第三十九話 君が生きていて、しかも別の力で立ち始めたから
護符を布で包んだまま、崩れた壁の隙間を抜けて砦の中へ戻った。
広間には、白金の光の残り香のようなものがまだ漂っていた。
騎士王型は、もう切れている。
リューの髪は金から銀へ戻り、彼女は暖炉の近くの壁に背を預けて座っていた。顔色は悪い。手首の布を握る指先が白くなっている。
それでも、彼女の前には敵の男たちが膝をついていた。
武器は床にまとめて置かれ、コハクがその上に片足を乗せている。
「にゃ」
どう見ても、押収品の管理者みたいな顔。
「コハク、偉い。すごく偉い。でも刃物の上に足を置くな。肉球が傷つく」
「にゃあ」
不満げに鳴きながらも、コハクは武器の上から降りた。
リューが俺を見る。
「カナタ。外は」
「中央の男は、オクタヴィアが押さえた。外側で魔物を流してた白外套も一緒に捕まってる」
リューの肩から、わずかに力が抜けた。ほっとしたのだろうか。
ただ、すぐに表情が固まる。
俺が護符を握っていることに気づいたのだ。
「何か、見つかったのですね」
すぐに言うべきか迷う。
けれど、まずは……
「リュー」
「はい」
「聞くのがつらい話かもしれない」
「……はい」
「今、聞くか。少し休んでからにするか。リューが決めてくれ」
リューは目を伏せた。
暖炉には火が残っている。小さく爆ぜる薪の音が、広間のひび割れた壁に吸い込まれていく。
外では、オクタヴィアの部下なのかレギオンの者なのか、数人の足音がし始めていた。彼女が呼んだのだろう。
リューは、ゆっくり顔を上げた。
「今、聞きます」
「無理は……」
「無理ではありません。怖いだけです」
その違いを、彼女はもう言葉にできる。
俺は布をほどき、護符を見せた。
「外の男が持ってた。表示では、神殿巡礼護符。新聖女ミラベル随行印。魔物誘導香の残滓あり」
「ミラベル様……」
リューの睫毛が、ほんの少し震えた。
その名を、彼女は静かに口にした。憎しみの声ではなかった。信じたくない声でもない。
ただ、胸の奥でずっと避けていた扉を、自分で開けたような声だった。
「中央の男も、漏らした。『ミラベル様は、ただ殿下のために』って。途中で止めたけど、もう遅い」
敵の一人が、床の上でわずかに身じろぎした。
リューは護符を見つめていた。
「殿下のために……」
その言葉が、低く広間に落ちる。
「やっぱり……」
俺は言いかけて、すぐに止めた。
断定してはいけない。あの男は、命令とは言わなかった。
王太子の名前を盾にした。そして、ミラベルの印を持っていた。
「ごめん。正確には、まだわからない。王太子本人の命令書は見つかってない。王宮印もない。オクタヴィアさんは、新聖女の巡礼一行が使う印だって言ってた」
「では、殿下は何も知らないのですか」
リューの声は、淡々としていた。
でも、指先は拳を強く握っている。
「それも、わからない。あいつらは、王太子殿下の憂いを取り除くって言ってた。正式な命令じゃないかもしれない。でも、憂いがあるって言える程度には、誰かが殿下の不安や不満を知ってる」
リューは目を閉じた。
「殿下は、私を切り離しました。それは、命じたかどうかとは別に、事実です。私の話を聞かず、神殿からの報告を信じ、ミラベル様の祈りを選びました」
ここで王太子を軽く罵れば、少しは気が晴れるかもしれない。
でも、それはリューの傷を俺の言葉で塗りつぶすことになる。
「もし、殿下が直接命じていなかったとしても……私は、殿下の元に戻りたいとは思いません」
リューはゆっくり目を開けた。
「ああ」
広間の入口から、オクタヴィアが入ってきた。
片手に封蝋つきの筒、もう片方の手には骨の笛を持っている。後ろにはレギオンの腕章をつけた男たちが二人、捕縛用の縄を持って続いていた。
「話してるところ、失礼」
オクタヴィアは軽く言い、床に座らされている敵たちを一瞥した。
「こっちの残りも回収するよ。武器を置いて大人しくしているのはいい判断。猫に見張られてるし」
「にゃ」
「いい顔してるね」
コハクが少し得意げにした。
レギオンの男たちは、敵たちを一人ずつ縛っていく。
鎖の男が抵抗しかけたが、オクタヴィアが一歩近づいただけで黙った。
圧が違う。
オクタヴィアは、俺たちの前にしゃがみ込んだ。
「証拠はこれだけあれば十分かな。新聖女ミラベルの巡礼随行印が入った護符。王宮印ではない封筒。魔物誘導に使った香炉と笛。あと、本人たちの言質」
「これで、黒幕が証明できるのか?」
俺が聞くと、オクタヴィアは片目を細めた。
「黒幕、という言葉の重さによるね」
「どういうことだ」
「少なくとも、新聖女の巡礼一行の道具が使われた。随行印もある。ミラベルの名も出た。王宮の正式命令ではない。ここまでは言える」
