第三十一話 リューは、役割の名前ではありません
青白い女神型の光に包まれ、暗い貯蔵庫の床でリュミエラは静かに息をしている。
コハクは彼女の腹の横で丸くなり、片目だけを薄く開けていた。完全には眠っていない。俺と同じだ。
扉の外では、しばらく男たちの足音と魔物の唸りが重なっていた。
その音も、夜が深まるにつれて遠のいていく。
香を切ったのか、魔物の声は少しずつ薄れた。ワイバーンの羽音も、屋根の上を何度かかすめたあと、森の奥へ戻っていったらしい。
それでも、俺は動けなかった。
脇腹が痛む。息を吸うたび、裂けた布の下が熱を持つ。
女神型の庇護領域で痛みは丸くなっているが、傷が消えたわけではない。床の冷たさは背中から這い上がり、湿った石の匂いが鼻の奥に残っていた。
リュミエラの手首には、縄の跡がある。
俺はその赤い線を見るたび、喉の奥が詰まった。
騎士王型。
強制接続失敗。
対象精神負荷、大。
紫色の文字は、目を閉じても消えない。
「にゃ」
コハクが小さく鳴いた。責める声じゃなくて、起きているぞ、と知らせるような声だった。
「……お前も、怖かったよな」
俺が囁くと、コハクは返事の代わりにリュミエラの腕へ鼻先を寄せた。
猫の身体は小さい。けれど、今この場所で一番ぶれずに立っていたのは、たぶんコハクだった。
「俺、だいぶ駄目だったな」
「にゃ」
「否定しないんだな」
「にゃあ」
「そこは正直でいい」
苦笑しようとして、脇腹が痛んで息を押さえる。
女神型の光は、夜明け前にゆっくり薄れた。
リュミエラの髪から深い藍色が抜け、銀に戻っていく。瞳は閉じたままなので色は見えない。光の帯がほどけると、貯蔵庫の冷気が少し戻った。
それでも、彼女の呼吸は深いままだった。
少しでも眠れたのなら、それでいい。
そう思うことさえ、今の俺には怖かった。
明け方、俺たちは貯蔵庫を出た。
先にコハクが扉の隙間から出て、しばらく廊下を確認すると、戻ってきたコハクが尻尾を一度だけ振る。
少なくとも、すぐ近くに人間はいないらしい。
俺はリュミエラを起こさないように抱え、調理場へ出た。
棚は倒れ、鍋は床に転がり、豆の袋は裂けている。昨日まで何とか暮らしの形を作っていた場所が、半日で荒らされていた。
胃の奥が冷える。
「……棚、拭いたばかりだったのにな」
言ってから、喉が詰まった。
リュミエラが大事にしていた場所だ。
竈を直し、豆を煮て、スープを作った場所。
誰かに踏み荒らされると、ただの物損以上に腹が立つ。
俺は彼女を広間の暖炉前へ運んだ。
布団代わりにしていた毛布は端へ寄せられていたが、汚れてはいない。叩いて埃を落とし、二枚重ねて敷く。
リュミエラを横たえると、彼女はかすかに眉を寄せた。
「……カナタ」
「起こしたか」
「いいえ。どこですか」
「広間。敵はいない。魔物も今は入ってきてない」
リュミエラはゆっくり目を開けたると。すみれ色の瞳が暖炉の黒い炉床を映す。
「女神型は」
「切れた。たぶん朝までは持ってくれた」
「そうですか」
彼女は起き上がろうとして、慌てて手を出す。
「まだ寝てろって」
「でも、火が」
「俺が入れる」
「カナタ、怪我を」
「火を入れるくらいならできる。水汲みはあとで一往復から始める」
昨夜の約束を出すと、リュミエラは瞬きをした。
それから、ほんの少しだけ目元を緩める。
「覚えていたのですね」
「水汲みで許されるなら、忘れない」
「許すかどうかは、まだ考えています」
俺は暖炉に薪を入れた。
乾いた枝を折り、火打ち石を打つ。何度か失敗して、指先が痺れた。
ようやく火が移ると、細い煙が上がる。炉の奥で炎が小さく育ち、冷えた広間に薪の匂いが広がった。
ぱち、と薪が爆ぜる音がする。
リュミエラはその音を聞きながら、毛布の上で手を胸元に置いていた。
顔色はまだ悪い。
けれど、昨夜より呼吸は落ち着いている。
俺は鍋を拾い、水筒の残りを入れて暖炉の端へ置いた。
沸くまでの間に、布を裂いて手当ての準備をする。
薬師型で見つけた薬草は、鞄の中に少し残っていた。青い筋の葉と、黄色い樹脂。
葉を揉むと、青臭い匂いが指先についた。
「手首、見せてくれ」
俺が言うと、リュミエラの指が少し止まった。
拒まれたら引くつもりだった。
すると、彼女はゆっくり右手を差し出した。
「お願いします」
その一言に、胸が痛む。
俺はできるだけ丁寧に、縄の跡を濡らした布で拭いた。
赤い線は熱を持っている。そこへ薬草と樹脂を薄く塗る。
リュミエラの指先が、時々ぴくりと動いた。
「痛いか」
「少し」
「わるい」
「今のごめんは、薬がしみたことへのごめんですか」
「半分は」
「では、半分だけ受け取ります」
言い方は静かだった。でも、拒絶ではなかった。
俺は喉の奥を押さえるように息を吐いた。
手首に布を巻き終えると、リュミエラが今度は俺の脇腹を見た。
「次は、カナタです」
「俺は」
「座ってください」
「はい」
リュミエラはまだ起き上がるのもつらそうなのに、俺の傷を見る目だけは薬師型の時に少し似ていた。
俺が外套をずらすと、裂けた服の下に血が乾いていた。
彼女の眉が寄る。
「浅いと言いましたね」
