第二十六話 目が慣れるにつれて、数が増える
森の奥から、姿の見えない翼ある魔物の声が聞こえる。
金属を引っかくような鳴き声が、木々の間を渡っていく。
近い。だが、どの方角から聞こえたのかがわからない。枝葉に反響し、空の上にも、地面の下にも、同じ音があるように感じる。
湿った土の匂いの中に、甘く焦げた香りが濃くなった。
コハクの尻尾は、今まで見たことがないほど膨らんでいる。
「戻る。森の奥は見ない。祠まで戻って、そこから町へ」
「はい」
リュミエラの返事は早い。
顔は白いが、足は止まっていない。
俺たちは来た道を足早に引き返す。
香の痕跡を追ってきた時より、ずっと足音が大きく聞こえる。枯れ葉が靴の下で潰れるたび、背後の何かに居場所を知らせているようで、首筋が冷えた。
だが、数十歩も戻らないうちに、コハクが俺の肩から飛び降りた。
「コハク?」
猫は祠へ戻る道の前で、低く唸った。
俺は足を止めると、リュミエラもすぐに止まった。
「そっちは駄目なのか」
「にゃ……」
コハクは祠の方へ鼻先を向けない。
代わりに、旧監視砦へ続く細い道の方を見る。
「待て。そっちは、さっき人間の靴跡が続いてた方だぞ」
「にゃ」
「わかってるって顔で頷くな」
コハクは返事の代わりに、祠方面へ一歩だけ近づいた。
その瞬間、草むらの奥から低い唸り声が重なった。
葉の隙間に、灰色の背が見えた。狼型の魔物。
目はまた焦点が合っていない。鼻先を地面にこすりつけるようにしながら、こちらへ寄ってくる。
その向こうで、甲羅鼠の硬い背が草を割った。
「祠側にも回ってる」
俺は剣を握り直した。
「香で道を塞がれたのか」
「塞がれたというより、追い込まれているのかもしれません……」
リュミエラの声が震える。
「祠から旧監視砦へ、魔物が流れるようにされています。私たちが戻ろうとすれば、その流れにぶつかります」
「つまり、町へ逃げるなら魔物の群れを抜けろってことか」
「はい」
嫌すぎる選択肢。
町へ戻れば報告できる。
だが、そのためには誘導香に引かれてきた魔物の流れを正面から抜ける必要がある。
しかも、俺たちが暴れれば、魔物が街道側へ散るかもしれない。
旧監視砦へ向かえば、人間の靴跡がある。
罠の可能性は高い。
でも、高台と壁がある。少なくとも、開けた街道よりは守りやすい。
「……誘導されてるな、これ」
「はい」
リュミエラが悔しそうに唇を噛んだ。
森の奥で、またあの高い鳴き声がした。
今度は、さっきより近い。
枝が大きく揺れ、上の方から細い葉が降ってくる。
「ふう……旧監視砦へ戻る。壁がある方がましだ。走れるか」
「走れます」
「無理だと思ったら言え」
「はい」
「コハク、先導」
「にゃ!」
コハクが旧監視砦へ続く道へ走り出すと、俺とリュミエラはその後を追った。
森は、さっきより狭くなっていた。
同じ道のはずなのに、枝が肩に触れる。湿った葉が頬に当たり、冷たい水滴が首筋へ落ちた。甘く焦げた匂いが風の向きに合わせて濃くなったり薄くなったりする。
足元には、魔物の足跡と人間の靴跡が重なっていた。
誘導香の黒い粒は、草の根元だけではない。途中から、石の裏、折れた枝の切り口、木の皮の剥がれた場所にも塗られていた。
「慣れてるやつの仕事だな」
「魔物の習性を知っているのでしょうか」
「知ってる上で、こっちへ流してる」
息を切らしながら、俺は言った。
腹の底が冷える。
魔物を暴れさせているだけではない。
逃げ道を残し、進ませたい方向へ薄く匂いを置き、時々強い匂いで圧をかける。
罠というより、狩りだ。俺たちは獲物として、捕食者に追われている。
背後で、枝が折れた。
「来た」
振り返ると、狼型の魔物が二匹、木の間から飛び出してきた。
さっき祠側にいたものとは別の個体かもしれない。目が赤く充血し、口元には涎が泡になっている。
「リュミエラ、後ろへ」
俺は剣を構えた。
まともに戦う気はない。
足を止めたら、後続に追いつかれる。
「灰胡椒、使います」
リュミエラが言った。
