第四十五話 彼方の灯
彼方の灯が正式に始まった夜、旧監視砦には小さな火が三つあった。
一つは暖炉。
一つは入口のランプ。
もう一つは、調理場の小鍋の下で揺れる火だ。
雨は上がっている。
屋根板を仮に打ちつけたおかげで、広間の雨漏りは昨日よりかなり減った。完全ではない。端の鍋には、まだ時々水が落ちる。
ぽたり、と鳴るたびにコハクの耳が動いた。
「コハク、あれは敵じゃない。雨漏りだ」
「にゃ」
「雨漏りに対する圧が強い」
コハクは鍋を睨んでいる。
水滴が落ちるたび、琥珀色の瞳が細くなる。たぶん、正式登録されたレギオンの拠点に雨漏りがあるのが気に入らないのだろう。
気持ちはわかる。
リューは調理場でスープを見ていた。
今日は俺の戦勝雑スープではない。ちゃんとリューが作ってくれたスープだ。
干し肉、豆、根菜、香草。鍋の中でゆっくり煮えた具材から、やわらかい匂いが広間へ流れてくる。灰と黒煙の匂いが染みついた石壁にも、少しずつ食べ物の匂いが重なっていた。
「もう少しでできます」
「手伝うことは」
「座っていてください」
「俺もそれ言われる側になった」
「脇腹の傷がまだ開きます」
逆らえなかった。
俺は暖炉前の丸太椅子に座り、仮登録札から正式認可札へ変わった金属札を眺めた。
彼方の灯。
小さな文字だ。
けれど、入口のランプの光を受けると、刻まれた溝が橙色に光る。
遠くから見れば、ただの古い砦かもしれない。
でも、近づけばそこには名前がある。
火があって、帰ってくる場所がある。
俺がぼんやり見ていると、リューが木椀を差し出した。
「カナタ」
「あ、ありがとう」
木椀を受け取る。
湯気が顔に当たり、豆と香草の匂いが鼻へ抜けた。
一口飲むと、干し肉の塩気と根菜の甘みが舌に広がる。熱い。喉を通る時、身体の中まで温まっていく。
「うまい」
「よかったです」
「やっぱり俺の雑スープとは違うな」
「はい」
「そこは否定してくれても」
「違います」
「確かに」
リューは自分の椀を持って暖炉の反対側へ座ると、毛布を肩に掛け膝の上に椀を置く。
以前より少しだけ、ここで座る姿が自然になった気がする。
「リュー」
「はい」
「ここ、少し家っぽくなってきたな」
家。そんな言葉を軽く使っていいのか迷う。
リューは広間を見回した。
斜めの棚。積まれた薪。布で覆った寝床。作戦帳を置いた小さな箱。入口の灯。まだ片づいていない石材。赤い紐で封じた地下扉への通路。
「はい。まだ、修繕するところばかりですが」
「そこも含めて」
「では、家になる途中、でしょうか」
「いいな。それ」
家になる途中。今の俺たちには、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
コハクが木椀の匂いを嗅ぎに来る。
リューは塩気を抜いた小皿を出した。コハクは少し舐め、満足したのか、暖炉の前で丸くなる。
前世からずっと、こいつは自分の居場所を見つけるのが上手い。
その時、入口の方から足音がした。
「いい匂いだね」
「オクタヴィア」
赤い髪をゆるく結び、いつもの軽い足取りで広間へ入ってくる。手には包みを一つ持っていた。
「正式登録おめでとう、彼方の灯」
「ありがとうございます」
リューが立ち上がろうとすると、オクタヴィアは手で制した。
「座って座って。今日はお祝いを持ってきただけ」
「お祝い?」
包みを開くと、中には小さなランタンがあった。
古いものだが、金具は磨かれ、ガラスも割れていない。持ち手には、王冠にも花にも見える小さな意匠が刻まれている。
「うちが昔この砦で使ってたランタン。まだ残ってたから、あげる」
「いいんですか」
