第四十四話 灯は消えないからこそ、目印になるのです
彼方の灯。
書かれた文字を見ていると、胸の奥がむずむずする。
照れくさい。かなり照れくさい。
だが、不思議と目を逸らしたくはなかった。
「じゃあ、仮登録は今日付けで受理」
オクタヴィアが書類を重ね、封蝋用の小さな印を取り出した。
「正式認可は、拠点の追加確認が終わってから。三日以内に、寝床、火の管理、水場、避難経路を見せて。それが通れば、レギオン記録に正式登録される」
「三日で雨漏り砦を住める砦に」
「全部直せとは言ってないよ。生きて寝て、火を使って、逃げられる場所にしてって話」
「難易度が現実的に重い」
リューが真剣に頷いた。
「まず寝床と火です。水場は井戸の確認が必要ですが、地下扉には近づかない経路にします」
「もう頭が修繕計画に行ってる」
「名前をいただいたからには、場所の整備も進めたいです」
その言葉を聞いて、俺は壊れた旧監視砦を思い出した。
雨漏り。倒れた棚。灰の跡。豆の袋。作戦帳。暖炉の火。
あれが、彼方の灯になる。
名前がついた途端、廃墟が少しだけ違って見えた。
「代表者、ここに署名」
オクタヴィアに促され、俺は書類へ名前を書いた。
前世の履歴書とは違う。
落とされるためではなく、始めるための署名。
リューも構成員の欄へ名前を書く。
筆跡は細く、真っ直ぐだった。
その横で、コハクが机に前足を乗せる。
「コハクはこっち」
オクタヴィアは別の小さな紙を出した。
随伴獣確認欄らしい。
そこに、黒いインクを薄くつけた布が置かれる。
「肉球印でいいよ」
「肉球印」
「にゃ」
コハクは少し考えるように布を見た。
それから、堂々と前足を押しつけた。
白い紙に、小さな肉球の跡が残る。
リューが手で口元を押さえた。
「かわいいです」
「確かに」
「にゃ」
コハクはかなり誇らしげだった。
書類上は随伴獣でも、設立書類に肉球を残した猫は、たぶんこのレギオンでも珍しい。
オクタヴィアは書類を乾かしながら、俺たちへ仮登録札を渡した。
小さな金属札。表にレギオンの紋、裏に細い文字で彼方の灯と刻まれている。
まだ仮の印がついているが、手のひらに乗せるとずっしり重い。
「これを拠点入口に掲げて。審査中の仮登録レギオンである証明になる。勝手に剥がされたら、報告して」
「剥がされることがあるんですか」
「嫌がらせでね」
「世知辛い」
「だから、名前を持つっていうのは、守るものが増えるってことでもある」
俺は金属札を握り直した。
冷たい金属が、手のひらの傷に少し当たる。
「守ります」
気づけば、そう言っていた。
オクタヴィアは、少しだけ目を細めた。
「いい返事」
三日間、俺たちはよく働いた。
まず、グラントが板を運んできた。
古い屋根板と、使える梁。おまけに、前に約束していた石材も少し。
豆商人のおじさんは、乾燥豆と古い鍋を持ってきた。
祠の老婦人からもらった清め布は、手当て用と寝床用に分けた。
レギオンからは若い職員が二人来て、危険箇所に赤い紐を結んでいく。
旧監視砦は、相変わらず廃墟だった。
壁の穴は残っているし、地下扉は黒い鎖のまま不気味だし、塔はコハク以外が登るには危ない。
けれど、広間の一角には寝床ができた。
暖炉の前には乾いた薪を積んだ。
水場へ行く道には石を並べ、夜でも迷わないように布を結ぶ。
調理場の棚は、前より少し低く、リューの手が届きやすい位置に作り直す。
「前より使いやすく、できたと思う」
俺が言うと、リューは棚の扉を開け閉めして確認した。
「はい。使いやすいです」
「よかった」
「ただ、少し斜めです」
「そこは味ってことにしてくれないか」
「味」
「手作りの味」
リューは真面目な顔で棚を見た。
「では、味として受け取ります」
「言い方がちょっと優しいな」
コハクは新しい棚の上に乗り、満足そうに丸くなった。
「お前の寝床ではない」
「にゃ」
「聞く気がないなお前」
リューが小さく笑った。その笑い声が、石壁に柔らかく返る。
三日目の夕方、レギオンの検査役が来た。
火の管理、水場、寝床、避難経路、地下扉への注意書き。すべてを確認し、最後に仮登録札の横へ正式認可の小さな印を打つ。
