第三十六話 次は……私が決めます
短剣の切っ先が、喉元にある。
刃が肌に触れているわけではないのに、そこだけ空気が薄くなったみたいだった。
背中には棚。足元には水と灰。落とされた剣は、男の向こう側へ滑っている。
動けば刺さる。動かなくても、このまま押さえられる。
中央の男は、息ひとつ乱していなかった。
右手には細剣。左手には短剣。
俺の喉元へ短剣を向けたまま、細剣の切っ先を通路の奥へ向けている。
リューを牽制しているのだ。
「リュミエラ様。こちらへ。でないと、手元が狂うかもしれない」
脅し方まで、丁寧だった。殺すとは言わない。手元が狂う。
自分の意思ではなく、状況のせいにする言葉。
「カナタ……動かないでください」
「……了解」
情けない返事しか出ない。
昨日の俺なら、焦って動いていたかもしれない。
強い型を探して、また押していたかもしれない。
今は、リューの声を聞く。
男の目が、ほんのわずかに通路の奥へ向いた。
「賢明だ。リュミエラ様、あなたも無駄な抵抗は……」
「無駄かどうかは、私が決めます」
リューの声は震えていない。
俺は動けないまま、通路の奥を見た。
彼女は調理場の入口に立っていた。
片手は壁に添えている。顔色はまだ悪い。手首には布。足元はしっかりしているが、長く走れる状態ではない。
それでも、彼女は前を見ていた。
銀髪が灰色の光を拾う。
俺の目に映る彼女は、女神型でも、月光戦姫型でもない。ただのリューだ。
「リュー」
俺は名前を呼んだ。
喉元の短剣が少し近づく。
「下がれ」
「カナタ。さっき約束しました。私が怖くなったら言う。あなたが焦ったら止める、と」
「ああ」
「今、私は怖いです」
その言葉を聞いて、男の口元がわずかに動く。
勝ったと思ったのかもしれない。
「でも、下がりたい怖さではありません」
彼女の右手が、調理場の壁から離れる。
そこには、細い白布が巻かれていた。
作戦の時に、俺たちが踏んでいい場所を示すために結んだ布。その残りだ。
いつの間にか、棚の奥の支えに結んでいたらしい。
「止めたい怖さです」
リューは布を引いた。
ぎし、と棚の奥で音がした。
俺の背中に触れていた棚ではない。
そのさらに奥、調理場側に斜めに立てかけていた細い板と壊れた棚板が、支えを失って倒れる。
男は反応した。
速い。俺を刺すでもなく、リューへ踏み込むでもなく、まず自分の足場を確認する。
その判断は正しい。しかし、リューの狙いは男の足ではなかった。
倒れた棚板が、通路の奥に吊っていた鍋を引っかける。
鍋の中に残っていた灰水が、ばしゃりと床へ広がった。
灰と水が混じり、黒い泥のように男の靴元へ流れる。
「小細工を」
俺の喉元から刃が離れる。
ほんの一寸。けれど、それで息が戻った。
「カナタ、右膝!」
俺は考えず、右膝を落とした。
同時に男の細剣が走る。さっきまで俺の胸があった位置を、銀の線が通った。
ぞっとするほど正確だ。
俺は膝をついたまま、棚の下へ肩を入れ、男が踏み込もうとする。
靴底が灰水で滑った。大きく崩れたわけではない。
だが、昨日から見ていた左足ではない。今度は右足だ。細剣を振った後、右へ体重を戻す一瞬。
そこをリューは狙った。
「今ですっ!」
リューの声が落ちる。
俺は男の足首ではなく、床の盾を蹴った。さっき捨てさせた大盾だ。
重い盾は大きくは動かない。それでも、石床の上を半歩分だけ滑り、男の後ろ足に当たった。
男の体勢が初めて崩れた。
「っ」
短い息。
俺は手を伸ばし、床に落ちていた自分の剣ではなく、男がさっき手放した細剣の鞘を掴んだ。
刃ではない。鞘で、短剣を持つ左手を下から打つ。
短剣が跳ね床に落ちる。
「カナタ、下がって!」
勝ちに行きたくなる足を止めた。
ここで踏み込めば、また男の間合いに入る。
俺は転がるように棚の陰へ戻った。
男はすぐに体勢を戻す。
短剣は落としたが、細剣はまだ握っている。灰水を避けるため、一歩だけ広間側へ下がった。
