて不服だな」
リュミエラは、包みをそっと持ち上げた。
暖炉の火を受けて、彼女の横顔が少しだけやわらぐ。
「では、簡単なものですが、作ります」
廃墟の広間に、初めて食事の気配が生まれようとしていた。
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