第三十四話 カナタも、痛い時は痛いと言ってください
その日の午後、俺たちは土の上の作戦図を現実へ移した。
広間の床には、暖炉の灰を薄く撒いた。
撒きすぎればこちらの足も滑る。少なすぎれば敵の足跡が残らない。俺が加減に迷っていると、リューが膝をつき、指先で灰の厚みを確かめた。
「このくらいなら、足跡は見えます。けれど、咳き込むほどではありません」
「灰の調整までできるの、だいぶ頼れるな」
「神殿では、祭壇の灰を片づけることもありました」
「聖女様にやらせる仕事じゃない気がする」
「誰もやりたがらない仕事は、祈りの名目で回ってくるものです」
淡々と言われると、反応に困る。
俺は怒りそうになって、灰を撒く手に力を入れか、すぐに息を吐く。
怒りで作業を雑にしても、床が灰まみれになるだけだ。
調理場へ続く通路には、倒れた棚を斜めに置いた。
昨日壊された棚だ。リューが拭いていた棚を、さらに戦闘用の障害物にするのは心苦しい。
「あとで直す」
「はい。前より使いやすくしてください」
「言質を取るのが早い」
棚の足元には、水を少し撒く。
滑りすぎると危ないので、敵が踏み込みたくなる場所だけにした。
その手前には、俺たちが踏んでいい場所を示す布切れを置く。暗くてもわかるよう、布には白い糸を結んだ。
門の外には、焦がした豆、肉の脂を染み込ませた布、そして薬草型で調べた刺激の弱い草を吊るした。
魔物の鼻を逸らすための匂いだ。
誘導香のように引きずり回すのではなく、門へ近づいた時だけ、鼻先を横へ向けるためのもの。
リューはそれを何度も確認した。
「苦しめませんか」
「薬師型の表示では、刺激は軽い。コハクも嫌がってない」
「にゃ」
コハクは門の上から短く鳴いた。
鼻を近づけても逃げないので、たぶん大丈夫なのだろう。
猫判定に頼りすぎている気はするが、今はその猫判定が一番信用できる。
崩れた塔には、コハクが登った。
途中で石が崩れ、俺の心臓も少し崩れかけたが、コハクは軽々と上へ行った。小さな身体が塔の穴から顔を出し、琥珀色の瞳で森を見下ろす。
「危なくなったら降りろよ」
「にゃあ」
コハクは尻尾を立てた。
たぶん、ちゃんとわかっている。そう信じたい。
準備が終わる頃、空は灰色に沈んでいた。
風が湿っている。雨になる前の匂いだ。壊れた屋根の隙間から、冷たい空気が広間へ落ちてくる。
リューは広間と調理場の境目に立つ。そこは、彼女が自分で選んだ場所だ。
敵からは見える。けれど、すぐ後ろに下がれば狭い通路へ入れる。
「リュー」
「はい」
「怖くなったら言え。俺が焦ったら止めろ」
「はい。カナタも、痛い時は痛いと言ってください」
「そこも入るのか」
「入ります」
「にゃっ」
コハクが塔の上で短く鳴いた。
森の方角を見ている。
俺は剣を握った。
「来たか」
最初に聞こえたのは、魔物の声ではなかった。人の足音だ。
門の外、石段を上がってくる音。重い靴底が、濡れた土を踏む。
一人ではない。昨日と同じ数だ。
やがて、門の向こうに灰色の外套が見えた。
中央の男が先頭に立っている。
その後ろに盾。弓。短槍。縄。鎖。
配置は少し変わっているが、顔ぶれは同じだった。
「まだここにいるとは」
中央の男が言った。
声は昨日と同じく落ち着いている。
だが、昨日ほど余裕はないように見えた。
「おかげさまで」
俺が返すと、男の眉がわずかに動いた。
代わりに、門の左右へ視線を走らせる。
焦がした豆と肉の脂に気づいたのだろう。背後の魔物の唸り声が、昨日より遠い。
完全には消えていない。だが、門へまっすぐ押し込んでくる気配は薄かった。
「小細工を……」
「昨日、だいぶ学んだんで」
「学ぶのが早いのは、厄介だな」
男が手を上げた。
「正面から入れ。広間を押さえる」
盾の男が前へ出る。弓兵二人は、その後ろで左右へ分かれた。
昨日と同じように、広い場所でこちらを囲むつもりだ。
俺は壁裏へ半歩下がった。
リューだけが、広間と通路の境目に残ると、白い外套の裾が風に揺れた。
「リュミエラ様。昨日より顔色がいい。回復系の役割も入るのなら、やはり主へ報告する価値がある」
リューの指が、ほんの少し動いた。
でも、彼女は下がらなかった。
「私は、品物ではありません」
「品物とは言っていない」
「言葉が違うだけです」
中央の男の目が細くなる。
その一瞬、弓兵の右肩が上がった。
「肩っ!」
リューが短く言う。
俺は壁裏から飛び出した。
右の弓兵が矢を高く放つ前に、床へ置いていた石を蹴る。石は弓兵の足元へ転がり、灰を薄く巻き上げた。
男の踏み込みが乱れる。矢は天井の梁に当たったが、角度が浅い。跳ね返った矢は俺たちから外れ、壁に刺さった。
「おお、当たった」
「喜ぶのは後です」
「はい」
リューの声に、俺はすぐ壁裏へ戻る。
縄の男が俺の足元を狙っていた。戻りが一瞬遅ければ、足首を取られていた。
