第四十一話 決めようか。君たちがこれから名乗る名前を
翌朝、旧監視砦は雨漏りしていた。
昨夜から降り始めた雨が、壊れた屋根の隙間を通って広間の端へ落ちている。
ぽたり、ぽたりと石床を叩く音が、妙に規則正しい。水受けに置いた鍋の中では、雨水が細く跳ねていた。
暖炉の火は消えていない。リューが夜中に一度起きて薪を足したらしい。問い詰めると、彼女は毛布にくるまったまま視線を逸らした。
「座っている範囲でできることでした」
「それ、だいたい無理する人の言い方だな」
「カナタも、夜中に二度起きていました」
「見てたのか」
「音がしました」
「お互い様案件だった」
コハクは暖炉の前で丸くなっている。
雨の音が気になるのか、耳だけが時々動く。濡れるつもりは一切ない顔。
俺たちは朝食に、昨日の戦勝雑スープの残りを温め直して食べた。
二日目の豆は少し柔らかくなっていた。干し肉の塩気もなじみ、昨日より味がまとまっている気がする。
「昨日より旨いな」
リューにそう言うと、彼女は木椀を手にしたまま真面目に頷く。
「煮込み直したからです」
「俺の料理技術が上がったわけでは」
「はい」
温かいものを腹に入れ、手当ての布を替え、作戦帳と証拠品を鞄に入れる。
護符や香の瓶は、オクタヴィアが大半を持っていった。俺たちの手元には控えとして、写しと空瓶が残されている。王都や神殿に触れるものを持つには、まだ手が震えた。
それでも、今日はレギオンへ行く。
レギオンを作るために。
雨上がりの道はぬかるんでいた。
森の葉から水滴が落ちるたび、首筋が冷える。
リューはフードを深くかぶり、俺の少し後ろを歩いていた。足取りは遅い。無理をしていないか何度も振り返ると、彼女は三回目で言った。
「カナタ。振り返りすぎると、前が見えません」
「それはそう」
「心配してくださるのは、わかっています」
「じゃあ、もう一回だけ振り返っていいか」
「今、振り返っています」
「本当だ」
コハクは濡れた道を嫌がり、俺の肩に乗っている。
重い。前世より身体が大きくなった気がする。いや、俺の肩が弱っているだけかもしれない。
「コハク、歩かない?」
「にゃ」
「今のは拒否だな」
街に近づくにつれ、人の気配が増えた。
いつもの朝市の声に混じって、こちらを見る視線がいくつもある。
昨日、旧監視砦で何があったのか、もう噂になっているのだろう。
豆商人のおじさんが、露店の布を直している手を止めた。
「おい、あんたら。ボロボロじゃないか」
「はは……まぁ、色々あって」
「色々って顔じゃねえな。だいぶやられてるじゃねえか」
おじさんは俺の脇腹あたりを見て眉を寄せた。
それから、リューを見る。銀髪はフードで隠れているが、彼女だとわかったらしい。
「嬢ちゃんも、立ってて平気なのか」
「はい。昨日よりは」
「昨日よりはって答えがもう平気じゃねえんだよ」
言いながら、彼は小さな袋を投げてよこした。
受け取ると、中には乾燥豆が入っている。
「昨日の騒ぎで、北門の連中が助かったって聞いた。魔物が門の方へ来なかったのは、あんたらが砦で止めてたからだってな」
「俺たちだけじゃないです。レギオンとか、オクタヴィアさんとか」
「それでも、あんたらもやったんだろ」
言い返せなかった。リューは袋を見つめ、両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次はちゃんとした鍋で煮ろ。豆は雑に煮ると硬い」
「昨晩のスープを見たような発言」
「見なくてもわかる顔してる」
俺はそんな顔をしているのか。
少し傷ついた。
レギオンへ入ると、受付の空気が一瞬で変わった。
冒険者たちの会話が止まる。視線が集まる。
俺は思わず肩のコハクを抱え直した。
「え、何。俺、また面接に落ちる時の空気を浴びてる?」
「今日は面接ではありません」
「そうだった。起業側だった」
リューが小さく頷く。
それだけで、少し背筋が伸びた。
受付嬢は俺たちを見ると、すぐに立ち上がった。
「カナタ、リュミエラさん。奥へどうぞ。オクタヴィア様がお待ちです」
「オクタヴィア、様?」
「オクタヴィアさん、ここだと様がつくんですね」
「つけないと怒る人が周囲にいますので」
受付嬢の笑顔が少し疲れていた。
強いレギオンの主は、周囲の扱いも大変らしい。
案内された小部屋には、オクタヴィアがいた。
机の上には、昨日の証拠品、捕縛記録、そして分厚い書類の束が積まれている。
彼女は俺たちを見るなり、片手を上げた。
「おはよう。座って。立ったまま話すと倒れそうな二人だし」
「否定できない」
「否定しません」
俺とリューは素直に座った。
コハクは机の上へ乗ろうとして、止める。
「重要書類の上に乗るな」
「にゃ」
「不満そうにしても駄目」
