第三十五話 うちの大事な戦力に、雑な分類をするな
中央の男が一歩踏み出した瞬間、広間の空気が変わる。
昨日までのように後ろで観察する指示役ではない。自分で間合いに入ってくる者の足音。
湿った風に舞った灰が、床の足跡を少しずつ崩していく。
門の外では、誘導香に引かれた魔物の唸り声が近づき始めていた。
頭上のワイバーンの影は、塔の縁をかすめるたびに石の粉を落とす。
リューは調理場の奥へ下がった。
足は震えていない。でも、右手はいつでも壁に触れられる位置にある。自分の身体を支えるためと、逃げる方向を見失わないためだ。
「弓は門側。縄は右。鎖はまだ布に絡んでいます」
リューの声が届く。短く、正確に。
「了解」
俺は棚の陰から広間を見る。
盾を捨てた男は、短剣に持ち替えている。左足の弱さは残っているが、身軽になった分、さっきより速い。
短槍の男は、通路へ入らず広間側で槍を横に構えていた。こちらを突くというより、俺たちが広間へ戻る道を塞ぐ構えだ。
中央の男が、腰の剣を抜く。
細い剣に装飾は少ない。だが、鞘から抜かれた刃は、手入れの行き届いた銀の線のように光っている。
「リュミエラ様は生かす。猫もできれば確保。男は、足を止めろ」
男の声で、敵の動きが揃う。
昨日より厄介だ。こちらの罠にかかった直後なのに、もう形を変えてくる。
「カナタ、左の弓が動きます!」
左の弓兵が、広間の柱の陰から通路の角度を探っていた。
俺は床の灰の上に残った足跡を見る。弓兵の爪先は、こちらではなく門の外へ向いている。
「魔物に撃つ気かっ!」
弓兵が矢を放った。狙いは俺たちではない。門の外の地面だ。
黒い粉を塗った矢が石段に刺さり、甘く焦げた匂いが強くなる。
魔物の唸りが、門の方へ寄ていく。
焦がし豆と肉脂の匂いで逸らしていた流れが、少し戻される。
「コハク!」
「にゃあっ!」
俺が呼ぶより早く、塔の上でコハクが鳴いた。
塔の崩れた段の上に置いていた小袋が、ひとつ落ちた。
準備の時、コハクの足元に置いておいた灰胡椒の粉だ。小袋は門の内側の石に当たり、赤茶色の粉をふわりと散らした。
風が門の外へ抜ける。
胡椒の匂いが、黒い粉の甘い香りを押し戻した。
狼型の魔物がくしゃみのような声を上げ、鼻先を地面から離す。
完全に逃げたわけではない。けれど、門へ押し込む勢いが落ちる。
「猫が粉を落としたぞ!」
「猫を見張れ!!」
中央の男の声が飛ぶと、右の弓兵が塔を狙った。
肩が上がる。
「肩!」
「コハク、下!」
コハクは塔の穴から身を引いた。矢が石の縁に当たり、火花のような石片が散る。
猫の毛が一房、風に舞った。
「コハク!」
「にゃあ!」
無事らしい返事にほっとする。
脇腹とは別の場所が冷えた。
「猫に撃つなよ!」
「撃たれたくなければ、使うな」
腹が立つ。
だが、怒って飛び出せば昨日の二の舞だ。
俺は棚の陰に戻り、呼吸を整えた。
「リュー、次」
「鎖の男が外へ回ります。昨日より左手を使っています」
「見えてる」
鎖の男は布を捨て、広間の外側から調理場の脇へ回ろうとしていた。
狭い通路にこだわらず、横の崩れた壁から入るつもりだ。
土の図で想定した道のひとつだ。
「二つ目」
リューが塔へ向かって言った。
声は大きくない。でも、コハクには届いた。
「にゃ」
塔の中段から、二つ目の小袋が落ちる。
今度は通路の外側、崩れた壁の近くだ。
鎖の男が足を踏み入れた瞬間、小袋が石に当たって弾けた。
「ぐっ」
灰胡椒の粉が、鎖の男の顔へ舞う。
男は目を押さえ、鎖を振る方向を見失った。
鎖の鉤が壁の割れ目へ引っかかる。
「今!」
鎖そのものではなく、男の手首を狙う。
昨日打った場所と同じだ。剣の柄を叩き込むと、男が呻いて鎖を落とした。
殺さない。武器を落とす。情報を取る。
頭の中で何度も確認する。
だが、その瞬間、背後の気配が変わった。
「カナタ、戻って!」
中央の男が、もうそこにいた。
広間から通路までの距離を、俺が鎖の男に気を取られた一瞬で詰めていた。
細い剣が、俺の右肩を狙って伸びる。
俺は慌てて剣を上げた。
刃と刃が当たる。
重くはない……だが、嫌なほど滑らかだった。
こちらの力を受け止めず、角度で逃がし、次の瞬間には手首の内側へ刃が入ってくる。
「っ」
反射で引いた分、遅れた。
袖が裂け、皮膚に浅い赤線が走る。
「剣は素人ではない。だが、足が乱れる。怪我をかばっているな」
ばれている。
脇腹をかばった動きも、手首の痺れも、全部見られていた。
