第三十二話 私は、型なしでも戦えますか
リュミエラをリューと呼ぶ。
そう決めたところで、すぐに勇ましく動けるほど、現実は甘くなかった。
俺の脇腹は痛むし、リューはまだ長く立っていられない。
コハクも疲れたのか、暖炉の前で丸くなったまま、片耳だけこちらへ向けていた。寝ているように見えて、物音がすると尻尾の先だけ動く。
砦の外は静かだ。
静かすぎて、かえって落ち着かない。
俺たちは半刻ほど休んでから、広間の状態を見て回った。
入口の石は崩れ、木片は噛み跡だらけになっていた。
床には矢が三本落ちている。鏃には黒い粉の残りがあり、近づくと甘く焦げた匂いがした。直接触らないように布で包み、調理場から持ってきた空き瓶へ入れる。
壁際には鎖の擦れた跡。
暖炉の前には、盾の男が踏んだらしい重い足跡。
地下扉へ続く廊下の前には、七人の男たちが立っていた位置が、踏み固められた土と埃で残っていた。
「ちゃんと見れば、結構残ってるな」
俺が呟くと、リューは暖炉の柱に手を添えながら頷いた。
「戦っている時は、見えませんでした」
「俺も。正直、床と盾と失敗ログしか覚えてない」
「失敗……」
「紫色のやつ。しばらく夢に出そう」
言ってから、少しだけ口を閉じる。
軽く言える傷ではない。でも、ずっと黙り込んでいると、言葉そのものが怖くなる。
リューは俺を責めなかった。
それが楽なわけではない。むしろ、俺の中に残る重さは増えたままだ。
だからこそ、次に何をするかを考えなければならない。
「正面から戦ったら負ける。昨日それを確認した。七人を相手に、型の力で押し切ろうとしたら、リューが先に潰れる」
「はい」
「だから、次は戦い方を変える」
リューがこちらを見る。
「型は最後の補助。主役にしない」
俺は作戦帳を持って、中庭へ出た。
中庭と言っても、石壁に囲まれた土の広場に近い。かつては訓練場だったのかもしれない。今は草が伸び、ところどころに石が転がり、倒れた柱が雨ざらしになっている。
空は曇っていた。
風が冷たい。湿った土の匂いに、昨夜の焦げた香の残りが薄く混じっている。
「ここなら線が引ける」
俺は折れた枝を拾い、土の上に大きな四角を描いた。
「これが砦全体。ここが門。昨日、魔物が押し込んできた場所」
四角の南側に線を切る。
中央に大きな丸。
「ここが広間。暖炉はこっち。地下扉へ続く廊下がこっち」
丸から細い線を伸ばす。
調理場、貯蔵庫、崩れた壁の隙間、壊れた塔、古い井戸、外へ抜ける細い通路。
覚えている限り、全部土に描いた。
リューは膝をつき、黙ってそれを見ていた。
コハクもいつの間にか外へ出てきて、土の図の端に座る。
猫のくせに、やたら真剣な顔をしている。
「まず、相手の狙いを確認する」
俺は小石を七つ拾い、広間の位置へ置いた。
「敵は七人。中央の男が指示役。弓が二人、短槍が一人、盾が一人、縄と鎖が二人。たぶん全員が捕獲向きの装備だった」
「殺すつもりではありませんでした」
「リューを生かして連れていきたいからな。俺はどうでもよさそうだったけど」
「それは、どうでもよくありません」
リューがすぐに言った。
俺は枝を止めた。
「……ありがとう」
「はい」
昨日の今日でその一言をくれるのは、重い。
俺は息を吸い直し、図へ視線を戻す。
「次に、相手の武器。弓は広い場所だときつい。でも狭い通路なら角度が制限される。盾は正面からだと硬い。だけど階段や狭い曲がり角なら、後ろのやつが詰まる」
「縄と鎖は、足元を狙っていました」
「ああ。だから床にものを置く。引っかけにくくするか、逆に向こうが踏みにくいようにする」
俺は小枝をいくつか並べた。
広間の入口に倒れた椅子。廊下の曲がり角に石。調理場の前に油を吸わせた布ではなく、水を撒いて滑りやすくする場所。
