第二十九話 私は、戻りません
自分の失敗でリュミエラを膝から崩れさせたまま、俺は床に押さえつけられていた。
石床の冷たさが頬に貼りつく。
脇腹が焼けるように痛い。盾の男の靴底が背中を押し、息を吸うたびに肺が狭くなる。
足首には鎖。手から剣は離れている。
広間の入口では、コハクが魔物と男たちの間に立ち、背中を丸めていた。
リュミエラの手首には、縄がかかっている。
彼女は立ち上がろうとして、また膝をついた。
騎士王型の失敗ログが、視界の端で紫に焼きついて離れない。
【騎士王型】
強制接続失敗。
対象精神負荷 大。
使用者警告:対象の意思確認を再評価してください。
わかっている。もう、わかっている。
でも、わかるのが遅すぎた。
「動くな」
中央の男が言った。
縄を持つ男が、リュミエラの手首を引く。彼女の肩が小さく跳ねた。
「……うるせぇ。リュミエラに触るな」
俺は床に頬をつけたまま言った。
声は掠れていた。
男は俺を見下ろし、薄く目を細める。
「君には決定権がない」
「本人にはある」
「本人の判断能力が保たれているなら、な」
また、その言い方だ。
保護、確認、判断能力。
丁寧に聞こえる言葉で、リュミエラ本人の声を後ろへ追いやる。
リュミエラが顔を上げた。
額には汗が浮かび、唇は白い。それでも、彼女は男を見た。
「私は、戻りません」
「戻る場所をあなたが決める必要はない」
「私のことです」
「あなたは、ただの娘ではない」
男はしゃがみ込み、リュミエラの顔を覗き込んだ。
その距離に、俺の喉が鳴る。
「前聖女。王太子殿下の元婚約者候補。祈りの痕を残した器。新たな役割を受け入れられる素地まである。君が野に放たれていること自体が、不安定要素だ」
「私は、ものではありません」
「ものではない。だから、主は話を聞きたいと仰っている」
主……その言葉が、広間の空気を少しだけ変えた。
「主って誰だ?王太子か?」
男は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えよりも嫌だった。
「王太子殿下のお名前を、軽々しく口にするな」
「じゃあ違うんだな」
「君が知る必要はない」
「あるだろ。リュミエラを連れていこうとしてるんだぞ」
男は少しだけ笑った。
「王太子殿下の憂いを取り除くことは、国のためになる。そう考える者は多い」
命令とは言わないのに、王太子の名を盾にする。
王太子本人なのか、神殿なのか、新しい聖女側なのか、それともその全部を利用している誰かなのか。
わからない……わからないまま、目の前の男たちはリュミエラへ手を伸ばしている。
「ふざけるな」
吐き出した声は、低かった。
「殿下のためとか、国のためとか、主がどうとか、言葉だけ大きくして、本人の声を消すな」
「はっ!君がそれを言うのか?彼女に役割を入れた張本人が!」
男の言葉が、まっすぐ胸を刺した。
「今も失敗したばかりだ。守るためと言えば、相手の意思を越えていいと思ったのだろう?」
息が止まる。何も言い返せない。
リュミエラが、俺を見た。
責める目ではない。でも、傷ついた目だった。
「カナタ……」
彼女の声はかすれ、最後まで言葉にはならなかった。
それだけで十分伝わった。いや、その言い方は違う。伝わってしまった。
勝ちたかった。守りたかった。連れていかせたくなかった。
だから強い型を押し込もうとした。
口にすればするほど、神殿の男たちと同じになる。
「ごめん。俺は、お前の声を聞かなかった」
それしか出なかった。
リュミエラの目が揺れた。
その返事を聞く前に、門の方で木が裂ける音がした。
コハクが鋭く鳴く。
門の隙間から、狼型の魔物が半身をねじ込んできた。さらにその後ろに、甲羅鼠の群れがいる。誘導香の匂いが濃くなりすぎている。
男たちの一人が舌打ちした。
「濃度が上がっている。外の流れを戻せ」
「ワイバーンも近いです」
弓の男が屋根を見上げる。
壊れた梁の向こうで、大きな影が旋回していた。
翼が風を叩くたび、砂と木屑が降ってくる。
中央の男の顔から、余裕が少し消えた。
「回収を急ぐ。女を立たせろ」
「今動かすと壊れます」
縄の男が、リュミエラの手首を引いたまま言う。
壊れる。その言葉に、また奥歯が鳴った。
「壊すな。主は生きたままを望んでいる」
中央の男が冷たく言った。
生きたまま。それを優しさのように扱う声だった。
次の瞬間、頭上の屋根が大きく軋んだ。
ワイバーンの影が、塔の残骸すれすれを横切る。外れかけていた石が崩れ、広間の端へ落ちた。
轟音と粉塵にまみれ、視界が白く曇る。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
盾の男の足が、俺の背中から外れる。
その一瞬だけ、圧が緩んだ。
俺は身体をひねった。
足首の鎖はまだ残っている。だが、踏まれていないなら動ける。
床の石片を掴み、鎖の留め具へ叩きつけた。
一度目は外れない。
二度目で、金具が歪む。
三度目で、足首に食い込んでいた輪が少し緩んだ。
「コハク!」
叫ぶと、コハクがこちらへ飛んだ。
小さな爪が鎖の端にかかる。猫の力で千切れるわけがない。それでも、引っかかった留め具をずらすには十分だった。
鎖が抜ける。
「マジいい子!」
「にゃ!」
褒めている場合ではない。
でも、言わずにいられなかった。
俺はよろけながら立ち、リュミエラへ向かった。
縄の男が彼女を引き上げようとしている。
「リュミエラを離せ!」
俺は落ちていた短槍を拾い、柄の部分で縄の男の腕を打った。
相手が呻き縄が緩み、リュミエラの身体が傾いた。
俺は彼女を抱き留めると、背中越しに震えが伝わる。
「ごめん。少し乱暴に運ぶ」
「……はい」
返事があった。
それだけで、胸が詰まる。
広間では、魔物と男たちが入り乱れ始めていた。
入口から押し込んできた狼型を、盾の男が押し返す。弓の男が黒い粉のついた矢を外へ放つ。矢が刺さった地面へ、魔物の群れが一瞬だけ引かれていく。
やはり、あいつらは香で流れを変えている。
完全に操っているわけではない。だが、押す方向を選んでいる。
「逃がすな!女と猫を確保しろ。男は捨て置け」
中央の男が叫ぶ。
俺はリュミエラを支え、調理場へ続く廊下へ走った。
正面の門は使えない。地下扉の方も男がいる。
なら、俺たちが直したばかりの調理場の奥!
