第二十四話 それは、あなたたちの道ではありません
翌朝、俺はその木板を鞄に入れた。
魔物誘導香の小瓶は、布に包み、さらに空き瓶へ入れて蓋をして、念のため灰胡椒の実を入れた袋とは別にしてある。
コハクは朝からずっと小瓶を睨んでいた。猫の顔でここまで露骨に嫌悪を示せるものなのかと、少し感心するくらいだ。
「コハク、近づくなよ」
「にゃ」
「わかってる顔で近づくのが、お前だからな」
「にゃあ」
「抗議しても駄目」
コハクは不満げに尻尾をぶんぶんと振る。
だが、いつものように小瓶へ手を出すことはなかった。
本当に危ないものだとわかっているのだろう。
リュミエラは調理場の前で、水筒の蓋を閉めていた。
昨日より顔色はいい。けれど、完全に晴れているわけではない。
聖女型の凍結表示。器容量という言葉。
神殿の男が置いていった香。
どれもまだ、俺たちの間に重く残っている。
「今日は、まずレギオンへ報告する」
「はい」
「その前に、街道の祠を確認したい。昨日、神殿の男が西へ向かったなら、祠にも香を置いているかもしれない」
「そうですね」
彼女の指が、水筒の革紐を撫でる。
「祠に使われていたら、早く止めたいです」
その声には、昨日より少しだけ芯があった。
怖さは消えていない。
けれど、怖いまま歩こうとしている。
俺は作戦帳を軽く叩いた。
「じゃあ、行こう。リュミエラ」
名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「はい」
街道沿いの祠は、昨日見た時とは空気が違っていた。
まず、匂いが違う。
乾いた草と湿った石の匂いの奥に、甘く焦げた香りが薄く混じっている。
昨日、露店で嗅いだものと同じだ。強くはない。普通の人間なら、旅人の香としか思わないだろう。
だが、コハクは祠へ近づく前から背中の毛を逆立てていた。
「フーーッ」
「置かれてるな」
「はい」
リュミエラの顔が硬い。
祠の台座には、新しい花が置かれていた。その横に、小さな白い布包みと、香を染み込ませたらしい紙片が挟まれている。
紙片には、神殿の印に似た金色の紋が押されていた。
「昨日の老婆たちが置いた花でしょうか」
「花はそうかもしれない。でも、この紙は違うな」
俺は布を手に巻き、直接触れないように紙片を持ち上げた。
紙の端に、黒い砂のような粒がついている。
視界の端に表示が出た。
【警告】
魔物誘導香 低濃度。
神殿香料偽装。
誘導方向 北東。
「北東」
俺は祠の周囲を見回した。
北東には、旧監視砦へ続く細い道がある。森を回り込むように進めば、俺たちの拠点の近くへ出る。
「嫌な方向だな」
「……この祠を、目印にしています」
リュミエラが低く言った。
「旅人の無事を祈る場所なのに」
その声に、怒りが滲んでいた。
昨日、自分を器と呼ばれた時の沈み方とは違う。
祠を汚されたことへの、確かな怒りだった。
そのとき、草むらの向こうで低い唸り声がした。
俺は剣を抜くと、コハクが祠の前へ出る。
リュミエラは紙片から一歩下がった。
茂みから出てきたのは、三匹の魔物だった。
狼型に近いが、目の焦点が合っていない。口元から涎が垂れ、鼻先が何度も地面へ向かう。俺たちを狙っているというより、匂いに引っ張られているように見えた。
さらに後ろから、小型の甲羅鼠が二匹、ふらふらと出てくる。
「数は少ない。でも様子が変だ」
「香に引かれています」
リュミエラの声が固い。
「攻撃するためではなく、近づかされています。たぶん、魔物たちも苦しいのです」
魔物が苦しい……その発想は、俺にはない。
だが、言われてみれば確かにそう見える。狼型の魔物は唸っているが、怒りというより、鼻の奥に何かを刺されているような苛立ち方だ。
「追い払えるか?」
「月光戦姫型でもできると思います。でも、香が残っている限り、また戻ってくるかもしれません」
「なら香を消す必要がある」
そう言った瞬間、視界の端に新しい表示が浮かんだ。
【召喚巫女型】
接続可能。
用途:鎮静・浄化・霊的干渉。
対象同意確認待ち。
「召喚巫女型」
俺が読み上げると、リュミエラがこちらを見た。
「巫女」
「ああ。聖女型じゃない」
そこは、まず伝えたかった。
リュミエラの瞳が少し揺れる。
怖さと、戸惑いと、別の感情が混じっていた。
「用途は、鎮静と浄化。霊的干渉」
「祠を、きれいにできるのでしょうか」
「たぶん」
狼型の魔物が一歩近づくと、コハクが低く鳴いた。
「使うかどうかは、お前が決めていい。聖女に戻るためじゃない。神殿の尻拭いをさせるためでもない。ここに来る旅人と、香に引かれてる魔物をこれ以上危なくしないためだ」
リュミエラは祠に視線を向けた。
新しい花。汚された香。焦点の合わない魔物たち。
それから、自分の胸に手を当てた。