火は使わない。この砦で火を使いすぎると、俺たちの寝床も消える。
「こっちの手札は、地形、コハク、灰胡椒、香の瓶、壊れた家具、あと俺の剣とリューの型」
「私の型は、今どれが使えますか」
聞かれて、俺は視界の端へ意識を向けた。
コハクが近くにいるので、表示はすぐに開いた。
【ヒロインインストール】
月光戦姫型 再接続待機中。
精密魔導型 接続可能。
薬師型 接続可能。
召喚巫女型 接続負荷 小。
女神型 再接続待機中。
爆裂魔導型 接続非推奨。
騎士王型 接続経路破損。再接続不可。
聖女型 凍結継続。
騎士王型の行を見ると、喉の奥が硬くなる。
俺はそのまま読み上げると、リューは静かに聞いていた。
「月光はまだ待機中。精密、薬師は使える。召喚巫女は負荷小。女神は待機中。爆裂は非推奨。騎士王は……接続経路破損、再接続不可。聖女型は凍結継続」
「騎士王型は、使えないのですね」
「今は。少なくとも、無理に使う気はない」
「……はい」
リューは頷いた。
ほっとしたのか、寂しいのかはわからなかった。
俺の視点から決めつけてはいけない。
「精密魔導型なら、弓の手元を落とせるかもしれません」
「そうだな。ただ、昨日みたいに囲まれると危ない。精密型は冷静だけど、近距離で押されると防御が薄い」
「薬師型なら、香の見分けと灰胡椒の調合ができます」
「それは欲しい。あと、召喚巫女型は魔物の鎮静に使える。でも敵が混ぜてくると、リューの負担が増える」
枝で図をなぞる。
「だから、魔物と人間を分けたい」
俺は門の外へ小石を置き、広間の奥へ別の石を置いた。
「敵は香で魔物をこっちへ流してくる。なら、俺たちは香の流れを逆に使う。門の外に強い匂いを置いて、魔物を広間に入れない。中に入ってくる敵は、調理場側へ誘導する」
「誘導香を、こちらも使うのですか」
リューの声が少し硬くなる。
「魔物を苦しめる使い方はしない。昨日の香は使わない。灰胡椒と、普通の匂いの強いものを使う。肉の脂、焦がした豆、薬草。魔物の鼻を逸らすだけだ」
「……それならできます。薬師型で、刺激が強すぎない組み合わせを探せるかもしれません」
コハクが図の門の位置へ前足を置いた。
「にゃ」
「そこが嫌か」
コハクはもう一度、門を押さえる。
それから、崩れた塔の位置へ前足を移した。
「門じゃなくて、塔?」
「にゃ」
俺は実際の崩れた塔を見上げた。
半分ほど崩れているが、階段の一部は残っている。上まで登れれば、森と門の両方が見える。
ただし足場は悪い。
「見張り台にするには危ないけど、コハクなら行けるのか」
「にゃあ」
「自信満々だな」
「塔からなら、ワイバーンの影も早く見えるかもしれません」
「そうか。人間と魔物だけじゃなく、上も見ないといけないんだよな」
リューが図を見つめた。
敵はワイバーンを完全には操っていなかった。
だが、誘導していた。上から逃げ道を狭められると、こちらの作戦は崩れる。
「コハクは塔で見張り。ただし危ないと思ったらすぐ降りる。いいな」
「にゃ」
「今の、わかったのか返事しただけなのかよくわからんな」
「にゃあ」
「やっぱりわからん」
コハクは尻尾を立てた。
自尊心を傷つけたらしい。
俺は図の広間に線を引き直した。
「次に、敵をどこで止めるか。広間は広すぎる。昨日みたいに弓と盾と槍で分けられると負ける。だから、ここでは戦わない」
枝を、広間から調理場へ伸びる廊下に置く。
「この廊下。曲がり角がある。二人並ぶのがぎりぎり。盾は入りにくい。弓は角度が取れない。ここに倒れた棚を置く」
「調理場をまた壊すのですか」
「……それは、ごめん」
リューは少しだけ黙った。
それから、真面目な顔で言う。
「壊すなら、あとで直してください」
「はい。何なら前より使いやすくします」
「言いましたね」
「言いました」
