第十話 今までこの世界で食べた飯の中で一番美味い
そう言ったリュミエラの顔は、さっきまでより少しだけ引き締まっていた。
戦うときの顔ではない。誰かに命じられた聖女の顔でもない。
自分で決めたことをやろうとしている、人間の顔だった。
「本当に大丈夫か」
「はい。座ってできることだけにします」
「その言葉、さっき棚板を持ち上げようとした人間から聞いてるから、信用が薄いんだよな」
「今度は本当です」
リュミエラは素直に頷く。
コハクは包みの中の干し肉を凝視している。
今にも盗み食いしそうに見え、包みを胸に抱え調理場へ向かった。
石造りの調理場は、昼に見たときより暗く感じた。
壁に残る煤の跡は古く、竈の口には乾いた蜘蛛の巣が張っている。水場らしき石の流しには、枯れ葉と砂が溜まっていた。割れた皿、錆びた金具、底に穴の空いた鍋。
まともに使えるものは少ない。
だが、隅に置かれていた鉄鍋は、底を叩くと鈍い音がしただけで、穴は空いていなかった。
「これ、使えそうだな」
「少し洗えば、使えると思います」
「洗う水が問題だ」
「井戸を確認しましょう」
中庭の井戸は、ずれていた蓋を二人で押し戻すと、中から冷たい空気が上がってきた。
覗き込むと、暗い底に水面らしき光がある。
石を落としてみる。
しばらくして、ぽちゃん、と音が返ってきた。
「生きてる」
「よかったです」
「でも飲めるかどうかは別問題だな」
「煮沸しましょう」
「それはわかるんだ」
「神殿では、巡礼先で水を使うこともありましたから」
聖女の知識なのか、旅の知恵なのか。
リュミエラは細い腕で縄を引こうとしたが、俺が慌てて止めた。
「重いものは俺って言っただろ」
「すみません」
「謝るほどじゃない。座って監督してくれ」
「監督」
「コハクよりは働く監督で頼む」
「にゃ」
どこからか不満げな声がした。
振り返ると、コハクは井戸の縁に前足をかけて、水面を覗いている。落ちそうで怖いので、首根っこを掴んで下ろした。
井戸水は冷たい。
手桶の中で揺れる水に指を入れると、骨まで冷えるような感覚が走る。顔を洗えば眠気が飛びそうだ。
俺は鍋と包丁代わりの短剣、使えそうな皿を洗った。リュミエラは椅子代わりの木箱に腰を下ろし、干し肉を細く裂いていく。
その手つきはゆっくりだが、丁寧だった。
硬い肉を繊維に沿ってほぐし、小さな野菜の泥を濡らした布で拭き、傷んだところを切り落とす。乾燥豆は水に浸してから、割れたものだけを選り分ける。
「うわ、ちゃんとしてる」
「ちゃんと、とは」
「いや、俺なら全部まとめて鍋に入れて煮る」
「それでも食べられるとは思いますが、あまり美味しくはならないかと」
「美味しくする気があるんだな」
「食べるなら、美味しい方がいいです」
ごく当たり前の言葉。
でも、リュミエラがそれを言ったことに、俺は少しだけ安心した。
美味しい方がいい。
食べることに、まだそう思えるならいい。
調理場の竈に火を入れるのは、暖炉より少し面倒だった。
乾いた枝と細く割った板を組み、火種を移す。最初は煙がこちらへ流れてきて、目が痛くなった。だが、しばらくすると熱が安定し、鍋底に小さな泡が湧く。
水が沸く音が、静かな調理場に広がる。
リュミエラは干し肉を先に入れた。
鍋の中で肉がほぐれ、じわじわと色が変わっていく。塩気と燻した香りが湯気に混ざり、空腹の腹を容赦なく刺激した。
次に、薄く切った野菜。
玉ねぎに似ているが、少し甘い匂いがする。熱が通るにつれて、干し肉の塩気と混ざり、調理場の空気が急に食べ物の匂いへ変わった。
「……すでに美味そう」
「まだです」
「まだなのか」
「まだです。豆が柔らかくなるまで待ちます」
鍋を見つめるリュミエラの横顔は、さっきまでよりずっと生き生きして見える。
いや、生き生きというほど大きな変化ではない。
けれど、少なくとも今の彼女は、自分ができることをしている。
それだけで、草原で倒れていたときとはまったく違う。