「……やります」
声は震えているけれど、目は逸らしていない。
「私は聖女ではありません。でも、祠を汚されたままにしておきたくありません」
俺は頷いた。
「わかった。いくぞ。降臨」
光は、音もなく降りた。
白い光と、淡い朱色の光が、糸のようにリュミエラの周囲へ落ちていく。銀髪の内側に、清水を透かしたような青白い輝きが宿った。毛先には、細い朱の光が結ばれる。
衣装そのものが変わるわけではない。だが、外套の裾や袖口に、祈り紐のような細い光が幾筋も重なった。
空気が冷える。冷たいのに、不快ではない。
朝の井戸水で手を洗った時みたいに、皮膚の表面がすっと澄んでいく感覚。
そして、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がった。
「リュミエラ!?目の色が……!?」
息を呑んだ。
彼女の右の瞳は澄み渡るようなアクアブルーに、左の瞳は深いエメラルドグリーンへと染まっている。
完全な左右非対称、オッドアイに変わっていた。
リュミエラはゆっくり手を上げた。
その指先に、小さな白い光が集まる。
光は紙片のような形になり、ふわりと宙へ舞った。
一枚、二枚、三枚。
紙片に見えた光は、やがて小さな鳥の姿を取った。
翼を持つ白い灯りが、祠の周囲へ散っていく。
「召喚って、そういう」
俺は思わず呟いた。
派手な獣や巨大な何かではない。
小さな光の鳥たち。
それが狼型の魔物の鼻先へ舞い降りる。
魔物は唸った。
だが、飛びかからない。
白い鳥が、魔物の鼻先で羽ばたくたび、甘く焦げた匂いが薄まっていく。
「深く吸わないで」
リュミエラの声が、いつもより少し澄んで響いた。
「それは、あなたたちの道ではありません」
魔物に言葉が通じているわけではない。
それでも、狼型の魔物の肩から力が抜けたように見えた。
涎を垂らしていた口が閉じ、焦点の合っていなかった目が、少しだけ落ち着く。
「カナタ、香の紙片を台座から離してください。直接触れずに」
「了解」
俺は布越しに紙片を取り、持ってきた空き瓶へ入れた。
その間も、リュミエラの光の鳥たちは祠の周囲を回っている。
コハクは祠の裏へ走り、前足で地面を引っかいた。
「コハク、何か見つけたか」
「にゃ!」
見ると、祠の裏の石に細い線が引かれていた。
泥に紛れるような、黒い線。
ただの汚れではない。香油を染み込ませたものだろう。祠から北東へ向かって、草の根元に点々と続いている。
「道しるべだ」
誰かが、ここに来た。花を置いた旅人の後に、あるいはその前に。
祠の裏へ回り、石に線を引き、草の根元へ香を垂らした。
魔物の鼻だけが追えるように、薄く、細く。
リュミエラは祠の前に膝をついた。
両手を合わせるのではなく、台座へそっと手をかざす。
「祈りを、命令に変えないで」
声が震えていた。
怒りと悲しみが混じっている。
白い鳥たちが一斉に羽ばたいていく。
台座の周囲に残っていた黒い粒が、淡い光に包まれて浮き上がる。焦げた甘い匂いが、苦い煙のように薄れた。
狼型の魔物たちは、後ずさりした。
甲羅鼠も鼻をこすり、草むらの方へ逃げていく。
香から離れた途端、魔物たちは俺たちを狙わなくなった。
【召喚巫女型】
鎮静成功。
誘導香残滓 減衰。
人為的痕跡を検出。
流向:旧監視砦方面。
「旧監視砦方面」
俺は表示を見て、奥歯を噛む。
偶然ではない。
やはりこの香は、俺たちの拠点の方へ魔物を引く道になっている。
リュミエラの光が、少し弱まった。
俺はすぐに彼女へ駆け寄る。
「大丈夫か」
「はい。月光戦姫型より、身体は重くありません。ただ……胸の奥が、少し冷たいです」
「冷たい?」
「この型は、穢れの残りが見えます。祠の石に、黒い糸のように絡んでいました」
リュミエラは、祠の裏へ視線を向けた。
「この線を引いた人は、祠の意味を知っています。知らずに汚したのではありません。旅人が祈る場所だからこそ、魔物を寄せる目印にしたのです」
言葉が重い。
俺は空き瓶の中に封じた紙片を見る。
神殿の香に似せた魔物誘導香。
祠の裏に引かれた黒い線。
流向は旧監視砦。
「レギオンへ持っていく」
「はい。それから、オクタヴィアさんにも伝えるべきです」
「だな」
白い光の鳥たちは、役目を終えるように一羽ずつ消えていく。
最後の一羽だけが、リュミエラの肩へ戻り、光の粒になってほどける。
髪の朱い光も薄れ、彼女の銀髪が戻っていく。
祠は、昨日より静かになっていた。
新しい花だけが、風に揺れている。
旅人のための場所が、魔物を呼ぶ目印にされていた。
そして、その目印は、俺たちの砦へ向かっている。
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