「彼方の灯。正式登録を認めます」
検査役が言った。たったそれだけの言葉。
だが、俺は少し息を止めた。
リューも、隣で静かに目を伏せる。コハクは札の下で尻尾を立てた。
正式登録。俺たちは、本当にレギオンになった。
検査役が帰ったあと、俺は扉の外に立った。
旧監視砦の入口には、金属札がかかっている。
彼方の灯。その下に、正式認可の小さな印。
夕暮れの風が森から吹き、札をかすかに揺らした。
雨上がりの土の匂いと、暖炉から流れる薪の匂いが混じる。
廃墟のはずなのに、扉の向こうには火がある。
鍋がある。
リューがいる。
コハクがいる。
「カナタ」
振り返ると、リューが暖炉の前に立っていた。
手には小さなランプを持っている。油は少ない。芯も細い。それでも、火を移すと橙色の光が揺れた。
「入口にも、灯を置きませんか」
「いいな」
俺はランプを受け取り、札の下に作った小さな棚へ置いた。
風を避けるため、割れた瓶を加工した覆いをかぶせる。
光は弱く、遠くまで照らすほどではない。でも、森から戻ってきた時、ここに灯があるとわかるくらいには明るかった。
コハクが入口の石段に座る。琥珀色の瞳に、ランプの火が映った。
「これで、名前負けしないかな」
「名前に追いつくのは、これからでよいと思います」
「これからか」
「はい。今日始まったばかりですから」
今日始まったばかり。
その言葉を聞くと、肩の力が抜けた。
最強レギオンなんて、まだ遠い。王都も神殿も、新聖女ミラベルも、まだ何も片づいていない。
でも、俺たちはここから始められる。
面接に落ち続けた俺と。
追放聖女だったリューと。
たぶん一番偉い猫のコハクで。
彼方の灯は、廃墟の入口で小さく揺れていた。
王都の大神殿には、白い祈りの間がある。
床も、柱も、祭壇も、磨かれた白石で作られている。
香炉からは甘い香りが立ち上り、薄布の幕が夜風に揺れていた。
祈りの間の中央に、新聖女ミラベルは立っていた。
淡い金の刺繍を施した白衣。
指先には、祈りの紋が入った細い指輪。
祭壇の前に膝をつく神官は、頭を深く下げたまま報告を続けている。
「旧監視砦の件、失敗いたしました。回収役はレギオンに捕縛。外側で香を扱っていた者も、亡国の王冠のオクタヴィアに押さえられました」
ミラベルは、しばらく何も言わなかった。
香炉の煙が、白い頬の前を細く流れる。
「リュミエラ様は」
やがて、彼女は穏やかに尋ねた。
「ご存命です。しかも、街の者に姿を見られています。祠の鎮静、魔物誘導の妨害、旧監視砦での防衛。レギオン側は、あの方を新しいレギオンの構成員として記録したとのこと」
神官の声が少しだけ震えた。
「レギオン名は、彼方の灯」
ミラベルの指が、指輪の上をなぞった。
「灯……あの方は、まだ火を持つのですね」
その声は、柔らかかった。
神官は顔を上げない。
祈りの間には、甘い香りだけが満ちている。
「王太子殿下には、どのように」
「私からお伝えします」
ミラベルは静かに言った。
「リュミエラ様は、生きていらっしゃる。追放された身でありながら、正規の手続きを経ずに力を使い、レギオンに身を寄せた。魔物騒ぎに巻き込まれた街では、すでに前聖女の名が噂され始めている」
神官の肩が、かすかに揺れた。
「そのように、お伝えに」
「事実を選んで並べるだけです」
ミラベルは祭壇の灯へ視線を向けた。
白い火が、香炉の奥で小さく燃えている。
「殿下は、お優しい方です。国のため、民のため、祈りの秩序のために、きっと心を痛められるでしょう」
神官は、さらに深く頭を下げた。
ミラベルは、祭壇の白い火へ手をかざすと、指輪の紋が、薄い金色に光った。
「次は、暗い森ではなく、祈りの場へお招きしましょう。リュミエラ様には、ご自分がまだ何を乱しているのか、思い出していただかなければ」
甘い香りが、少しだけ濃くなった。
「彼方の灯」
ミラベルは、その名をもう一度口にした。
「灯は消えないからこそ、目印になるのです」
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