彼女は鞄から小さな布袋を取り出す。以前、見つけた、魔物の嗅覚を刺激する粉だ。
「投げられるか」
「はい。風上には立たないでください」
「了解」
リュミエラは布袋を狼型の前へ投げた。
地面に当たった瞬間、袋が裂け、赤茶色の粉がふわりと広がると、強い胡椒の匂いが鼻を刺した。
「うっ」
俺まで目が痛い。
狼型の魔物たちは、さらにひどかった。鼻先を振り、くしゃみのような音を立てて足を止める。一匹は地面へ顔をこすりつけ、もう一匹は横へ跳ねた。
「今のうち」
俺たちは走った。
コハクが先で短く鳴く。曲がれという合図だ。
旧監視砦への道は、森の尾根を回り込むように上っていく。
足が重い。息が喉に貼りつく。
リュミエラの呼吸も荒くなっていた。
「リュミエラ、少し」
「止まらない方がいいです」
「でも」
「今は、止まる方が怖いです」
それは正しい。だが、正しいことが優しいとは限らない。
俺は彼女の手首を掴み、上り坂を引いた。
その時、頭上で影が動いた。
空が一瞬だけ暗くなる。
見上げると、木々の隙間を大きな翼の影が横切った。
姿ははっきり見えない。だが、翼の縁が枝をかすめ、落ち葉が渦を巻いて舞い上がる。
「ワイバーンか」
リュミエラが息を呑む。
「飛んでるのに、姿が薄い……」
確かに、おかしかった。
影はある。風もある。鳴き声もある。
なのに本体の輪郭が曖昧だ。木々の間で溶けるように見えたり、次の瞬間には別の場所へ移っていたりする。
視界の端に表示が出る。
【警告】
大型飛行魔物反応。
視認阻害あり。
誘導対象:旧監視砦方面。
「ワイバーンまで、こっちへ誘導されてる」
言葉にした瞬間、胃が重くなった。
「倒すのは無理だ!見つからないように走る」
「はい」
俺たちは木の下へ身を寄せながら進んだ。
ワイバーンの影は、何度か頭上をかすめた。直接襲ってはこない。まるで、上空からこちらの逃げ道を狭めているだけのようだった。
後ろには魔物。頭上にはワイバーン。前には人間の靴跡。
これ以上ないくらい、進みたくない道だった。
旧監視砦が見えた時、安心しそうになった。
高台の上、崩れた石壁と傾いた塔。
この数日で見慣れた、雨漏りだらけの廃墟。
まともな家ではない。安全とも言えない。
それでも、火を入れ、寝床を作り、スープを食べた場所だ。
帰ってきたと思いかけたその時、コハクが止まった。
「にゃ……」
門の前に置いていた石が、動いている。
簡単な侵入防止に積んでいた木片が、脇へ寄せられている。
俺たち以外の足跡が、門の内側へ続いていた。
リュミエラが、俺の袖を掴んだ。
「誰か、います」
「ああ」
背後で、魔物の唸り声が近づく。
頭上では、ワイバーンの影が旋回している。
町へ戻るには、森を抜け直さなければならない。
目の前の砦には、人間が入っている。
俺は剣を握ると、汗で柄が少し滑る。
コハクは門の方を睨み、尻尾を低く振った。
その瞬間、視界に表示が浮かぶ。
【警戒】
人間反応 七。
魔物反応 背後に複数。
退路 不安定。
「中に、七人いる」
リュミエラの手が、袖を握る力を強めた。
「戻りますか」
「戻ったら、後ろの魔物とワイバーンにぶつかる。入るしかない」
言いながら、わかっていた。これが向こうの狙いだ。
香で魔物を流し、ワイバーンの影で逃げ道を狭め、俺たちを旧監視砦へ戻す。
そして、中で待つ。
俺は門の前で一度だけ大きく息を吸った。
湿った石の匂い。古い木の匂い。遠くで焦げる甘い香。
その奥に、知らない人間の汗と油の匂いが混じっている。
広間へ続く廊下は薄暗い。
俺たちが積んだ長机の影が見えた。
その奥に、立っている人影がある。
一人……
二人。
三人。
目が慣れるにつれて、数が増える。
壁際に二人。暖炉の前に一人。地下扉へ続く廊下の前に一人。入口の死角に二人。
そして、中央に立つ男が一人。
七人。
旧監視砦の広間に、七人の男が待っていた。
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