第四十話 みんなで
その日の俺たちにできたのは、王都へ向かう準備ではなかった。
まず、座った。
それも、かなり情けない座り方。
俺は暖炉の前の床に尻をつき、脇腹を押さえたまま壁にもたれる。リューは毛布を肩へ掛け、暖炉の横で膝を抱えていた。コハクは俺たちの間に丸くなり、尻尾で自分の鼻先を覆っている。
広間には、さっきまでの戦いの跡が残っていた。
灰の足跡。床にこぼれた水。壊れた棚。黒い煙の苦い匂い。壁に刺さった矢の穴。門の外から入り込んだ湿った土の匂い。
勝った。
でも、勝った場所はだいぶ悲惨だった。
「……まず、飯にしようか」
俺が言うと、リューがこちらを見た。
「この状況で、食事ですか」
「この状況だから食事です。俺の前世知識によると、人間は飯を食べないと動けない」
「それは、こちらの世界でも同じだと思います」
「異世界共通仕様だった」
軽口を叩いたが、声に力はない。
それでも、リューの目元がほんの少し緩んだ。
「では、私が」
「駄目」
俺は即答した。
「今日は俺がやる。リューは座ってろ」
「カナタも怪我をしています」
「俺は痛いけど立てる。リューは騎士王型の反動がある。あと、昨日言った水汲み一往復もまだ借金として残ってる」
「水汲みと料理は別です」
「借金が利息で増えたと思っとけって」
「よくわからない理屈です」
リューは少し不満そうだった。
だが、立ち上がろうとはしなかった。
手首の布を見れば、無理をしないでくれと思う。顔色もまだ白い。騎士王型の金色は完全に抜け、銀髪はいつもの色へ戻っていたが、身体の奥に疲労が残っているのは見てわかった。
俺は立ち上がり、調理場へ向かう。
調理場は、戦場の続きだった。
棚は斜めに倒れ、豆の袋は裂け、鍋は床に転がっている。
火かき棒は、リューが握っていたせいか、端に白金の光の跡がほんの少し残っていた。触れると、ただの鉄の冷たさが戻っている。
「これ、伝説の剣の残骸みたいに見えるけど、火かき棒なんだよな」
俺が呟くと、コハクがいつの間にか足元へ来ていた。
「にゃ」
「お前も来たのか」
「にゃあ」
「じゃあ、とりあえず豆を踏まないでくれ」
コハクは豆を避けるどころか、わざわざ匂いを嗅いでから、興味をなくしたように横を通った。
猫、自由すぎる。
俺は床に散った豆を拾えるだけ拾い、土や灰のついたものは除けた。無事だった豆を小鍋に入れる。乾いた肉を細く切り、しなびた玉葱に似た野菜を刻む。刃物を握る手に力が入らない。
戦いの疲れが、後から来ている。
薬草を少し入れ、残った塩をほんのわずか落とした。
鍋を火に掛けると、脂と玉葱の匂いが立つ。
焦げた誘導香とは違う、食べ物の匂いだ。
干し肉の塩気が湯に溶け、豆がゆっくりふくらんでいく。湯気が頬に当たり、冷えた肌が少しずつ戻ってくる。
美味いかどうかはわからない。
リューの料理と比べたら、たぶんだいぶ雑。
でも、鍋の中で食べられるものが温まっているというだけで、広間の空気は少し変わった。
木椀を二つと、コハク用の小皿を持って戻る。
コハク用には塩気の少ない湯を少しだけ入れた。
「はい、戦勝雑スープ」
俺が木椀を差し出すと、リューはそれを両手で受け取った。
「戦勝、ですか」
「勝ったからな」
「……勝ったのですね」
リューは木椀の中を見つめた。
湯気が銀髪に触れて、彼女の頬を薄く濡らす。
「私は、勝ったのですね」
二度目は、自分に言い聞かせるような声。
俺は椀を持ったまま、少し考えてから頷いた。
「勝った。リューが勝った」
「騎士王型が、ではなく?」
「騎士王型も使った。でも、その前に型なしで前に出た。敵の癖を見て、作戦を立てて、俺を止めて、コハクに合図して、火かき棒を持って立った」
リューの指が、椀の縁をゆっくりなぞる。
「私は、聖女ではなくても、何かできるのですね」
その言葉は静かだった。
リューは、ほんの少しだけ目を伏せた。その口元に、かすかな笑みが生まれた。
大きな笑顔ではないけれど、誇らしさに似たものが、確かにそこにあった。
でも、広間の壊れた壁よりも、昨日の黒い煙よりも、ずっと大きなものを動かした気がした。
「できる! しかも、けっこうすごい」
「けっこう、ですか」
「かなりすごい」
「言い直しました」
「面接なら加点されるやつ」
「カナタの面接評価は、あまり信用できません」
コハクが小皿の匂いを嗅ぎ、少し舐めてから、満足したのか丸くなった。
食べるのか食べないのかはっきりしない猫だ。
リューがスープを一口飲んだ。
豆はまだ少し硬い。干し肉は塩気が強い。野菜も大きさが不ぞろいだ。
俺なら自分で作っておいて、うーん、となる味だった。
「……温かいです」
「味は?」
「温かいです」
「二回言った」
「温かさは大事です」
「味の評価は避けられた」
リューは椀で口元を隠した。
少しだけ肩が揺れる。笑ったのだと気づいて、俺は脇腹を押さえた。
「笑うと痛いけど、今のは悪くない痛み」
「痛いなら笑わせないようにします」
「それは困る」
広間に、穏やかな沈黙が落ちた。
穏やかと言っても、床は汚れ、壁は壊れ、敵の証拠品は布に包まれて暖炉の横に置いてある。完全な安心ではない。
それでも、俺たちは温かいものを飲んでいた。
それは、確かに勝った後の時間だった。
リューはスープを半分ほど飲んでから、椀を膝に置いた。
「カナタ」