退路の話をしているのに、修繕予定の言質まで取られた。
でも、それで少し呼吸がしやすくなる。
「調理場へ誘導して、棚で足を止める。そこに灰胡椒を撒く。敵が咳き込んだところで、精密魔導型で武器だけ落とす」
「殺さずに、ですか」
「殺さずに。相手の情報が欲しい。主が誰なのか、香を誰が作っているのか」
「中央の男は、逃がしてはいけません」
「そうだな。指示役だ。あいつが一番情報を持ってる」
図の中央に置いた石を、俺は指で押さえた。
「ただ、あいつはこっちの限界を見てくる。たぶん次は、長期戦にしない。最初からリューを狙ってくる」
「なら、私は囮になれます」
「却下」
「まだ最後まで言っていません」
「囮って言った時点でだいたい危ない」
「でも、敵は私を傷つけたくないのですよね」
「傷つけたくないんじゃない。壊したくないだけだ」
言ってから、俺は唇を噛んだ。
嫌な言葉を使った。でも、そこを甘く見るわけにはいかない。
「だから、相手は痛めつけない範囲で動けなくする。昨日みたいに縄で縛る。精神負荷があっても、連れていける程度なら気にしない。そんな相手に、リューを餌として出したくない」
リューは少しだけ目を伏せた。
「餌ではなく、誘導役です」
「言い方で危険は減らない」
「にゃ」
コハクの鳴き声に、なぜか褒められた気分になる。
リューは図の上へ、小さな石を一つ置いた。
それは、広間と調理場の境目。
「では、私はここにいます。完全な囮ではなく、相手に見える位置です。カナタは、この横の壁裏。コハクさんは塔。敵が私へ寄ってきたら、通路へ入るように下がります」
「リュー。ダメだ、それは危ない」
「はい。でも、私が見えなければ、敵は広間を探します。広い場所で囲まれます」
言い返せない。
昨日の配置がまさにそれだ。
「私を前に出すのではなく、敵を狭い場所へ入れるために、私の位置を使う。そう考えれば、少し違います」
「少しだけな」
「少し違えば、作戦になります」
リューの声は静かだった。
怖くないわけではないはずだ。それでも、自分で考えて、位置を選んでいる。
俺がまた勝手に止めれば、それも彼女の声を消すことになる。
「わかった。ただし、三つ条件」
言いながら順番に指を立てる。
「一つ。危ないと思ったらすぐ下がる。二つ。型を使う時は、俺が先にリューの名前を呼んで、そこから同意を取る。三つ。俺が焦ったら、止めてくれ」
最後の条件に、リューは少しだけ目を見開いた。
「私が、カナタを止めるのですか」
「ああ。俺は昨日、焦った。たぶん次も焦る。だから、止めてほしい」
言うのは情けないけど、それでも必要だった。
リューは、図の上の石を見つめ、顔を上げる。
「わかりました。私も、怖くなったら言います」
「頼む」
俺は枝で、最後に一本の太い線を引いた。
広間から調理場へ、調理場から貯蔵庫へ、貯蔵庫から崩れた壁の隙間。
逃げる線ではない。敵を細く分けて、順番に止めるための線。
「作戦名、いるか?」
「いりません」
「即答」
「変な名前をつけそうでしたので」
「信用がない」
「面接通過率くらいには」
「自分で言ったネタを返されると痛いな」
ほんの少し、リューが笑った。
口元だけの笑みだった。でも、昨日の暗い貯蔵庫では見られなかった表情だ。
その時、彼女は土に描かれた図へ視線を落としたまま、小さく言った。
「カナタ」
「ん」
「私は、型なしでも戦えますか」
風が、中庭の草を揺らした。湿った土の匂いが立ち上がる。
彼女の指は、広間と調理場を分ける線の上に置かれていた。
その問いに、俺はすぐ答えられない。
強い型ではなく。
聖女でも、騎士王でも、女神でもなく。リュー自身が、前へ出ようとしている。
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