広間へ踏み込んだ盾の男が、床の灰に足跡を残す。
左足の跡だけ、少し浅い。
リューの言った通りだ。左足への体重の乗り方が弱い。
「左へ回らせる」
俺は小さく言い、通路の奥へ下がった。
リューも一歩ずつ後退する。逃げているように見えるはずだ。
実際、逃げる距離でもある。
だが、足元の布を踏みながら、俺たちは決めた場所へ下がっている。
「追え」
中央の男が命じると、盾が前へ出る。
短槍がその後ろにつき、弓兵は広間に残り、角度を探す。
縄と鎖は左右から回ろうとした。
だが、通路は狭い。
昨日の広間のようには広がれない。
盾の男が棚の前で足を止めた。
棚は斜めに置いてある。まっすぐ押せば進めそうだが、そのためには左へ体を開く必要がある。
男は一瞬だけ迷い、左へ回ろうとした。
その左足が、水を撒いた床を踏んだ。
「今!」
リューが言う。
俺は棚の陰から剣の柄で盾の縁を打った。
刃ではない。盾を壊すのではなく、向きをずらす。
左足の弱さと床の水が重なり、盾の男の体がわずかに流れた。
後ろについていた短槍の男が、避けきれず盾にぶつかる。
「詰まった!」
思わず声が出た。
「カナタ、右!」
リューがすぐに言う。
右の弓兵が、通路の隙間を狙っていた。
俺は棚の下へ身を落とす。矢が頭上を通り、壁に当たった。
黒い粉が少し散ったが、床の灰と水に吸われる。
昨日なら、ここで香の匂いに魔物が反応したはずだ。
しかし門の外では、焦がした豆と肉の脂の匂いが勝っている。
魔物の唸りは遠いまま。
「香が効かないっ!」
「効かないんじゃない。薄められている」
中央の男の声が、少し低くなる。
「前回と違うぞ。広間へ戻せ」
戻せるなら、戻してみろ。そう言いたかったが、口にはしなかった。
喋る余裕があるなら、次の足元を見た方がいい。
縄の男が、通路の入口から足元を狙う。
俺は右へ逃げる顔をした。いや、できているかはわからない。
面接で落ち続けた男の表情筋だ。信頼は薄い。
だが、縄は右へ飛んだ。
「左」
リューの声に合わせ、俺は実際の足を左へ運ぶ。
縄は空を切り、棚の壊れた取っ手に引っかかった。
縄の男が引くと、棚が大きく揺れ盾の男の肩へぶつかった。
「よしっ!」
通路の中で、敵の足が乱れた。灰に新しい足跡が増える。
右の弓兵。左の弓兵。盾。短槍。縄。
見える。どこに誰がいるのか、昨日よりずっと見える。
リューが通路の奥で、静かに息を吸った。
「鎖が来ます。外へ膨らみます」
その直後、鎖が棚の向こうから飛んだ。
リューの言った通り、軌道が外へ膨らんでいる。昨日俺が手首を打った影響だ。
俺は垂らしておいた厚布を横へ引くと、鎖の鉤が布へ絡む。
鎖の男と引き合う形になる。
力では負ける。
だから俺は、布ごと手を離した。
鎖は勢い余って男の側へ戻り、隣の弓兵の足元を乱した。
「なんだ、今のは」
敵の声が荒れる。
昨日と違う。それを、向こうが一番感じている。
しかし、中央の男はまだ崩れなかった。
彼は広間の中央に立ち、通路の奥の俺たちを見ている。
その目が、土の図にはなかった動きを探している。
「盾を捨てろ」
男が言うと、盾の男が一瞬だけ振り返る。
「捨てろ。狭い場所では邪魔だ」
盾の男は大盾を床へ落とした重い音が通路に響く。
盾がなくなった男は、腰の短剣を抜いた。
左足は遅い。だが、身軽になれば話が変わる。
「弓は門側へ。魔物をもう一度寄せろ。縄と鎖は女を狙え。男ではなく、女だ」
中央の男は続けて命じた。
リューの肩が動いた。俺はすぐ名前を呼ぶ。
「リュー」
「はい」
「下がる。調理場の奥へ」
「はい」
怖さを押し込めない。
押し込ませない。そう決めていたから、俺たちは同時に後ろへ下がった。
だが、敵もすぐに変わった。
右の弓兵が門側へ走り、黒い粉の矢を外へ放つ。
甘く焦げた匂いが一瞬強くなると、門の外で、魔物の唸りが近づいた。
コハクが塔の上で鋭く鳴く。
「にゃあっ!」
俺は反射的に屋根の穴を見た。
灰色の空を、大きな影が横切る。
「ワイバーン!」
昨日より低い。
壊れた塔の縁をかすめ、風が中庭から広間へ吹き込んだ。
灰が舞う。足跡が一瞬、白くぼやけた。
「まずいっ」
視界が乱れる。せっかく見えていた足跡が、風で崩れ始めている。
中央の男が、初めてこちらへ一歩踏み出した。
「前回と違う。だが、崩せないほどではない」
その声は低い。
昨日の観察する声ではない。自分で動く前の声だった。
俺は剣を握り直した。
リューは、土の図で決めた通り調理場の奥へ下がっている。
コハクは塔の上で、ワイバーンの影を見ている。
門の外では、魔物の声がまた近づいている。
作戦は効いた。確かに効いた。
けれど、敵もまた、作戦を変えてきた。
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