その一歩が、重要だった。
通路の奥にいたリューが、前へ出る。
「リュー!」
俺は思わず叫んだ。
でも、彼女は止まらない。走るのではない。飛び込むのでもない。
一歩。もう一歩。自分の足で、決めた場所へ進む。
彼女の手には、調理場の火かき棒があった。
ただの鉄の棒だ。剣でも魔法でもない。
だが、リューはそれを両手で持ち、男の前に立った。
「そこから先へは、行かせません」
「武器の持ち方も知らない娘が、私を止めると?」
「はい」
リューの返事は短かった。
「あなたは私を壊せません。生きたまま連れていく必要があるからです。なら、私がここに立てば、あなたは私ごとカナタへ踏み込めない」
男の表情が冷えた。
事実を突かれた顔だった。
「自分を盾にするつもりか」
「違います」
リューは火かき棒を構え直した。
手首が震えている。怖いのだ。それでも、棒の先は下がらなかった。
「私は、私の立つ場所を決めています!」
昨日までの俺なら、彼女を下がらせようとしたかもしれない。
危ないから。守りたいから。前へ出すのが怖いから。
でも、それでは彼女の声をまた消す。
リューは、今、自分で立っている。型なしで。聖女でも、騎士王でもなく。
「カナタ。私の右後ろに、あなたの剣があります」
俺は床を見た。
灰と水で汚れた石床の上、俺の剣が棚の脚に引っかかっている。
さっきは届かないと思った場所だ。
でも、リューが男の視線を止めている今なら、手を伸ばせる。
「取れますか」
「取る」
俺は這うように手を伸ばし、指先が柄に触れる。
男が動こうとした。
リューの火かき棒が、男の足元へ伸びた。
攻撃ではない。進む先に置いただけだ。
だが、細剣で彼女を払えば、傷がつく。男は一瞬だけ止まった。
その一瞬で、俺は剣を引き寄せた。広間の奥で、弓兵が動く。
「リュミエラ様から離れろ!」
中央の男が初めて声を荒げた。
弓兵は射てない。リューが間にいるからだ。
縄の男も鎖の男も、彼女を傷つけずに俺へ届く位置を探している。
短槍の男が横から通路へ入ろうとした。
その時、塔の上でコハクが鳴いた。
「にゃあっ!」
上空の影ではない。今度は、広間の入口側。
門の外の魔物がまた近づいている。敵が動きを変えたせいで、香の流れが乱れたのだ。
中央の男は舌打ちした。
「弓、門を押さえろ。短槍は女の右。縄は男」
昨日なら、それで全員が動いていた。
だが今は、鎖の男が手首を押さえ、盾の男は盾を捨て、弓の一人は塔の猫を気にしている。
魔物も門へ寄っている。完璧には揃わない。
リューが、男の視線を読んだ。
「次は、私の右です!」
短槍の男が、リューの右側へ入ろうとする。
俺は拾った剣で槍の柄を叩いた。槍の穂先が壁へ逸れる。
「リュー、下がれ!」
「はい」
彼女は素直に一歩下がった。さっきは下がらなかった。今は下がる。
その違いを、自分で決めている。
俺は彼女の前へ出た。
脇腹は痛い。手首も痺れる。でも、剣は戻った。
リューは背後にいる。
中央の男は、細剣を構え直した。
落とした短剣を拾う余裕はない。だが、まだ強い。
こいつを完全に止めるには、今の俺だけでは足りない。
その時、リューが小さく息を吸った。
「カナタ。私は、型なしで前に出ました」
「ああ」
「怖かったです。でも、できました」
リューの指が、俺の背中の服をほんの少し掴み、離れる。
「次は……私が決めます」
その言葉が聞こえた瞬間、視界の端に白い光が浮かんだ。
【騎士王型】
接続候補を再検出。
対象意思 明瞭。
使用者理解 更新済。
強制接続 不可。
対象同意確認待ち。
接続可能。
昨日の紫ではない。白い文字。
冷たく突き刺す失敗ログではなく、静かに剣を差し出すような表示だった。
俺は、リューの名前を、先に呼ぶために息を吸った。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