「うん。今の持ち主に使われた方がいいでしょ」
オクタヴィアは何でもないことのように言った。
でも、その目は少し遠くを見ていた。
この砦で始まったという彼女のレギオン。今の彼女にとって、ここはただの廃墟ではないのだろう。
「ありがとうございます」
リューがランタンを両手で包むように持つ。
「大事に使います」
「うん。油は食わないから、コハク君にも安全」
「にゃ」
「なぜ自分の話だとわかった」
コハクは尻尾を揺らした。
わかっている顔。
オクタヴィアは暖炉の近くへ腰を下ろした。
座り方は雑なのに、背筋が妙に綺麗だ。育ちの良さと戦場慣れが同居している。
「レギオンの方は、しばらく神殿と書面のやり取りになる。王都へも報告が行くよ」
「早いな」
「証拠が新鮮なうちに出さないと、香も発言も薄まるからね」
薄まる。嫌な言い方だが、正しいのだろう。
「ミラベルは動くんだろうか」
「動くと思う。直接か、周囲を使うかはわからないけど。新聖女の物語に、前聖女が自分の名前で立ち直る話は邪魔だろうから」
俺が聞くと、オクタヴィアは少しだけ目を細めた。
リューは椀を握ったまま黙っていた。
けれど、以前のように消え入りそうな沈黙ではない。
聞いて、受け止めている沈黙だった。
「怖いです。でも、今度は一人で呼ばれるわけではありません」
「ああ。彼方の灯で受ける。レギオンも挟む。証拠も持つ。行くなら、連れていかれるんじゃなくて、こっちから行く」
「はい」
オクタヴィアは俺たちを見て、少しだけ笑った。
「いい顔になったね」
「そうですか」
「うん。最初に会った時より、ずっとレギオンっぽい」
「最初は雨漏り物件見つけて浮かれてた男だったからな」
「今もそこはあまり変わってないけど」
「変わってないんだ」
リューが小さく笑ったのを見て、オクタヴィアが立ち上がる。
「今日は長居しないよ。明日から依頼票を回す。小さいやつからね」
彼女は入口へ向かうと、外へ出る前にふとコハクを見下ろす。
「君も、しばらくは大人しくしてなよ」
「にゃ」
「まあ、無理だろうけど」
オクタヴィアは笑った。
それから、俺の方へ視線を向ける。
「カナタ君」
「はい」
「境界を見る獣は、見つけたものをただ拾ってくるわけじゃない。選ぶんだよ」
意味がわからなかった。
「選ぶ?」
「うん。君は、選ばれた側かもしれない」
そう言って、オクタヴィアは片手を振り、夕闇の中へ出ていった。
入口のランプと、もらったランタンの光が、彼女の赤い髪を一瞬だけ照らす。
やがて足音は遠ざかり、森の音に紛れた。
「……どういう意味だ」
「にゃ」
「お前、何か知ってる?」
「にゃ」
「知ってる時の鳴き方だな」
「にゃあ」
「いや、わからんけど」
リューはランタンに火を移しながら、少し首を傾げた。
「コハクさんは、境界を見る獣なのですよね」
「オクタヴィアはそう言ってたな」
「カナタとコハクさんは、一緒にこちらへ来たのですよね」
「ああ。コハクを助けようとして、俺がトラックに轢かれて……いや、助けきれたかは怪しいけど」
あの瞬間の記憶は、今も曖昧だ。
光。音。腕の中にいたはずの重さ。次に目を開けた時には、この世界だった。
「猫のオマケで転生した俺、って自分で言ったら笑えるけど、実際かなり意味がわからないんだよな」
「猫のオマケ」
「うん。俺の扱い、だいぶ雑」
リューは少し考え込んだ。
「でも、オマケは大切なものにつくこともあります」
「それ、慰めになってる?」
「私としては、かなり」
そう言われると、何も返せない。
コハクは新しいランタンの近くへ歩いていき、琥珀色の瞳で火を覗き込んだ。
その瞬間、視界の端に文字が走った。
【登録同期中】