「その時は、浅いことにしたかった」
「言い方で傷は浅くなりません」「はい」
濡れた布が傷に触れる。
痛みで視界が少し白くなった。
でも、歯を食いしばるだけにした。
「痛い時は、痛いと言ってください」
「痛い」
「はい」
リュミエラはそれだけ言って、手を緩めた。
たったそれだけで、少し楽になる。
痛いと言っていい場所になっている。
それが、ありがたかった。
手当てが終わる頃には、鍋の湯が温まっていた。
俺は木椀に湯を移し、少しだけ乾燥豆を潰して入れる。まともなスープとは呼べない。豆の湯だ。
それでも、湯気が立ち上がるだけで、広間の空気が少しやわらかくなる。
「やっぱリュミエラのスープには遠く及ばない」
「比べる相手を間違えています」
「料理人としての自信がある」
「少しだけ」
彼女は木椀を受け取り、両手で包んだ。
湯気が銀髪に触れ、頬の色がわずかに戻る。
しばらく、二人と一匹で黙って湯を飲んだ。
コハクには豆を抜いた薄い湯を差し出したが、匂いを嗅いでそっぽを向かれた。
「贅沢な猫め」
「にゃ」
少しだけ、広間に空気が戻った。
「カナタ」
リュミエラが木椀を置いて言った。
「はい」
「昨夜、名前を先に呼ぶと約束してくださいました」
「ああ」
「それは、嬉しかったです」
俺は返事をしようとして、言葉を探した。
嬉しかった。その一言だけで浮かれていい状況ではない。でも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ただ、戦っている時に、リュミエラと呼ぶのは長いかもしれません」
彼女は真面目な顔で言った。
俺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「そこ、実務的に考えるんだ」
「はい。昨日も、短い声の方が届く場面がありました」
「確かに」
リュミエラ。
緊急時には長い。だからといって、勝手に短くするのも違う。
「短く呼ぶなら、許可を取りたい」
「はい」
「リュー、はどうだ」
口にした途端、なぜか広間が妙に静かになった。
暖炉の火がぱちりと鳴ると、コハクが顔を上げた。
リュミエラは、木椀に視線を落とした。
「リュー……」
自分で確かめるように、彼女が繰り返す。
その声は小さかった。
「嫌なら別のにする。リュ、とか、リエ、とか、俺の命名センスは面接通過率くらい信用できないので」
「それは、あまり信用できませんね」
「自分で言って傷ついた」
リュミエラの口元が、少しだけ動いた。
それから彼女は、もう一度ゆっくり言う。
「リュー」
今度は、先ほどより少しだけ柔らかい声だった。
「神殿では、そう呼ばれたことはありません」
「だろうな」
「王宮でもありません。聖女様、リュミエラ様。そういう呼び方ばかりでした」
彼女は、手首の布に触れた。
「リューは、役割の名前ではありませんね」
「違う。お前の名前を短くしただけだ。型の名前でも、聖女の肩書きでもない」
リュミエラは目を伏せた。
長いまつげが、頬に影を落とす。
「それで構いません」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
「採用?」
「仮採用です」
「仮が多いな、俺たち」
「仮拠点ですから」
俺は笑いそうになって、脇腹を押さえた。
痛い。でも、さっきよりましだ。
「じゃあ、必要な時はリューって呼ぶ。普段は?」
「普段も、呼んでも構いません」
「いいのか」
「ただし、からかうために呼ぶのは禁止です」
「にゃ」
コハクが俺の代わりに鳴いた。
なぜか承認された気分になった。
リュミエラは毛布を少し引き上げた。
布団代わりの毛布は古く、ところどころほつれている。けれど、暖炉の熱を含んで少しだけ温かい。
「カナタも、少し眠ってください」
「見張りが」
「コハクさんがいます」
「にゃ」
「猫に全責任を」
「コハクさんは、私たちより気づくのが早いです」
「否定できない」
俺は壁にもたれた。
眠るつもりはなかったが、まぶたが重く、身体は限界だった。
「リュー」
試すように呼ぶと、リュミエラがこちらを見た。
「はい」
返事があった。
それだけで、胸の奥の張りつめていたものが少しほどけた。
「次は、勝つための型じゃなくて、勝つための作戦を考える」
「はい」
「型に頼って押し切るんじゃなくて、地形と道具と、俺たちができることを使う」
「作戦帳の出番ですね」
「そうだ。今度は、最初に名前を書いた作戦帳だ」
リュミエラは頷いた。
「では、少し休んだら、外の土に線を引いて考えましょう。旧監視砦の形なら、私も覚えています」
「頼りにしてる」
彼女は目を伏せる。
今度の沈黙は、沈み込むものではない。
休むための沈黙。
暖炉の火が、炉の奥で低く揺れる。
壊された棚も、倒れた鍋も、外に残る敵の気配も、何も消えてはいない。
それでも、布団代わりの毛布の上で、リュミエラは自分の名前から生まれた短い呼び名に返事をした。
リュー。
次にその名を呼ぶ時、俺は型ではなく、彼女を呼ぶ。
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