第七話 財布が簡単に死ぬ
街道沿いの宿に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
宿と言っても、旅人向けの安い建物。
木の壁はところどころ黒ずみ、廊下には古い油と干し草の匂いが染みついている。部屋の窓は少し歪んでいて、閉めても細い風が入った。
それでも、屋根がある。壁がある。薄い毛布もある。
草原で夜を明かすよりは、何百倍もいい。
「本当に、私は寝台を使ってもよろしいのですか」
「むしろ使わない理由がないだろ」
リュミエラは、安宿の寝台を前にして困ったように立っていた。
肩の傷はポーションで塞がったが、体力までは戻っていない。顔色もまだ悪い。白い装束は宿の女将が貸してくれた古布で軽く拭いたが、泥と血の跡は残っている。
それでもリュミエラは、俺が床で寝ることを気にしているらしい。
「ですが、カナタもお疲れでしょう」
「俺は床で寝られる。前世で徹夜の仮眠を何度も床で取った男だ」
「それは自慢してよいことなのでしょうか」
「よくない」
リュミエラが、困ったように瞬きをした。
笑うにはまだ遠い。けれど、声からは少しだけ硬さが抜けている。
コハクはというと、当然のように寝台の中央へ飛び乗り、丸くなっていた。
「おい。お前は床だろ」
「にゃ」
「一番いい場所を取るな」
「……コハク様も、お疲れなのでは」
「こいつに様はいらない。調子に乗る」
「にゃ」
コハクは、乗って何が悪いと言いたげに尻尾をぱたりと振った。
リュミエラはそれを見て、ほんの少しだけ目元を緩める。
ほんの少し。でも、その表情を見ただけで、この猫には寝台の半分を貸してもいい気がした。
いや、半分は貸しすぎだ。
その夜、俺は床に外套を敷いて寝た。
板張りは硬く、背中に節が当たる。隙間風は冷たい。隣の部屋のいびきは大きい。
だが、寝台の方から聞こえる細い寝息を聞いていると、少なくとも今夜だけはこれでいいと思えた。
コハクがいつの間にか俺の腹の上へ移動してきたせいで、朝にはかなり内臓を圧迫されていたが。
翌朝。
安宿の食堂で、俺たちは薄い麦粥と硬いパンを食べていた。
粥は塩気が足りない。パンは噛むほど顎が鍛えられる。コハクは俺のパンを狙っていたので、端を少しだけちぎってやった。
「本当に、首都へは向かわないのですね」
リュミエラが湯気の立つ椀を両手で包みながら言った。
声は小さい。周囲の客に聞かれないよう、意識しているのだろう。
安宿の食堂には、商人らしき男が二人、護衛らしき女が一人、眠そうな旅人が数人いる。誰もこちらを気にしていないように見えるが、油断はできない。
「ああ。首都は危ない。神殿も王宮も、お前を守ってくれる場所じゃなさそうだ」
「……はい」
リュミエラは椀の中へ視線を落とした。
麦粥に浮いた小さな豆を、木匙でゆっくり沈める。食欲はないのだろう。それでも、少しずつ口へ運んでいる。
昨日よりはいい。
生きる気力があるかどうかはわからない。けれど、少なくとも身体は生きようとしている。
「だから、まず安全な場所がいる」
「宿では、いけませんか」
「財布が死ぬ」
「……死ぬのですか」
「かなり簡単に死ぬ。昨日の宿代で、俺の懐は瀕死だ」
俺は銅貨の入った袋を軽く振ると、ちゃり、と悲しい音がする。
リュミエラが真面目な顔でそれを見た。
「私のせいで」
「その言い方は禁止」
即答すると、リュミエラの肩が小さく跳ねた。
少し強かったかもしれない。
俺は息を吐き、声を落とす。
「昨日使ったポーションも宿代も、俺が自分で決めて使った。お前のせいじゃない」
「ですが」
「それに、もともと金はない。七回落ちた男の標準装備だ」
「標準装備にしてはいけないものでは」
「そこは正しい」
コハクが俺のパンを前足で引き寄せようとした。
その前足を軽く押さえる。
「にゃ」
「お前も標準装備みたいな顔で人の飯を取るな」
リュミエラは小さく瞬きをして、それから木匙を口へ運んだ。
わずかに、口元が和らいだ気がした。
「とにかく、安くて、人目が少なくて、首都から離れていて、魔物の襲撃にも多少耐えられて、できればレギオン設立の拠点として登録できる場所がいる」
「条件が多くありませんか」
「多い。だから困ってる」
俺は食堂の壁に貼られた古い地図を見る。
この宿は首都から少し離れた街道沿いの集落にある。南へ行けば小さな町。西へ抜ければ森。北東へ戻れば首都。
地図の端には、ところどころ赤い墨で危険地帯が書き込まれていた。
その中のひとつに、目が止まる。
「旧監視砦……?」
地図の西側。
森と丘陵地帯の境目に、小さな砦の印がある。横には、すでに使われていないことを示す斜線が引かれていた。
「そこはやめときな」