オクタヴィアは封筒を指で弾いた。
「でも、ミラベル本人が命じた文書があるかは、これから調べる。部下が勝手にやった、神殿の一部が忖度した、王太子殿下のためだと信じた。逃げ道はいくつもある」
「忖度で魔物を流されるの、たまったもんじゃないんですが」
「だから証拠を消される前に拾った。君たちが中で勝って、時間を稼いだからね」
リューが、オクタヴィアを見た。
「ミラベル様は、なぜ私を……」
言いかけて、そこで止まる。
オクタヴィアは、少しだけ声を落とした。
「推測でいい?」
「はい」
「君が生きていて、しかも別の力で立ち始めたから」
リューの肩が、わずかに揺れた。
「前聖女がただ追放されて、どこかで弱って消えるなら、都合がよかったんだろうね。でも君は生きている。街で目撃され、祠で穢れを鎮め、魔物の流れまで乱した。新聖女の正しさを支える物語には、邪魔になる」
物語。その言葉が、やけに冷たく聞こえた。
「ミラベル側から見れば、君が生きているだけで比較対象になる。あの人は本当に聖女だったのか。なぜ捨てられたのか。新聖女の祈りは本物なのか。民はそういう話をする」
「だから消す?」
俺の声が低くなる。
「消すか、囲うか、壊れない程度に閉じ込めるか。今回のやり方を見る限り、まずは回収して話を封じるつもりだったんじゃないかな」
「私は、ミラベル様から直接、何かをされた記憶はありません」
「直接じゃなくても、人は追い込める」
オクタヴィアは淡々と言った。
「神殿の報告を変える。王太子殿下の耳に入る言葉を選ぶ。前聖女は不安定だと囁く。殿下の憂いを取り除くべきだと周囲に思わせる。そういうのは、命令書より厄介だよ」
王太子は唆された側かもしれない。でも、リューを切り離した責任は消えない。
その構造が、少しずつ形を持って見えてきた。
「殿下は、ミラベル様に騙されたのでしょうか」
リューが小さく言った。
オクタヴィアはすぐには答えなかった。
「その可能性はある」
やがて、オクタヴィアが言った。
「でも、騙されたことと、君を切ったことは別だよ。人は、聞きたい言葉を選んでしまうことがある。王太子なら、その選択の重さは普通の人より大きい」
「そう、ですね」
リューは目を伏せた。
かすかな声だった。
俺は彼女の横へ座った。
リューはそれを見て、ほんの少しだけ指を緩めた。
「カナタ」
「うん」
「私は、王都へ戻らなければならないのでしょうか」
その問いは、重かった。
逃げ続けるだけでは済まない。証拠がある。新聖女の名が出た。王太子の名も使われた。
王都と神殿は、もう遠い場所ではない。
でも、今すぐ戻れば、またあちらの力に飲まれる。
「今すぐは戻らない。戻るとしても、リューが準備できてからだ。証拠を揃えて、味方を作って、こっちの足場を固めてから。連れていかれるためじゃなく、言うべきことを言うために戻る」
「私が、言うのですか」
「リューが言いたいなら」
そう答えると、彼女は少しだけ息を吐いた。
「まだ、わかりません」
「それでいい。今は、わからないままでいい」
オクタヴィアが立ち上がった。
「よいしょっと。私は一度レギオンへ戻る。こいつらと証拠を預ける。君たちは今日は休みな」
「休める状況に見えるか……?」
「休まないと、次に倒れる。特にリュミエラが」
「はい」
リューが小さく頷いた。
オクタヴィアは俺を見た。
「あと、カナタ君」
「はい」
「王都に行くなら、レギオンとしての形を作っておいた方がいい。個人と逃亡者では潰される。登録されたレギオンなら、少なくともレギオンが口を挟める」
その言葉に、胸の奥が動いた。
レギオン。最初は、俺が面接に落ち続けたから作ろうと思ったものだ。
でも今は、意味が変わり始めている。
リューを守るためだけではない。
リューが自分の足で立つ場所を作るため。
俺とコハクと、これから増えるかもしれない誰かが、同じ灯りの下に戻ってこられる場所を作るため。
「わかった。まずは、ここをちゃんと拠点にします」
「雨漏りだらけだけどね」
「そこは言わないでください」
オクタヴィアは笑い、捕縛した男たちを連れて出ていく。
足音が遠ざかると、広間には俺とリューとコハクだけが残された。
外はまだ曇っている。でも、魔物の唸りはもう聞こえない。
リューは護符が包まれた布を見つめていた。
「ミラベル様……」
彼女はもう一度、その名前を呼んだ。
そして、ゆっくり目を伏せる。
「私が生きていることが邪魔なら、私は生きているまま、あの方の前に立たなければならないのですね」
新聖女ミラベル。
王太子の名を使える誰か。
神殿と王都。
次に向かうべき敵の形が、ようやく見え始めていた。
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