第二十三話 私はどこにいるのでしょうか
リュミエラの声は、暖炉の火よりも静かだった。
胸の奥にそのまま沈んでいく。
俺は折れた炭を握ったまま、すぐに言葉を返せなかった。
違う。そう言いたかった。
でも、その一言だけで済ませていい話ではない。
俺のスキルが表示した言葉は、確かに「器容量」だった。神殿の男が口にした「聖女の器」と、同じ響きの言葉。
俺がどれだけ否定しても、リュミエラの耳には同じ刃に聞こえただろう。
暖炉の中で、薪が低く爆ぜる。
焦げた木の匂いと、布に何重にも包んだ小瓶から漏れる甘く焦げた香りが、広間の空気に薄く混る。
コハクは木箱の上に座り、小瓶とリュミエラを交互に見ている。
「リュミエラ」
俺はようやく口を開いた。
喉がひどく乾いている。
「俺が何を言っても、今すぐ安心しろとは言えない。あの表示は、最低だ」
「カナタが悪いわけではありません」
「いや、俺は悪くないって逃げたら駄目だ」
リュミエラが、少しだけ顔を上げる。
すみれ色の瞳は揺れていた。
涙はない。
「俺のスキルは、お前の身体に型を入れる。髪が変わる。声も変わる。戦い方も変わる。俺はそれで助けられてきた」
「私も、助けられました」
「それでも、あいつらの言う器と紙一重だ。そこから目を逸らしたら、俺も同じになる」
口にすると、胃のあたりが重くなる。
でも、言わなければならない。
リュミエラは胸元に手を当てた。
何かを押さえ込むような仕草。
「私は、怖いです」
「ああ」
「月光戦姫型になると、光が出ます。精密魔導型では、心が遠くなりました。爆裂魔導型では、一撃にすべてを注ぎたくなりました。薬師型では、身体の中が見えすぎました」
指先が、服の布を握る。
「どれも役に立ちます。誰かを助けられます。カナタも助けられます。それは、嬉しいのです。でも、型が増えるたびに、私の中にはまだ入る場所があるのだとわかってしまいます」
俺は、何も挟まなかった。
ここで励ましの言葉を被せたら、彼女の声をまた押し込めることになる。
「聖女ではなくなっても、神殿から離れても、私はまだ何かを入れられる身体で……それなら、私はどこにいるのでしょうか」
最後の言葉は、息に近かった。
俺は膝の上の作戦帳を見た。
木板には、炭の黒い文字が並んでいる。
月光戦姫型。
町内社交型。
精密魔導型。
爆裂魔導型。
薬師型。
聖女型はまだ書かれていない。
そこに、リュミエラ本人の名前はない。
俺は炭を置き、木板を裏返した。
「カナタ?」
リュミエラが不思議そうに見る。
俺は新しい面に、炭で大きく書いた。
リュミエラ。
「最初に書くべきだった」
文字は歪んだ。
前世のノートでも、会社の仕様書でも、こんなに緊張して名前を書いたことはない。
「作戦帳の一番上は、型じゃない。お前だ」
「私……?」
「ああ。型はその下だ。月光戦姫型も、町内社交型も、精密魔導型も、爆裂魔導型も、薬師型も、全部リュミエラの下に書く。お前を入れ物として見るんじゃなくて、お前が使うかどうか決める道具として書く」
リュミエラの瞳が揺れる。
「道具、ですか」
「俺の言い方が下手だったら止めてくれ。でも、少なくともお前が道具じゃない。お前を動かすための型でもない。お前が選んで、使うか捨てるか決めるものにしたい」
それが、今の俺に言える精一杯だった。
「俺は、お前を月光戦姫型だから助けたんじゃない。精密魔導型が使えるから一緒にいるんじゃない。爆裂魔導型が強いから、ここにいてほしいんじゃない」
言葉をひとつずつ置く。
取りこぼさないように。
「最初に草の中で見つけた時、お前は立てなかった。力もなかった。俺のことも疑ってた。正直、めちゃくちゃ重いことも言われた」
「……すみません」
「謝るところじゃない。あの時の俺は、お前が強い型になるなんて知らなかった。それでも放っておけなかった」
リュミエラの喉が、小さく動いた。
「砦で作ったスープ、うまかった。棚を拭く時、端の埃まで見つけるところもすごい。湯浴み場に関してだけやたら譲らないところも、結構好きだ。コハクにまで敬語で話すところも、怖くても知ろうとするところも、型じゃない」
言っていて、頬が熱くなってきた。
何を並べているんだ俺は。