コハクが鍋の周囲をうろうろする。
「コハク、近い」
「にゃ」
「尻尾を鍋に入れるな」
「にゃ」
「返事だけはいいんだよな、お前」
リュミエラが木匙で鍋を混ぜながら、ふと俺を見た。
「カナタは、前の世界では料理をされていたのですか」
「最低限だな。焼く。温める。あと、袋を開ける」
「袋を開ける」
「前世には、開けて温めるだけで食べられる食事があった」
「それは、とても便利ですね」
「便利だった。あと味が安定してた。疲れ切った夜に食べる温かい飯は、だいたい正義だ」
リュミエラは、少しだけ考えるように視線を落とす。
「神殿では、食事は決められていました」
「儀式の前とか?」
「はい。身体を軽く保つため、香草と薄い粥だけの日もありました。祝福を行う日は、口にできるものが限られていて……慣れていましたが、美味しいと思うことはあまりありませんでした」
木匙が、鍋の底を静かになぞると、湯気が彼女の頬を包んだ。
「でも、厨房の方がこっそり余った野菜を分けてくださったことがありました。小さく切って、塩と一緒に煮るだけでしたが、とても美味しかったのを覚えています」
「それで料理できるのか」
「それがきっかけです。祈ること以外に、自分の手で誰かの役に立てるのが、少し嬉しかったので」
何と言えばいいんだ、これ。
聖女として祝福を与えることより、こっそり野菜を煮ることの方が、彼女には自分の手応えとして残っていたのかもしれない。
「じゃあ、これはリュミエラの力だな」
俺が言うと、彼女は不思議そうに目を上げた。
「聖女の力でも、月光戦姫型でもなく、リュミエラ本人の」
リュミエラの手が止まった。
鍋の中で、豆が小さく揺れている。
「……料理くらいで、大げさです」
「その料理くらいで、俺は今かなり救われそうなんだけど」
「お腹が空いているからでは」
「それもある」
正直に言うと、リュミエラは目を伏せた。
けれど、嫌そうではない。
しばらく煮込んでから、彼女は乾いた香草を指先で砕いて鍋へ落とす。
湯気の匂いが変わる。
干し肉の燻した香りに、青く清涼な香草の匂いが重なった。質素な材料のはずなのに、急にちゃんとした料理の気配がした。
「味見をお願いします」
「重大任務だな」
「はい」
木匙で少しだけすくい、口に入れる。
「熱っ」
舌を火傷しそうになって、慌てて息を吹く。塩気は強すぎず、干し肉の旨味が湯に溶けている。
野菜はとろりと甘く、豆はまだ少し硬いが、噛むとほくりと崩れた。
喉を通ると、腹の底に温かさが落ちていく。
「……美味い」
声が勝手に出た。
「本当に?」
「本当に。安宿の薄い粥より百倍美味い」
「比較対象が少し低い気がします」
「じゃあ、今までこの世界で食べた飯の中で一番美味い」
リュミエラは目を瞬かせた。
それから、困ったように視線を逸らす。暖炉の火ではない。調理場の竈の熱でもない。彼女の頬に、かすかに赤みが差していた。
「大げさです」
「そうか?でも美味い」
リュミエラは小さく息を吐いた。
怒っているのではない。どう受け取ればいいかわからない、という顔だった。
木椀にスープをよそい、広間へ運ぶ。
暖炉の前に板を置き、そこを卓代わりにした。椅子はないので、敷いた布の上に腰を下ろす。コハクには干し肉を細かくしたものを少しだけ分けた。
少しだけのはずだったが、こいつは目を離した隙に俺の椀にも鼻を近づけてきた。
「こら」
「にゃ」
「お前、さっき自分の分もらっただろ」
「コハクさんも、美味しいと思ってくれたのでしょうか」
「たぶん。かなり強く思ってる」
様よりはランクが落ちているけど、コハクさん。
リュミエラは木椀を両手で包んだ。
熱を確かめるように、指先が椀の丸みに触れている。
そして、ほんの少しだけスープを口にした。
「……温かいです」
それは味の感想ではなかった。
けれど、彼女の声には、いくつもの感情が重なっていた。
空腹。疲労。安堵。戸惑い。
そして、たぶん、まだ認めるには早い小さな安心。
「温かい飯は偉いからな」
