第八話 いかにも始まりの拠点っぽい感じ
旧監視砦へ向かう道は、想像していたよりも細い。
宿の女将に教えられた通り、西の小道を進む。
街道から外れた途端、人の気配は一気に薄くなった。踏み固められていた土はやがて草に覆われ、馬車の轍も見えなくなる。道端には背の低い灌木が増え、時々、枝がリュミエラの白い装束を引っかけた。
「すみません、少し待ってください」
リュミエラが裾を押さえて立ち止まる。
昨日よりは歩けているが、まだ足取りは頼りない。宿の女将が貸してくれた古い外套を羽織っているせいで、銀髪と白い装束は少し隠れていた。それでも、見る人が見れば目立つだろう。
「無理するな。急いでるわけじゃない」
「ですが、日が暮れる前に戻るよう言われています」
「戻るとは限らない」
「そこは戻る前提で考えてください」
リュミエラの声に、昨日より少しだけ力がある。
良いことだ。
ただし、その力が主に俺への現実的な指摘として発揮されているのは、喜ぶべきか迷うところだった。
コハクは先頭を歩いていた。
尻尾を立て、時々こちらを振り返る。まるで自分が案内役だとでも言いたげだ。実際、俺だけではこのあたりの看板も標識も読めないので、だいたい合っている。
「コハク、道は合ってるか」
「にゃ」
「よし、信用する」
「……猫の返事だけで道を決めるのですか」
「この猫がいないと、俺はこの世界の文字が読めない」
「そうなんですね」
「かなり重大な弱点だから、もう少し驚いてくれてもいい」
「驚くことが多すぎて、順番が回ってきません」
それはそうかもしれない。
元聖女が追放され、謎のヒロインスキルで月光戦姫になり、今は廃墟見学へ向かっている。冷静に並べると、初対面から一日で情報量が多すぎる。
壊れた石橋を渡る頃には、空気が少し変わった。
湿った森の匂いが強くなる。土の下で朽ちた葉がじっと水を含んでいるような、重い匂いだ。風が通るたび、木々の上で葉が擦れ合い、遠くから獣とも鳥ともつかない声が聞こえた。
リュミエラが外套の前を握る。
「戻るなら今だぞ」
「いえ。見てから決めると約束しました」
「律儀だな」
「約束ですから」
その言い方が、少しだけ聖女らしかった。
いや、元聖女らしいと言うべきなのか。
どちらにせよ、彼女は一度口にしたことを簡単には曲げない人間なのだろう。
丘を登ると、森の端が開けた。
そこに、旧監視砦はあった。
第一印象は、思ったより砦だった。
第二印象は、思った以上に廃墟だった。
丘の上に建つ石造りの建物は、半分ほど壁が残っている。四角い塔の上部は崩れ、斜めに欠けた輪郭が空へ突き出していた。外壁には蔦が絡み、割れた窓穴からは草が顔を出している。
正面の門は片側だけ残っていた。もう片方は地面に倒れ、苔と土に埋もれている。門の上に刻まれていた紋章らしきものは風化して、何の形だったのかよくわからない。
「おお……」
俺は思わず声を漏らした。
「想像より、いいな」
「どの部分がですか」
「この、いかにも始まりの拠点っぽい感じが」
「私は、いかにも修繕費がかかりそうだと思いました」
「視点の違いがすごい」
リュミエラは真剣に砦を見ていた。
崩れた壁、抜けかけた屋根、門の横に積もった瓦礫。彼女の目はひとつひとつの問題点を拾っている。
俺の目は、ここに看板をかける未来を見ている。
たぶん、今のところは彼女の方が正しい。
コハクが門の内側へ入っていく。
俺たちも後を追った。
中庭は思ったより広かった。
草は腰の高さまで伸び、ところどころに割れた石畳が覗いている。井戸らしき石組みもあったが、蓋がずれていて中は見えない。厩舎だったと思われる小屋は屋根が半分落ちていた。
正面の建物は二階建てだったらしいが、二階部分の床は一部抜けている。
歩くたび、靴の下で枯れ草と小石が鳴った。
「まず確認することがあります」
リュミエラが言った。
「はい」
「屋根」
「はい」
「壁」
「はい」
「寝床」
「はい」
「台所」
「はい」
「湯浴み場」
「やっぱりそこ入るんだ」
「入ります」
即答だった。