「面接でも、だいたい弱点から聞かれるタイプでしたね」
「何の話だ」
「こっちの話です」
軽口を叩いたが、汗が背中を伝った。
男の剣は、派手ではない。速すぎるわけでもない。
だが、こちらが嫌な場所へ、嫌な角度で入ってくる。
俺は棚の方へ下がった。
通路へ引き込めば、足場はこちらが知っている。そう思った。
男は、床の布を踏まない。
こちらが踏んでいい場所を示す布を、見抜いている。
灰の上の足跡も、棚の角度も、水の場所も、短い視線で確認しながら進んでくる。
「小細工は悪くない。だが、二度は続かない」
男の剣が、下から跳ね上がった。
受けた瞬間、手首が浮かされ、続けて柄頭が脇腹へ入った。
「ぐっ」
視界が白くなる。
傷の上を打たれ、膝が落ちかける。
「カナタ!」
「大丈夫」
嘘だ。痛い。めちゃくちゃやせ我慢している。
言わなければならないのは、こっちだった。
痛い時は痛いと言う。
「~~~!!いや、痛い!」
吐き出すと、リューの目が一瞬だけ見開かれた。
それから、彼女の声が落ち着く。
「なら、右足を引いてください。脇腹をかばうなら、正面で受けないで」
「了解」
痛いと言ったら、指示が来た。
俺は右足を引き、正面ではなく斜めに構える。
男の次の突きは、俺の肩を狙ってきた。
受けずに流す。剣の腹で軽く触れ、棚の角へ誘導すると、刃が棚の木に刺さった。
「今度はこっちの番だ!」
俺は剣の柄で男の手元を打とうとした。
だが、男は剣を手放した。
「え」
一瞬、反応が遅れる。
男は腰の短剣を抜き、こちらの懐へ入ってきた。
迷いがない。武器を捨てることも、距離を変えることも、最初から選択肢に入っている動きだ。
短剣の柄が、俺の手首を打つ。
しびれた指から、剣が落ちかけ、必死に握り直す。
「リュー、下がれ!」
男の狙いが、俺を抜けた先にいるリューへ移った。
彼女はすでに半歩下がっている。だが、調理場の奥は狭い。逃げる距離には限りがある。
「三つ目!」
リューが言った。
塔の上で、コハクが鳴く。
「にゃっ!」
三つ目の小袋が落ちた。
今度は男の背後ではなく、頭上に近い位置からだった。
粉がふわりと降る。
中央の男は、外套の袖で口元を覆った。
反応が早い。灰胡椒をまともに吸い込まない。
だが、その一瞬だけ視線が上へ向いた。
「カナタ、足!」
床の水を蹴った。
水を撒いた場所から、さらに薄く広がっていた水が、男の踏み込む足へかかる。
男の靴底がわずかに滑った。
本当に一瞬。体勢が崩れたというほどではない。
でも、短剣の軌道が数寸外れた。
「ふっ!!」
俺は肩から男へぶつかる。
痛い。脇腹が最悪だ。内臓出てんじゃないかって気になる。
それでも、男の距離をリューから離すことはできた。
男は一歩下がった。
すぐに体勢を戻す。
こちらを見る目が、昨日より冷たい。
「猫と女の観察が厄介だな」
「女じゃなくて、リューだ」
俺は息を切らしながら言った。
「そして猫はコハクだ。うちの大事な戦力に、雑な分類をするな」
「名前を呼べば勝てるのか」
「呼ばないよりは、ずっとましだ」
男は短剣を構え直した。
その後ろで、弓兵が門側から戻ってくる。縄の男も、迂回を諦めて広間へ下る。
こちらは鎖を一人止めた。門の魔物も押し返した。盾も使わせていない。
それでも、中央の男が前に出てきただけで、流れが一気に苦しくなった。
リューの観察眼は効いている。コハクの粉も効いた。作戦も効いている。
でも、この男だけは、ひとつ上の段にいる。
「リュー、もう一段下がる」
「はい」
リューが後ろへ下がるのに合わせて、俺も下がる。
そのつもりだった。
中央の男が、床へ落ちていた自分の細剣を靴先で跳ね上げた。
短剣を左手へ持ち替え、右手で細剣を取る。
「うわ、最悪っ!」
思わず声が漏れた。
男の剣が左右から来た。
片方を受けると、もう片方が入る。下がるしかない。
棚の角に背が触れる。逃げる線が一つ消えた。
「カナタ、左です!」
わかっても、身体が遅い。
細剣が俺の手首を打った。
今度こそ、剣が手から落ちた。
石床を滑る音が、やけに大きく聞こえる。
男の短剣が、俺の喉元へ向いた。
「終わりだ」
息が止まった。
背中に棚。足元には水と灰。剣は届かない場所にある。
リューは調理場の奥。コハクは塔の上。
俺の作戦は、中央の男を止めるところまでは届かなかった。
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