第四十三話 汚れても消さない名前にしたい
さっきまで笑っていたオクタヴィアも、羽ペンを回す手を止めている。
リューは、紙の上の白い空欄を見つめていた。自分で口にした名前なのに、そこへ置いてよいものか確かめているみたいだった。
コハクは机の端で尻尾を揺らし、俺とリューの顔を交互に見ている。
彼方……カナタ。
自分の名前。前世で何度も呼ばれた名前。
面接で落ちるたび、書類に書いて、呼ばれて、頭を下げて、また落ちた名前。
この世界に来ても、猫のオマケ扱いで、レギオンの面接に落ちて、受付の前で苦笑いするしかなかった名前。
その名前が、灯という言葉と並んでいる。
喉の奥が、変に熱くなった。
「……俺の名前、入るのか」
どうにか出た声は、思ったより小さかった。
「はい」
「いや、嬉しいけど、恥ずかしいというか。レギオン名に代表者の名前が入るの、だいぶ主張強くないか」
「カナタの名前だけではありません」
リューは、紙へ置いていた指を少し動かした。
「彼方は、遠い場所です。今いる場所から見えない先。まだ届かない向こう側」
「うん」
「でも、灯は近くにあるものです。夜道で探すものです。帰る時に、あそこだとわかるものです」
リューの声は静かだった。
レギオンの小部屋には、雨上がりの湿った匂いが少し入り込んでいる。窓の外では、荷馬車の車輪が泥を踏む音がした。
「遠い場所を目指しても、戻れる灯がある。遠くへ行くために、帰る場所を捨てない。そういう名前がいいと思いました」
「いいんじゃない」
オクタヴィアが、低く息を吐いた。
短い言葉だったけれど、さっきの命名案を面白がっていた時とは違う声だ。
リューは、少し迷ってから俺を見た。
「それに……私にとって、カナタは灯でした」
胸の奥が、どん、と音を立てた気がした。
今度こそ、何も返せなかった。
「草むらに倒れていた時、私はもう、自分がどこへ行けばいいのかわかりませんでした。神殿へ戻れない。王宮にも戻れない。街へ行けば、誰かに見つかるかもしれない。森にいれば、魔物に襲われるかもしれない」
彼女の指が、木の机の端をそっと押さえる。
あの時の土や草の感触を思い出しているのかもしれない。
「そのまま目を閉じれば楽になるのかもしれないと、少しだけ思いました」
俺は息を詰めた。
聞いているだけで、胃のあたりが冷える。
でも、リューはそこで目を逸らさなかった。
「でも、コハクさんが来て、カナタが来ました。知らない人なのに、私の名前を聞いて、薬をくれて、置いていきませんでした」
「それは……」
当たり前だ、と言いかけて止める。
彼女にとって、それは当たり前ではなかった。
リューは、俺が言葉を止めたのを見て、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「あの時、まぶしい光ではありませんでした。大きな炎でもありません。世界を照らすようなものでもありません。ただ、暗い場所で、こちらに道があると教えてくれる小さな灯でした」
頬が熱い。戦闘後の傷とは違う熱だ。
自分の名前を、こんなふうに誰かの口から聞く日が来るとは思わなかった。
「それで、彼方の灯」
リューは言った。
「カナタひとりの名前ではなく、私たちが遠くへ行くための灯です。コハクさんが見つけてくれる道も、旧監視砦の暖炉も、作戦帳の最後の一行も、全部そこに入れたいと思いました」
コハクが「にゃ」と鳴いた。
今回は、たぶん賛成だ。
「コハクも入ってる?」
「もちろんです」
「にゃあ」
コハクは机の上で胸を張った。
書類上は随伴獣でも、名前の中には入ったらしい。
俺は、指先を握ったり開いたりした。
恥ずかしい。かなり恥ずかしい。
聖猫覇王団を出した直後の男が何を言うんだという話だが、それとは別種の恥ずかしさだ。
ふざけた名前は、笑われても逃げられる。でも、これは逃げられない。
リューが真剣に考えてくれた名前だ。
「カナタ君」
「はい」
「代表者として聞くけど、その名前を受け取れる?」
オクタヴィアが言った。
受け取れるか。名前をつけるのではなく、受け取る。リューが差し出した灯を、俺が受け取る。
俺は、白い空欄を見る。
追放されたリュー。
面接に落ち続けた俺。
書類上は随伴獣のコハク。
雨漏りする旧監視砦。
壊れた棚と、硬い豆のスープと、みんなで勝った作戦帳。
それを一つの名前で呼ぶ。
「受け取る」
声にすると、腹の奥に重さが落ちた。
怖い。でも、嫌な怖さではなかった。
「その名前でいこう」
リューの肩から、少しだけ力が抜けた。
目元がやわらぐ。
「よかったです」
「俺の命名案、全部いらなかったな」
「聖猫覇王団は、特にいりませんでした」
「ピンポイントだな」
「忘れられない響きではありました」
「褒めてる?」
「いいえ」
「だよな」
オクタヴィアがまた笑い出した。
この人、たぶん一生その名前を忘れない。それはそれで困る。
オクタヴィアが俺に向かって羽ペンを差し出す。
「代表者が書く?」
俺はペン先を見た。
指が少し緊張する。
前世で履歴書を書いた時の嫌な記憶が、ほんの少しだけよぎった。
何度も書いた名前。
何度も落ちた書類。
でも、これは落とされるための紙ではない。
俺たちが名乗るための紙だ。
俺はペンを握るとインクをつけ、空欄の上で一度止める。
「字が汚かったら?」
「正式記録はあとで清書されるから大丈夫」
「今、少し安心した」
「面接通過率並みに字も不安ですか」
「転生前はパソコンってのがあってだな……」
リューは少しだけ笑った。
俺は息を吸い、書いた。
彼方の灯。
墨が紙に染み込む。
たった八文字なのに、書き終えるまでやけに時間がかかった。
最後の線を引いた瞬間、胸の中で何かが小さく鳴る。
そこに、俺たちの名前が入った。
オクタヴィアは紙を持ち上げ、インクの乾き具合を確かめる。
「いい名前だね」
自分がつけたわけではないのに、褒められると嬉しい。
リューは、紙の上の文字を見つめていた。
「カナタ」
「うん」
「この名前を、汚さないようにしなければなりませんね」
真面目な声だった。
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「たぶん、汚れると思う」
リューが瞬きをする。
「雨漏りで濡れるし、泥道も歩くし、たぶん失敗もする。俺の字もそこまで綺麗じゃない。コハクが書類に足跡をつけるかもしれない」
「にゃ」
「そこは否定してくれ」
コハクは机の端で前足を舐めた。
やる気だ。
「だから、汚さない名前じゃなくて、汚れても消さない名前にしたい。失敗しても、傷ついても、雨漏りしても、戻って火を入れ直せる名前。そういうのがいい」
リューは少し黙った。
それから、小さく頷く。
「はい。消さない名前にします」
「じゃあ、彼方の灯。仮登録手続きに入ろう」
オクタヴィアは、そのやり取りを聞いて、静かに紙を手に取る。
声に出されると、少し照れくさい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
白い空欄は、もう空欄ではない。
俺たちはまだ、正式なレギオンになったわけではない。必要な確認も、署名も、拠点の追加審査も残っている。
それでも、その紙の上で、俺たちは初めて一つの名前を持った。
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