でも止めなかった。ここで照れて引っ込めたら、肝心なところが届かない。
「全部、リュミエラだ」
リュミエラは何も言わなかった。
ただ、胸元を押さえていた手が、少しずつほどけた。
「俺は、お前にいてほしい。型のためじゃない。聖女だったからでもない。お前がリュミエラだからだ」
言い切った瞬間、広間がやけに静かになった。
暖炉の音だけが鳴っている。
コハクまで黙っていた。
普段なら茶化すように鳴きそうな場面なのに、さすがに空気を読んだらしい。
リュミエラは、ゆっくり息を吸った。
吐く息が少し震えている。
「カナタ」
「ん」
「私は、それを信じたいです」
信じます、ではなかった。
信じたい。それが、今の彼女には正直なのだろう。
「すぐに信じなくていい」
「はい」
「何度でも言う。必要なら、毎日でも言う」
「毎日は……ちょっと……」
「だな。重かったら三日に一回にする」
「そこは、少し考えさせてください」
ほんのわずかに、リュミエラの口元が動いた。
笑みというには小さい。でも、さっきまで沈んでいた目に、わずかな温度が戻った。
その時、視界の端に新しい表示が浮かんだ。
白ではない。青白く、冷たい文字だった。
【聖女型】
接続候補を検出。
適性 高。
状態 凍結。
接続 拒絶。
理由:対象が該当役割を拒否しています。
俺は息を止めた。
聖女型。
来てほしくないものが来た。
だが、表示は接続可能ではない。
凍結。
拒絶。
「何か、出ましたか」
リュミエラが聞く。
俺は、一瞬だけ迷った。でも、もう隠さないと決めた。
「聖女型だ」
リュミエラの身体が強張る。
「状態は凍結。接続は拒絶。理由は、対象が該当役割を拒否しています、って出てる」
読み上げると、リュミエラは目を見開いた。
顔色がまた少し白くなる。だが、その白さの奥に、違うものもあった。
「私が、拒絶しているのですか」
「そう出てる」
「聖女型を」
「ああ」
リュミエラは、自分の胸に手を当てた。
今度は押さえ込むためではなく、確かめるように。
「拒んで、いいのでしょうか」
「いい。戻りたくない役割なら、拒んでいい。怖い型なら使わなくていい。聖女だったことを全部捨てろなんて言わない。でも、聖女に戻れって表示が出ても、俺は押さない」
視界の端で、聖女型の文字が小さく揺れる。
まるで、こちらの返事を待っているみたいに。
俺は心の中ではなく、はっきり声に出した。
「聖女型は使わない。少なくとも、リュミエラが自分で望むまでは」
表示が、少しだけ薄くなった。
消えはしない。凍った文字のまま、奥へ沈む。
【聖女型】
状態 凍結継続。
強制接続 不可。
不可。その二文字に、初めてほっとした。
リュミエラは長く息を吐いた。
膝の上で、指が震えている。怖かったのだろう。今も怖いのだろう。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「私は、もう聖女ではありません」
「ああ」
「でも、聖女だった頃に祈ったことまで、全部嫌いになったわけではありません」
「うん」
「人が助かるのは、嬉しかったです。誰かが泣き止むのも、よかったと思いました。ただ、私が私でなくなるのは、嫌です」
ゆっくりとした言葉だった。
ひとつずつ、自分の中から取り出しているような声だった。
「なら、それでいい」
「いいのですか」
「いい。祈りたい気持ちと、聖女に戻りたくない気持ちは、別でいい」
リュミエラは唇を結んだ。
目元がかすかに赤い。でも、泣かなかった。
「カナタ」
「うん」
「私の名前を、もう一度呼んでいただけますか」
胸の奥が詰まった。
俺は作戦帳に書いた文字を見た。
型より先に書いた名前。
「リュミエラ」
彼女は、目を閉じた。その名前を、身体の内側へ落とすみたいに。
「はい」
小さな返事だったけれど、その声はさっきよりずっと彼女自身のものだった。
暖炉の火が揺れる。
小瓶の甘く焦げた匂いはまだ消えない。
神殿の男も、魔物誘導香も、聖女型の凍結表示も、何ひとつ片づいていない。
それでも作戦帳の一番上には、もう型ではなく、彼女の名前がある。
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