声をかけてきたのは、食堂の奥で皿を拭いていた女将だった。
丸い体つきの中年女性で、腕は俺より太い。昨日、リュミエラに古布を貸してくれた人だ。
「旧監視砦は、もう何年も前から放置されてるよ。屋根は抜けてるし、壁は崩れてるし、夜になると獣の声がする。まともな旅人は近づかない」
「つまり、安い?」
「そういう聞き方をするんじゃないよ」
女将が呆れた顔をする。
だが俺には重要だった。
まともな旅人が近づかない。首都から離れている。森に近い。古い砦なら、壁も少しは残っているかもしれない。屋根は問題だが、宿代で財布が死ぬよりは修理した方がましだ。
「レギオン管理の空き拠点なんですか」
「一応ね。だけど、借り手なんていないよ。前に使ってた連中が出ていってから、ほとんど廃墟だ」
「前に使ってた連中?」
俺が聞くと、女将は皿を拭く手を止め、少しだけ声を低くする。
「今じゃ王都でも名の知れた大レギオンさ。まだ小さかった頃、あそこを最初の拠点にしてたって話だよ。もっとも、本人たちはその頃のことをあまり話したがらないらしいけどね」
俺の中で、何かが音を立てた。
廃墟。旧監視砦。今では大レギオンになった連中の、最初の拠点。
それはもう、完全に始まりの場所ではないか。
物語だったら、最初に拾うボロい拠点だ。雨漏りして、隠し地下室があって、あとから改修していくやつだ。最終的には立派な本部になって、仲間が増えて、食堂ができて、鍛錬場ができる。
よくないか。
かなりよくないか。
「カナタ」
リュミエラの静かな声で、現実へ戻された。
「今、とても危険な顔をしていました」
「だってさ、あの最強のレギオンが始まった伝説の場所から、俺たちもスタートするなんて、なんだかめちゃくちゃ燃えないか?」
「燃える、とは……どういう意味ですか?」
「つまり、ロマンがあるってことだよ」
「……廃墟に対して、心が燃えるのですか? 廃墟そのものが物理的に燃えるんではなく?」
「いや、物騒だな!? 縁起でもないから燃やすなよ! 家がなくなんだろ!」
この元聖女様は、サラッと恐ろしいことを言い出すから困る。
「たぶん、そのロマンは雨漏りします」
「雨漏りは直せばいい」
「壁も崩れているそうです」
「積めばいい」
「獣の声もするそうです」
「追い払えばいい」
「寝台は」
「作る」
「台所は」
「作る」
「湯浴み場は」
「……作る」
少し間が空いた。
リュミエラの目が細くなる。
「今、湯浴み場の優先度を下げようとしましたね」
「いや、してない。かなり重要だと思っている」
「本当ですか」
「本当だ。人間には湯が必要だ。猫は知らん」
「にゃ」
コハクが抗議するように鳴いた。
お前、水嫌いだろ。ぺろぺろしてれば十分だ。
女将は俺たちのやり取りを見て、豪快に笑った。
「若いねえ。まあ、見るだけなら勝手にしな。ただし、夜になる前には戻ってきなよ。あそこは本当に、物好きしか行かない場所だからね」
「物好きには多少自信があるからな」
「そこは自信を持つところじゃないよ」
女将は呆れながらも、古い道順を教えてくれた。
西の小道を進み、壊れた石橋を越え、森へ入る手前の丘を登る。そこで見える古い塔が目印らしい。
リュミエラはまだ不安そうだった。
当然だ。昨日まで追われ、倒れ、謎の力まで使わされた少女に、今度は廃墟へ行こうと言っているのだから。
冷静に考えると、俺でも怪しいと思う。
「リュミエラ」
「はい」
「嫌なら、別の場所を探す。俺はあそこにロマンを感じてるけど、お前が怖いなら行かない。最低限、見てから決める。だめならだめで、また考える」
リュミエラは椀を置き、膝の上で指を重ねた。
細い指先には、昨日の泥がまだ少し残っている。完全には落ちていない。けれど、彼女はそれを隠そうとはしなかった。
「……見てから、決めるのですね」
「ああ」
「では、私も行きます」
「無理はするなよ」
「はい。ただ、寝床と湯浴み場は確認します」
「そこ、絶対なんだな」
「絶対です」
力は弱い。それでも、はっきりした返事だった。
少なくとも昨日よりは、彼女の中に選ぶ意思がある。
俺は椀の残りをかき込み、立ち上がった。
パンの最後の欠片をコハクが素早く奪う。
「あっ、お前!」
「にゃ」
「まあいい。景気づけだ」
俺は壁の地図へもう一度目を向けた。
旧監視砦。誰も近づかない廃墟。かつて大レギオンの始まりになった場所。
もしもそこが本当に使えるなら、俺たちにとっても最初の場所になるかもしれない。
「うん、決めた」
リュミエラとコハクが、同時にこちらを見る。
「俺は、あそこを拠点にする」
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