個体名:コハク
転生区分:本登――
同伴者:カナ――
権限:未開――
境界接続:――
表示は一瞬で乱れた。
白い文字が細かく割れ、すぐに消える。
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
「カナタ?」
リューが心配そうにこちらを見る。
「今、なんか出た」
「表示ですか」
「たぶん。いや、文字が乱れてよく読めなかったけど」
俺はコハクを見る。
コハクは、何事もなかったように前足を舐めていた。
「おい。今、本登録とか同伴者とか見えた気がするんだけど」
「にゃ」
「その顔は知ってる顔だろ」
「にゃあ」
コハクは毛づくろいを続ける。完全に答える気がない。
リューは少しだけ目を丸くした。
「本登録、ですか」
「本登録。たぶん。俺が疲れて見間違えた可能性もある」
「同伴者は」
「俺の名前が出かけた気がする」
言ってから、妙な沈黙が落ちた。
猫のオマケ。
冗談みたいに言っていた言葉が、急に冗談ではない形で足元に転がってきた気がする。
「俺、ひょっとして本当にオマケなのか」
「オマケは、大切なものにつくこともあります」
「リュー、さっきより慰めが必要な感じになってきた」
リューは口元を押さえ、完全に笑いを我慢している。
「笑ってる?」
「少しだけ」
「俺の存在区分が揺らいでるのに」
「すみません。でも、カナタがオマケでも、カナタはカナタです」
その言葉は、さらりと出た。けれど、胸の奥に落ちた。
型ではなく、リューを見る。役割ではなく、名前を呼ぶ。
それを決めた俺が、今度は自分の分類に戸惑っている。
リューは、同じことを俺に返してくれた。
「……ありがとう」
「はい」
「にゃ」
コハクはなぜか少し得意げだ。
「お前、まさか最初から主役みたいな顔してたのか」
「にゃ」
「否定しろ」
「にゃあ」
あきらかに、否定じゃない鳴き声。
俺は頭を抱えそうになったが、脇腹に響くのでやめた。
今はまだ、何もわからない。コハクが何なのか。俺が同伴者とはどういう意味なのか。
境界を見る獣が、何を選んだのか。
わからないことは増えた。
王都も神殿も、ミラベルも、地下扉も、猫の本登録らしき表示も、全部これからだ。
それでも、不思議と足元は前より固い。
俺たちには名前がある。
彼方の灯。
帰る場所がある。
暖炉の火がある。
スープの匂いがある。
リューがいて、コハクがいて、入口のランプが夜の森へ小さな光を投げている。
俺は新しいランタンを入口へ掛けた。
旧監視砦の石壁に、橙色の光が揺れる。
その下で、正式認可の札がかすかに鳴った。
「明日から忙しくなるな」
俺が言うと、リューが隣に並んだ。
「はい。まずは小さな依頼からですね」
「それと屋根」
「棚も少し斜めです」
「そこは味」
「味でしたね」
コハクが石段へ座り、夜の森を見た。
琥珀色の瞳が、入口の灯を映している。
遠い王都で、誰かがこの灯を目印にするかもしれない。
地下の扉が、いつか開く日が来るかもしれない。
コハクの表示の意味も、いずれ知ることになるのかもしれない。
でも、今夜だけは。俺たちはここから始まったのだと胸を張って言える。
面接に落ち続けた俺と、追放聖女だったリューと、たぶん本登録の猫で作った、小さなレギオン。
彼方の灯は、夜の旧監視砦で静かに燃えていた。
第一章、最後までお付き合いありがとうございました。
初めて長編ハイファンタジーを書いてみたのですが…前途多難な、猫のおまけ転生のカナタの今後が気になりましたら、ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