追放された元聖女が廃墟で真っ先に確認する項目として、湯浴み場はかなり現実的だ。
いや、むしろ男とは違うんだから、当然か。
「わかった。順番に見る」
俺は腰の剣に手を添えながら、正面の建物へ入った。
中は、外観よりはましだった。
入口近くの広間は天井が高く、片側の壁に大きな暖炉がある。床は埃だらけだが、石床なので抜ける心配はなさそうだ。壁際には壊れた長机が転がり、古い棚の中には割れた皿が何枚か残っていた。
雨漏りの跡はある。
天井の梁に黒い染みが広がり、床にも水が流れた跡が筋になっていた。ただ、完全に水浸しというわけではない。
「どうだ」
「掃除をすれば、一部屋くらいは使えるかもしれません」
「おお、前向き判定」
「ただし、窓は塞ぐ必要があります。夜は冷えますし、魔物や獣が入ってきます」
「はい」
「寝台はありません」
「作る」
「台所も、そのままでは使えません」
「直す」
「湯浴み場は」
「探す」
リュミエラの目が、少しだけ厳しくなった。
「いや、ほら! 前の世界じゃ『DIY』とか言って、自分で家をリフォームするのが大流行してたんだって!! 自分の手で拠点を作るのって、最高にワクワクしないか!?」
「でぃー、あい、わい……?」
もしこの異世界に動画配信のシステムや魔導具があったなら、廃墟再生のDIY配信でもして一攫千金を狙いたいところだが、残念ながらそんな都合の良い世界線ではないことがひたすら悔やまれる。
「本当に探しますか」
「探す。約束する。俺の拠点構想に、湯浴み場を正式採用する」
「正式採用」
「最強レギオンには清潔感も必要だ」
「それは、とても大切だと思います」
真面目に頷かれた。
勢いで言ったのに、意外と重要事項になってしまった。
広間の奥には、古い調理場があった。
石造りの竈があり、水場らしき場所もある。水は出ない。配管も途中で壊れている。だが、完全に作り直すよりは希望がある。
リュミエラは調理場を見て、少しだけ表情を変えた。
「ここは、手を入れれば使えそうです」
「料理できるのか」
「多少は」
「多少って、どのくらい」
「神殿では自分で作ることもありました。儀式の前は、食事を選べませんでしたから」
軽く言ったつもりなのだろう。
けれど内容は軽くない。
俺は聞き返しかけて、やめた。
今は全部を掘る場面ではない。
「じゃあ、いつかここで飯を作ってくれ」
「食材があれば」
「そこは俺が稼ぐ」
「……では、まずは稼がなければいけませんね」
「痛いところを突くな」
コハクが調理場の隅を嗅ぎ、くしゃみをした。
埃っぽいらしい。
二階へ続く階段は、途中で木が腐っていた。
踏めば抜けそうなので、今日は上がらないことにする。
錆びた金具で閉ざされていた、地下室へ続く扉。
その一番奥。
崩れた廊下の先に、不自然に新しい鎖で封じられた扉があった。
古い砦には似合わない、黒い鉄鎖。
錠前には、見慣れない印が刻まれている。
石壁の周囲だけ、なぜか蔦が避けるように生えていなかった。
「……これは?」
俺が近づこうとした瞬間、コハクが低く唸った。
猫が唸る声は、普段の鳴き声とはまったく違う。
喉の奥で石を転がすような音だった。
背中の毛が逆立ち、尻尾が太くなる。
「コハク?」
コハクは扉を睨んだまま動かない。
リュミエラも顔を強張らせていた。
彼女は胸元を押さえ、ゆっくり息を吸う。
「この扉の奥……少し、嫌な感じがします」
「魔力か?」
「魔力というより、祈りが腐ったような……すみません。うまく言えません」
祈りが腐ったような。
元聖女が言うと、洒落にならない表現だった。
俺は扉の前で足を止めた。
触れてはいない。
それでも、指先に冷たいものが這い上がってくるような気がした。
見れば、錠前の印がほんの一瞬だけ、黒っぽく濡れたように光る。
古い廃墟。
かつて大レギオンが使っていた始まりの拠点。
そして、誰かがあとから封じたらしい地下への扉。
俺は喉を鳴らした。
「……これ、ただの雨漏り物件じゃなさそうだな」
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