オクタヴィアは笑いながら、書類の一枚を俺たちの前へ出した。
「昨日の件は、レギオン側で正式に事件扱いになった。旧監視砦周辺への魔物誘導、未登録レギオン候補者への襲撃、神殿巡礼具の不正使用、証拠隠滅未遂。重いよ」
「神殿相手に、レギオンは動けるのか?」
「動ける範囲で動く。少なくとも、北の森とこの街の安全を乱した件はレギオンの管轄。神殿だから見逃す理由にはならない」
その言い方は軽いが、頼もしかった。
オクタヴィアは次の紙を指で叩く。
「それで、君たちのレギオン設立だけど、条件を確認するね。代表者。カナタ君」
「ああ」
「構成員。リュミエラ。本人同意でいい?」
リューは一度俺を見た。
俺は頷かず、ただ待った。彼女が決めることだ。
「はい。私の意思で、参加します」
「随伴獣。コハク」
「にゃ」
「コハクは構成員じゃないのか」
「規定上、猫は構成員にはならない」
「にゃあ!」
コハクが抗議した。
オクタヴィアは真面目な顔で頷く。
「わかる。私も君はだいぶ構成員だと思う。でも書類上は随伴獣」
「にゃ……」
「しょんぼりした」
リューがそっとコハクの頭を撫でた。
「書類上の分類と、実際の大切さは別です」
「にゃ」
コハクは少し機嫌を直したようだった。
オクタヴィアは続ける。
「拠点。旧監視砦。状態は悪いけど、地下扉は封鎖済み、危険箇所は把握済み、昨日の襲撃後も使用者が管理を続けている。正式認可はまだだけど、仮拠点としては認められる」
「雨漏りは」
「雨漏りは減点だけど、不認可理由にはならない。ただし寝床と火の管理、水場、避難経路は三日以内に追加確認」
「三日」
「やることが増えましたね」
「棚も直す約束がある」
「前より使いやすく、です」
「よく覚えてるな」
オクタヴィアは楽しそうに笑った。
「活動実績。祠の清掃と鎮静補助、北森の異常報告、魔物誘導香の発見、旧監視砦防衛、襲撃犯捕縛への協力。小依頼の数としては少ないけど、内容が重い。レギオン判断で、初期実績としては十分」
十分。その言葉に、息が少し抜けた。
面接で落ち続けた俺が、初めて書類上、十分と言われている。
「カナタ」
リューが小さく呼ぶ。
「顔が、少し」
「面接で十分って言われたことがなくて」
「これは面接ではありません」
「わかってるけど、心が」
「よしよし、しましょうか」
「それは人前だとかなり恥ずかしい」
オクタヴィアが肘をついてにやにやしている。
やめてほしい。
「後援というか、初期監査協力者としては、私が署名する」
オクタヴィアはさらりと言った。
「え」
「何、その顔。嫌?」
「いや、いいのか?」
「いいよ。君たち、旧監視砦を使うんでしょ。あそこは私にも縁がある。変な使われ方をされるより、ちゃんと見ておいた方がいい」
リューが深く頭を下げた。
「正直、助かる」
「礼は、砦を潰さずに使ってくれたらいいよ。あと、地下扉は勝手に開けない」
「そこは本当に開けない」
俺は全力で頷いた。
雨漏りと棚と王都と神殿で手一杯なのに、地下の不穏扉まで開ける余裕はない。
オクタヴィアは最後の紙を出した。
そこには、いくつかの欄が並んでいる。
代表者。
構成員。
随伴獣。
仮拠点。
活動実績。
監査協力者。
それぞれの欄には、すでに記入が始まっていた。
そして、一番上に大きな空欄がある。
「で、問題はここ。レギオン名」
オクタヴィアが指で叩く。
部屋の空気が止まった。
俺は紙の空欄を見た。
そこだけが、妙に白く光って見える。
「名前がないと登録できないんですか」
「できないね。仮登録でも必要。レギオン記録、依頼受注、報酬管理、拠点管理、全部レギオン名で紐づくから」
オクタヴィアはにっこり笑った。
「つまり、今日一番大事なところ」
俺の胸の奥で、何かが立ち上がった。前世で封印していた数々の名前案。
ゲームのキャラ名、創作レギオン名、心の中だけで名乗っていた必殺技めいた語感。
面接では一度も役に立たなかった俺の命名欲が、今ここで出口を探し始めている。
「カナタ」
リューが、俺を見た。
その目は静かだった。しかし、なぜか警戒も混じっていた。
「今、少し危ない顔をしていました」
「危ない顔って何だよ」
「とても大事なものに、変な名前をつけそうな顔です」
「信頼が低い」
「にゃぁ」
コハクも同意らしい。
オクタヴィアは楽しそうに羽ペンを回した。
「じゃあ、決めようか。君たちがこれから名乗る名前を」
白い空欄が、俺たちの前に置かれている。
壊れた砦。
追放聖女だったリュー。
面接に落ち続けた俺。
書類上は随伴獣でも、たぶん一番偉いコハク。
その全部を、これから一つの名前で呼ぶことになる。
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