「うん」
「私は、勝って嬉しいのだと思います」
言葉を選ぶように、ゆっくりとした声だった。
「誰かを傷つけたことが嬉しいのではありません。捕まえられずに済んだことも、もちろん嬉しいです。でも、それだけではなくて」
リューは自分の手を見た。
縄の跡を巻いた布の上へ、もう片方の手を重ねる。
「自分で決めて、立てたことが、嬉しいのだと思います」
俺はすぐに言葉を返さなかった。
そのまま受け取りたかった。
「それは、ちゃんと誇っていい」
「誇る」
「うん。胸を張るやつ」
リューは姿勢を少しだけ正した。
毛布を肩に掛けたままなので、胸を張るというより、寒そうな小動物が頑張って背筋を伸ばしている感じになった。
「こんな感じでしょうか」
「だいぶかわいい」
「かわ、いい?格好いいではなく?」
「格好よくてかわいい」
「両方ですか」
「両方」
リューは不思議そうに瞬きをした。
それから、椀へ視線を戻す。
「では、両方で受け取ります」
俺は何か言いかけて、やめた。
食事のあと、俺たちは片づけを始めた。
全部は無理だ。だから、今日寝る場所と火を使う場所だけを先に戻す。
俺が壊れた棚板を壁際へ運び、リューが座ったまま布を畳む。コハクは監督らしく、暖炉の近くで目を細めているだけだった。
リューは何度か立とうとしたが、そのたびに俺が見ると、素直に座り直した。
「カナタの目が、立つなと言っています」
「実際に言ってる」
「では、座っています」
濡れた床には新しい布を敷き、使える豆を袋へ戻す。矢と香の粉は別の瓶に入れ、護符と一緒にまとめた。作戦帳の端に、今日の戦いのことを書いておく。
灰。
水。
棚。
コハクの粉袋。
リューの観察。
騎士王型は本人同意で成功。
強制接続不可。
最後に、俺は少し迷ってから書き足した。
『勝った』
文字にすると、実感が遅れて湧いてきた。
「何を書いたのですか」
「今日の記録」
「見ても?」
「どうぞ」
作戦帳を渡すと、リューは膝の上で開いた。
最後の一行を見て、しばらく黙る。
「勝った」
彼女が小さく読み上げた。
そして、隣に細い字で書き足した。
『みんなで』
その三文字を見て、胸の奥が熱くなった。
「リュー、それは、なんか、いいな」
「なら、よかったです」
リューは作戦帳を閉じた。
暖炉の火が、少し弱くなっている。
外は夕方に近づいていた。雨はまだ降っていないが、空は低い。
オクタヴィアたちはレギオンへ戻り、敵も証拠も運ばれた。砦には、俺たちだけがいる。
俺は暖炉に薪を足すと、ぱちっと小さな火花が散る。
「リュー」
「はい」
「レギオン、作ろう」
リューは顔を上げた。
「以前から作ると言っていました」
「あの時は、俺が面接に落ちたからだった。あと、最強レギオンって響きが格好いいから」
「はい」
「今も格好いいとは思ってる」
「そこは残るのですね」
「残る。でも、それだけじゃなくなった」
俺は暖炉の火を見た。
壊れた砦。雨漏りする屋根。修繕待ちの棚。手当ての布。作戦帳。コハクの寝床。リューのスープの匂いが、まだ石壁に残っている気がする。
「個人と逃亡者だと潰されるって、オクタヴィアが言ってた。登録されたレギオンなら、レギオンが口を挟める。王都へ行くとしても、神殿と向き合うとしても、足場がいる」
リューは黙って聞いている。
「だから、作る。俺がどこにも入れてもらえなかったからじゃなくて、俺たちがここにいるって言える場所として」
言いながら、少し照れくさくなった。
こういうことを真面目に言うと、前世の面接官に鼻で笑われそうな気がする。
でも、今ここに面接官はいない。
リューとコハクがいる。
「最強レギオンを目指すのは、変わらないけど」
「はい」
「最強の意味は、少し変える。強い型を押し込むことじゃない。誰かを役割で縛ることでもない。帰る場所があって、自分で立てて、必要な時に助け合えること。そういう強さにする」
リューは、ゆっくり瞬きをした。
「それは、強いのでしょうか」
「強い。少なくとも、昨日の俺よりは強い」
「昨日のカナタ基準なのですか」
「だいぶ低いところから始めると、成長が見えやすい」
「前向きですね」
コハクが「にゃ」と鳴いた。
賛成なのか、ただ起きただけなのかはわからない。
リューは少しだけ考え、作戦帳へ手を置いた。
「私も、その場所にいてよいのですね」
「いてほしい」
今度は迷わず言えた。
リューは目を伏せ、口元を小さく緩めた。
「では、私も作ります」
その言葉が、暖炉の火のそばに落ちた。
廃墟の石壁が、少しだけ家の壁に近づいた気がした。
「明日、レギオンへ行く。オクタヴィアに正式な条件を確認する。依頼実績、拠点の安全確認、必要な書類。足りないものを全部埋める」
「はい」
「それで、ちゃんとレギオンとして名乗る」
コハクが、暖炉の前で大きく伸びをした。
琥珀の瞳が、火の色を映す。
俺たちのレギオンは、まだ影も形もない。
あるのは、壊れた砦と、作戦帳と、雑なスープと、今日みんなで勝ったという一行だけだ。
それでも、明日から本当に始める。
面接に落ちた俺ではなく。
追放されたリューでもなく。
猫のオマケで転生した俺と、追放聖女だった彼女と、たぶん一番偉い猫の、最初のレギオンを。
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