あそこには、崩れた壁の隙間がある。人ひとりがやっと通れる程度だが、外の貯蔵小屋へ抜けられる。
コハクが先に走ると廊下の途中で、弓が一本飛んできた。
俺はリュミエラを抱え込むようにして壁へ寄る。矢は石壁に当たり、黒い粉を散らした。
甘く焦げた匂いが鼻を刺す。
「くそ、しつこい」
脇腹が痛み、足がもつれる。
それでも、止まれば終わる。
調理場へ飛び込むと、棚が半分倒れていた。
昨日までリュミエラが拭いていた棚だ。豆の袋と鍋が床に転がっている。
こんな時なのに、それがやけに悔しかった。
「コハク、隙間!」
コハクが壁の裂け目へ向かう。
だが、そこで低く鳴いた。
「にゃ……」
外にも魔物の気配がある。
使えない。
俺は舌打ちし、倒れた棚を引いた。
古い貯蔵庫の扉がある。中は狭いが、厚い石で囲まれている。逃げ道ではない。
隠れるだけだ。
時間を稼ぐだけだ。
それでも今は、それしかなかった。
「入るぞ」
俺はリュミエラを支え、貯蔵庫へ入った。
コハクが続く。
扉を閉め、内側から木箱を押し当てる。
暗い。
小さな通気穴から、灰色の光が細く入るだけだ。
石壁は冷たく、古い穀物と乾いた土の匂いがする。
外では、男たちの声と魔物の唸りが重なっていた。
中央の男の声が、廊下の向こうで響く。
「今は引く。香を切れ。ワイバーンをこれ以上近づけるな」
「女は」
「動かせば壊れる。場所は割れた。次は囲めばいい」
足音が遠ざかる。
しかし、安心はできない。
次は囲めばいい。その言葉だけが、貯蔵庫の暗さに残った。
リュミエラは、俺の腕の中で細く息をしていた。
騎士王型の失敗で、身体はまだ震えている。
俺は彼女の手首に残った縄の跡を見た。
赤い線が、白い肌にくっきり残っている。
「……ごめん」
また同じ言葉が出た。
何度言っても足りない。
でも、言うたびに軽くなる気もして、嫌だった。
「俺は、お前を守るつもりで、お前の声を消した」
リュミエラは目を開けた。
暗がりの中で、すみれ色の瞳だけがかすかに光を拾う。
「カナタは、私が騎士になればよかったのですか」
胸の奥を、冷たい針で刺されたようだった。
「違うっ。俺は……俺は、勝てる型が欲しくなった。お前じゃなくて、勝てる役割を見た」
言葉にした瞬間、自分の中で何かが沈んだ。
「最低だ……」
「最低、とは思いません」
リュミエラは、ゆっくり首を横に振った。
「でも、怖かったです」
その一言が、一番重かった。
「もうしない。絶対に、強制接続はしない。どんなに追い詰められても、お前の声を聞かないまま押さない」
リュミエラはすぐには答えなかった。
当然だ。約束は、破った後ほど軽く聞こえる。
外の騒ぎが、少しずつ遠のいていく。
魔物の唸りも、ワイバーンの鳴き声も、薄くなった。
男たちは香で流れを変え、いったん退いたのだろう。
逃げ切ったわけではない。ただ、後回しにされただけ。
「王太子殿下が、本当に命じたのでしょうか」
リュミエラが、小さく言った。
「わからない。あいつは命令だとは言わなかった。だけど、王太子の名前を使える誰かがいる。神殿か、新聖女側か、王宮の誰かか。少なくとも、リュミエラが生きていることを邪魔だと思ってるやつだ」
「私が、生きていることを」
「邪魔だと思う方が、おかしい」
言うと、リュミエラは少しだけ目を伏せた。
「でも、私はまた見つかりました」
「見つかっただけだ。終わりじゃない」
そう言った俺の声は、強くなかった。
脇腹は痛い。足は震えている。武器は手元にない。リュミエラは立てない。コハクも疲れて、貯蔵庫の入口で伏せている。
終わりじゃないと、言葉だけで支えている状態だった。
その時、視界の端に、淡い白い表示が浮かんだ。
【女神型】
接続候補を検出。
用途:庇護・回復・安息。
条件:対象が休息を望んでいます。
対象同意確認待ち。
ただ、守って、眠らせるための型が、暗い貯蔵庫の中で静かに表示されていた。
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