「偉い、のですか」
「かなり偉い。寒い日と疲れた日と落ち込んだ日は、温かい飯の評価が跳ね上がる」
「では、今日は高評価ですね」
「最高評価だな」
リュミエラは椀に視線を落としたまま、黙っていた。
俺も急かさず、スープを食べる。
干し肉と豆だけの簡素なスープなのに、身体に染みた。昨日から張っていた神経が、湯気にほどけていくような気がする。
暖炉の火が、ぱち、と鳴る。
外では風が廃墟の壁を撫でていた。窓穴を塞いだ板の隙間から、細い風が入り込む。それでも、火の前は温かい。
「カナタ」
「ん?」
リュミエラが、木椀を両手で持ったまま俺を見る。
「ここで、食事を作ってもいいのでしょうか」
「いいに決まってるだろ」
「ですが、ここはカナタの拠点にする場所で」
「俺たちが使う場所だ」
言ってから、少しだけ言葉を直す。
「少なくとも、今夜は」
「……今夜は」
「ああ。今夜は、俺たちがここで飯を食ってる。だから、お前が飯を作っていい」
リュミエラの指先が、椀の縁をなぞる。
何かを確かめるような動き。
「不思議です」
「何が」
「昨日まで、私はどこにも戻れないのだと思っていました」
声は静かだった。
でも、草原で聞いた「放っておいてくれたら」とは違う静けさ。
「ここも、まだ戻る場所ではありません。壊れていますし、埃っぽいですし、湯浴み場も確認できていません」
「湯浴み場の存在感が強い」
「大切です」
「はい」
リュミエラは小さく頷き、それから続けた。
「でも、火があって、食事があって、誰かが美味しいと言ってくれる場所は……少しだけ、怖くありません」
胸の奥が、変に熱くなった。
俺は椀の中へ視線を落とす。
そこで真正面から何か言えるほど、器用ではない。
「じゃあ、もっと怖くない場所にしよう」
「え?」
「窓を直して、寝床を作って、台所を使えるようにして、湯浴み場も探す。そうしたら、帰ってきたくなる場所になるかもしれない」
言った瞬間、リュミエラの動きが止まった。
木匙を持つ指が、わずかに震える。
「帰って、きたくなる」
「ああ。依頼から戻って、火をつけて、飯を食う。コハクが勝手に一番いい場所を取る。俺が文句を言う。お前が呆れる」
「私が、呆れるのですか」
「たぶん。もう結構呆れてるだろ」
「……少しだけ」
リュミエラはそう言って、目を伏せた。
頬の赤みが、さっきより濃く見える。
それが竈の熱のせいなのか、暖炉の火のせいなのか、俺にはわからなかった。
「カナタ」
「ん?」
「その場所に、私もいてよいのですか」
今度は、俺の方が言葉に詰まった。
いいに決まっている。
そう答えるのは簡単だ。
でも、彼女にとってそれがどれだけ重い問いなのかを考えると、軽く返したくなかった。
「いてほしい」
少し迷ってから、そう答えた。
「少なくとも俺は、その方がいい。飯が美味いし、現実的なことを言ってくれるし、湯浴み場の重要性も忘れずに済む」
「最後の理由は、必要でしょうか」
「かなり必要だな。俺一人だと絶対後回しにする」
「やはり、後回しにするつもりだったのですね」
「今のは誘導尋問だろ」
リュミエラの口元が、ほんの少しだけ緩む。
今度は、はっきり笑ったと言っていいかもしれない。
薄くて、小さくて、すぐに消えてしまいそうな笑みだった。
それでも、昨日の草原にはなかったものだ。
コハクが俺の膝に前足をかけ、空になりかけた椀を覗き込む。
「お前にはもうない」
「にゃ」
「不服そうにするな」
暖炉の火がまた、ぱちりと鳴った。
外は廃墟で、地下には不穏な扉がある。追手がいつ戻るかもわからない。金もない。レギオン設立なんて、まだ遠い。
それでも、鍋から立ち上る湯気と、リュミエラの作ったスープの匂いが、広間の冷たさを少しずつ押し返していた。
そして、初めて思った。
この壊れた砦に、明日も火を入れたい。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




