第二話 どうして、放っておいてくれなかったのですか
横たわる人の姿に慌てて駆け寄る。
夏草の中に倒れていたのは、俺より随分と小柄な少女だった。横向きに伏せた背中しか見えない。身に纏っているのは、上質な白い装束。
ただ、その白はもう本来の色を保っていなかった。
裾には泥が跳ね、袖口には乾いた草が絡み、胸元の布地には長い旅路で擦れたような汚れが幾筋も残っている。
特徴的な刺繍の入った襟元は、街の大きな神殿の周辺で何度か見かけた儀式服に似ていた。
神殿関係者か。それも、ただの下働きではない。
身につけている布も刺繍も、安物ではないということくらい、俺でもわかる。
「おい。大丈夫か、生きてるか」
声をかけながら肩に触れる。反応がない。
喉が、嫌な音を立てて詰まった。
こういうとき、前世の俺なら救急車を呼んで終わりだった。だが、この世界の草原に救急車は来ない。
街に駆け込むにも距離がある。そもそも彼女の状態が、そこまでもつのかどうかもわからない。
「コハク、周りを見ててくれ」
「にゃ」
コハクが夏草の上を素早く歩き、少し離れた位置で耳を立てた。
俺は緊張で少し震える指を少女の首筋へ伸ばす。細い。あまりにも細い首だった。怖いくらい白い肌に、指先をそっと当てる。
脈はあるけど、今にも途切れそうなほど弱い。
「……よし。すまん、ちょっと動かすぞ」
聞こえていない相手に断りを入れてから、彼女の上半身を慎重に支えた。
軽すぎる。人間一人の重さというより、濡れた布を抱え上げたみたいだった。
力を入れすぎれば折れてしまいそうで、肩と背中の下へ腕を滑り込ませるだけでも妙に神経を使う。
息を止め、そっと仰向けにする。
その瞬間、結び目が緩んでいたのか、目の覚めるような銀髪が肩から滑り落ちた。
細く長い髪が、青々とした草の上にさらりと広がる。
顔が見えた。
息を呑むほどに整った顔立ちをしている。
閉じられた瞼の下には長い睫毛が影を落としている。眉はきれいなアーチを描き、鼻筋はすっと通っていた。
まるで精巧な人形のようだ、と言いかけて、俺はすぐにその感想を頭の中で取り消した。
人形なんてものじゃない。
額には木の枝で擦ったような生々しい傷があり、唇の端は切れて血が滲んでいる。頬の血の気は完全に引き、肌は雪のように白いというより、今にも命の色が抜け落ちそうな白さだった。
綺麗な人が行き倒れているのと、行き倒れている人が綺麗なのは、言葉のニュアンスとしてだいぶ違う気がする。
この状況に限って言えば、たぶん両方だ。
「……いや、今それ考えてる場合じゃないな」
自分で自分に突っ込みを入れ、懐のポーチを探る。
出てきたのは一番安いポーションの小瓶だ。支給品でもなく、雑貨屋で買った最低ランク。深い傷を一瞬で治すような奇跡の液体ではない。
ただ、衰弱した身体の意識を少し戻すくらいなら、たぶんできるはず。
頼むからできてくれ。
「コハク、まだ大丈夫か」
「にゃ」
コハクの声は短い。
けれど、すぐ近くに危険が迫っているときの鋭さではなかった。
俺は小瓶の栓を歯で抜き、片手で少女の頭をほんの少しだけ持ち上げる。閉じたままの唇に触れるのはかなりためらわれたが、ここで遠慮して死なせたら意味がない。
「悪い。少しだけ飲んでくれ」
指先で唇をわずかに開かせ、緑色の液体を少しずつ流し込む。
喉が動いた。一度、二度。ちゃんと飲み込んでいる。
胸の奥で、詰まっていた息がようやく少しだけ抜けた。
コハクが少女の顔にそっと近づき、鼻先をすんすんと動かす。
それから俺を見上げた。
「なんだよ」
「にゃ」
「美人だな、って言ってるなら同意するけど、今は本当にそれどころじゃないぞ」
コハクは何も言っていない、という顔で前足を揃えた。
俺の動揺が猫の鳴き声に勝手な字幕をつけているだけかもしれない。だとしたら、そろそろ俺の脳もだいぶ危ない。
しばらく待つ。
草原を渡る風の音が、やけに大きく聞こえた。
遠くで虫が鳴いている。草に残ったグラスワームの粘液の青臭い匂いと、少女の服についた土と汗の匂いが混ざり、胸の奥がざわついた。
こんな場所で、ひとりで倒れるまで歩いたのか。
誰にも助けを求められずに。
少女の指先が、かすかに動いた。
「……っ」
瞼が震える。長い睫毛が小さく揺れ、やがてゆっくりと目が開いた。
現れたのは、吸い込まれそうなほど淡い、神秘的なすみれ色の瞳だった。
けれど、その瞳には光がない。
焦点が合うまで、随分と時間がかかった。俺を見ているのか、空を見ているのか、それすらわからない。ゆらゆらと彷徨った視線が、ようやく俺の顔を捉えて止まる。
「……生き、てる……?」
掠れた声。
自分の声を聞いて、彼女自身が驚いたように喉を押さえる。
俺はできるだけ刺激しないように、ゆっくり頷いた。
「ああ。ギリギリだけどな。倒れてたから、ポーションを飲ませた」
少女の瞳が、俺の顔から手元の空瓶へ、それから草の上に座るコハクへ移った。
コハクは真面目な顔で「にゃ」と鳴いた。
少女はその猫を見ても、何の反応もしない。
驚きもせずに、どこか遠いものを見るような目をしている。
「……助けた、のですか」
「見つけたからな」
「……どうして」
「どうしてって、倒れてたからだ」
当たり前の答えを返したつもりだった。
けれど、少女はその言葉を理解できないもののように見つめ返してくる。
薄い唇が震えた。
額の傷から滲んだ血が、こめかみへ細く流れている。俺は布を出して拭こうとしたが、その手を彼女が弱々しく避けた。
「無理に動くな。まだ立てる状態じゃない」
「……触らないで、ください」
声は弱いのに、拒絶だけははっきりしていた。
俺は布を持った手を止める。
コハクが俺の足元へ戻ってきて、尻尾の先を小さく揺らした。急ぐな、という意味に見えた。
「わかった。触らない。ただ、ここは街道から外れてる。魔物も出る。日が傾く前に、せめて安全な場所へ移動しよう」
少女は何も答えなかった。
かわりに、乾ききった唇だけが、ゆっくりと動く。
「……どうして」
「だから、倒れてたからだって」
「……違います」
すみれ色の瞳が、今度は確かに俺を見た。
空っぽで、疲れ果てていて、それでも底の方に消え残った痛みだけがある目だった。
「どうして、放っておいてくれなかったのですか」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。返す言葉が一瞬で消える。
少女は、俺の沈黙を責めるでもなく、ただ静かに目を伏せた。
「放っておいてくれたら、よかったのに」
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