第三話 追放聖女を拾ったら
放っておいてくれたら、よかったのに。
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
助けられて戸惑っているとか、知らない男を警戒しているとか、そういう単純な話ではない。目の前の少女は本気で、生き延びたことを惜しんでいる。
草原を渡る風が、彼女の銀髪をかすかに揺らした。
細い髪が頬にかかっても、彼女は払おうとしない。ただ、力のない目で空を見ている。
「……悪いけど、それは聞けない」
俺は声を落として言った。
「目の前で倒れている人間を見つけて、猫まで心配そうに見ているのに、そのまま放置できるほど俺は器用じゃない」
「猫が、心配……」
少女の視線が、足元のコハクへ落ちる。
コハクは真面目な顔で座っていた。普段なら人の深刻な空気などお構いなしに毛繕いでも始める猫だが、今は尻尾の先だけを小さく揺らしている。
「にゃ」
「ほら、心配してる」
「……そう、なのですか」
「たぶん」
「たぶん」
少女は掠れた声で、俺の言葉を繰り返した。
笑ったわけではない。けれど、ほんの一瞬だけ、空っぽだった瞳に戸惑いの色が混じった。
それだけで、さっきよりはまだ息をしている人間に見えた。
「名前は?」
問いかけると、少女の瞳がわずかに揺れた。
名乗ることすら迷うような沈黙が落ちる。
俺は急かさなかった。傷口に当てるための布を膝の上に置いたまま、彼女の返事を待つ。
「……リュミエラ」
やがて、彼女は小さく言った。
「リュミエラ、です」
「俺はカナタ。こっちはコハク」
「……猫にも、名前があるのですね」
「ある。前世からの付き合いだ。こいつがいないと、俺はこの世界の看板も読めない」
そこまで言ってから、初対面の行き倒れにする話ではなかったなと気づく。
リュミエラはしばらく黙っていたが、やがて目だけでコハクを見た。
「……不思議な猫ですね」
「俺もそう思う」
「にゃ」
コハクは褒められたと判断したのか、少しだけ胸を張った。
そこは堂々とするところなのか。
俺は布を手に取る。
「額の傷、拭いていいか。血が目に入りそうだ」
リュミエラの肩が小さく震えた。
さっきは拒まれた。無理に触れれば、彼女は余計に固まるだろう。
だから、布を彼女の手の届く位置に置くだけにした。
「自分でできるなら、自分で。無理なら手伝う」
リュミエラは布を見つめた。
細い指が、ゆっくりと伸びる。だが途中で力が抜け、指先が草の上に落ちた。
見ているこちらの胸が痛くなるほど、あまりにも弱い動きだった。
「……できません」
「わかった。触るぞ」
「……はい」
許可をもらってから、そっと額の血を拭う。
乾いた血が布に移り、傷口の赤みが露わになった。深くはない。けれど、これだけ衰弱している身体には十分つらいはずだ。
リュミエラは痛みに眉を寄せたが、声は出さなかった。
「どこから来た?」
「……首都の方から」
「神殿関係者か?」
白い装束の刺繍へ視線を落とすと、彼女の顔がかすかに強張った。
その表情だけで、こちらの問いが的を外していないことはわかった。
「元、です」
「元?」
「私は、もう聖女ではありません」
風の音が途切れたように感じた。
聖女。
この世界に来てから何度か耳にした言葉だ。神殿で祈り、祝福を行い、穢れを祓う特別な存在。街の人間は尊敬と畏れを込めてその名を口にする。
目の前で泥と血に汚れて横たわっている少女が、その聖女だったというのか。
「聖女って、あの聖女か」
「どの聖女かは、わかりませんが……たぶん、あなたが想像しているものです」
「その聖女が、なんでこんなところで倒れてる」
問いが少し強くなった。
リュミエラの睫毛が伏せられる。
「力を、失いました」
短い言葉だった。
だが、その奥にあるものは短くない。
彼女は喉を押さえ、乾いた唇を少しだけ舐めた。喋るだけでも苦しいのだろう。
「祝福も、浄化も、祈りも……もう、以前のようには届きません。神殿は、新しい聖女を選びました。王宮からも、私は不要だと」
「王宮?」
「……王太子殿下との婚約も、白紙になりました」
情報量が多い。
元聖女。王太子の婚約者。新しい聖女。
それでいて、今は街道脇で行き倒れている。
どこをどう通れば、そこまで転げ落ちるんだ。
「誰が君を追い出した」
俺が聞くと、リュミエラはすぐには答えなかった。
答えたくないのではなく、答えそのものが彼女の中でも形を持っていないようだった。
「命令書には、神殿の印と、王宮の印がありました」
「王太子本人は?」
「……お会いしていません」
細い声が、夏草の中に落ちる。
「最後まで、会ってはいただけませんでした」
その言い方が、妙に胸に残った。
怒りではない。恨みでもない。もっと乾いていて、諦めに近い。
会ってもらえなかったという事実を、何度も何度も胸の中で転がした末に、もう角が削れてしまったような声だった。
「それで、首都を出されたのか?」
「はい」
「護衛は?」
「いません」
「荷物は?」
「……ありません」
「宿の当ては?」
「ありません」
俺は額を押さえた。
異世界の王宮と神殿、なかなか容赦がない。
いや、容赦がないどころではない。衰弱した少女を、ほぼ丸腰で街道に放り出している。
「それ、追放って言わないか」
「そう、ですね」
「そうですね、じゃない」
「……他に、言い方がわかりません」
リュミエラの目はまた少し遠くなっていた。
自分の身に起きたことを他人事のように話している。あまりにも疲れすぎていて、怒る力すら残っていないのかもしれない。
「とにかく、このままここにいるのはまずい。近くの休憩所か、街道沿いの宿まで運ぶ」
「……なぜ、そこまで」
「倒れてる人間を見つけたからだって、何回言わせるんだ」
「違います。あなたは、何を望むのですか」
その問いで、ようやくわかった。
彼女は助けられた理由がわからないのではない。見返りのない善意を、信じられないのだ。
「俺にそんな余裕があるように見えるか?」
「……え?」
「今朝、七回目のレギオン面接に落ちた。財布には安物ポーション代を差し引いた残金しかない。今日の稼ぎはグラスワーム十匹分。見返りを要求できるほど立派な男なら、そもそもこんな草原で芋虫を斬ってない」
リュミエラが、かすかに瞬きをした。
「……芋虫」
「グラスワームだ。でかい。ぬるい。見た目が終わってる」
「……そう、ですか」
「だから、見返りの話はあとだ。今は生きる方を優先しろ」
少しだけ強く言う。
リュミエラは何か言い返そうとしたようだったが、結局、唇を閉じた。
その沈黙を了承と判断し、俺はポーチの紐を結び直す。
「立てるか」
「……たぶん」
「たぶんは信用しない。肩を貸す」
「でも」
「触る前に聞く。嫌なら別の方法を考える」
リュミエラはしばらく俺を見ると、やがて小さく頷く。
「……お願いします」
俺は慎重に彼女の肩を支えた。
軽い身体が、ふらりとこちらへ傾く。慌てて支え直すと、銀髪が腕に触れた。さらさらとしているのに、ところどころ乾いた草や土が絡んでいる。
コハクが先導するように一歩前へ出る。
「コハク、街道まで戻るぞ」
そう言った直後、コハクの足が止まった。
尻尾が低く沈み、耳がまた後ろへ倒れる。
さっきよりも鋭い警戒。俺はリュミエラを支えたまま、息を殺した。
木立の向こうで、枝が折れる音がした。
一つではない。二つ、三つ。
人の足音が、こちらへ近づいてくる。
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