第二十二話 なんで、こっちまでそんな言い方なんだよ
小瓶の底で、黒い砂のようなものがゆっくり沈んでいる。
市場のざわめきが、急に遠くなった。
焼いた肉の匂い。果物の甘さ。馬車の車輪。露店主の戸惑う息遣い。その全部の奥から、焦げた砂糖のような、喉の奥に貼りつく匂いが細く混じる。
【警告】
境界反応あり。
魔物誘導痕跡を検出。
表示は、コハクの背中の毛と同じくらい正直だった。
コハクは俺の足元で身を低くし、小瓶から目を離さない。
リュミエラは町内社交型の黒髪のまま、露店主へ穏やかに微笑んでいる。表情だけ見れば、何も問題ないように見えた。
でも、袖の中の指先は白くなるほど握られていた。
「あら、この香は少し強いようですね」
リュミエラが言った。
声は柔らかい。
町内社交型の声だ。
「猫が驚いてしまいました。祠で焚く前に、レギオンの方へ確認していただいた方がよいわよ」
「え、そうなのかい?神殿の人は、魔物避けだって」
「魔物避けにも、相性がありますから。旅人の荷に匂いが移ってしまうと困るでしょ」
「そういうもんか」
「はい。念のため、一本だけこちらで預かってもいいかしら。レギオンへ確認して、問題なければお返ししますよ」
自然だった。
怪しまれない言い方。
怖がっているはずなのに、彼女は露店主の不安を先に受け止めている。
露店主は少し迷い、それから小瓶を布で包んだ。
「じゃあ、頼むよ。変なものなら、うちも置いておきたくない」
「ありがとうございます」
リュミエラが両手で小瓶を受け取る。
その瞬間、コハクがまた低く鳴く。
「にゃ……」
「コハク、近づくな」
俺はコハクを抱き上げた。
身体がいつもより硬い。琥珀色の瞳は、小瓶ではなく、人混みの向こうを見ていた。
白い外套の男は、もう市場の奥へ消えかけている。
追えば、何か掴めるかもしれない。だが、今追えばリュミエラが見つかる。
小瓶を持ったまま、町中で神殿の人間と揉めることになる。
俺は奥歯を噛む。
「戻るぞ」
言うと、リュミエラは静かに頷いた。
市場を離れ、路地を抜けるまで、誰も口を開かなかった。
石畳を踏む音だけが続く。
リュミエラは布に包んだ小瓶を胸元で抱えている。町内社交型の黒髪は、少しずつ銀へ戻り始めていた。毛先のくるんとした曲線がほどけ、元のまっすぐな髪へ戻っていく。
型が抜けるにつれて、彼女の顔色も悪くなった。
「リュミエラ」
町外れまで来てから、俺は足を止めた。
「大丈夫か」
「……はい」
「今のはいじゃない」
彼女は小瓶を抱えたまま、視線を落とした。
唇が少し震えている。
「怖かったです」
「すまない。すぐ離れればよかった」
「いいえ。聞けてよかったです。知らないまま、あの香が祠や宿に置かれていたら、もっと怖かったと思います」
「でも、お前に聞かせたくない言葉もあった」
器。大切だった方。残った祈りの痕。こちらで判断する。
全部、頭の中に残っている。
白い外套の男の丁寧な声ごと、耳の奥にこびりついていた。
俺の拳は、まだ固くなっていた。
「ふざけるなよ」
声が漏れた。
自分でも抑えきれなかった。
「人ひとり探すのに、金貨を出す。保護って言いながら、本人の意思なんか一言も聞く気がない。聖女の器だの、祈りの痕だの、勝手に値段つけて、勝手に戻す場所を決めて……」
喉が熱く、言葉が荒くなる。
コハクが腕の中で、爪を立てない程度に前足を押し当ててきた。
「カナタ」
リュミエラの声で、俺は息を止めた。
彼女を怖がらせたいわけではない。
怒りをぶつける相手を間違えそうになっている。
「悪い」
「いえ」
リュミエラは首を横に振った。
でも、その目は俺ではなく、小瓶を見ていた。
「神殿では、ああいう言い方は珍しくありませんでした」
「珍しくないのが、おかしい」
「はい。けれど、私は長い間、それがおかしいと気づけませんでした」
彼女の指が、小瓶を包んだ布を押さえる。
「聖女の器。祈りを受ける器。神の光を通す器。ずっと、そう言われていました。だから、聖女ではなくなった私に何も残らないのは、当然なのだと」
「当然じゃない。そんな言い方で、お前を空っぽ扱いしていいわけがない」
リュミエラの肩がわずかに揺れる。
言いながら、俺は自分の言葉に引っかかった。
空っぽ扱い。
器。誰かの力を入れる場所。
俺のスキルは、何をしている。
月光戦姫型。
町内社交型。
精密魔導型。
爆裂魔導型。
薬師型。
俺が呼び、リュミエラが受け入れ、その身体に別の型が入る。
髪色が変わる。口調が変わる。戦い方が変わる。力が宿る。
スキルを使うとき、必ず確認すると決めた。
彼女の意思なしには使わないと決めた。
それでも……俺がやっていることは、紙一重の差ではないのか。
神殿が聖女の器と呼んだ身体に、俺はヒロインの型を入れている。
「カナタ?」
リュミエラが、不安そうに俺を見た。
うまく返事ができない。
「……砦へ戻ろう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
旧監視砦に戻る頃には、空が薄く曇っていた。
風が冷たい。
壁の隙間から入り込む空気に、湿った石と木屑の匂いが混じっている。暖炉に火を入れると、やっと広間の一角だけが少し温まった。
俺は小瓶を長机の上へ置いた。
布を何重にも巻き、周囲に灰胡椒の実を置き、コハクが近づかないように木箱で囲う。
「厳重ですね」
「危ないものを危ないもの扱いしてるだけだ」
「コハクさんも、近づかないでくださいね」
「にゃ」
コハクは珍しく素直に下がった。
それだけで、この小瓶がどれほど嫌なものなのか伝わる。
俺は作戦帳を開いた。
木板に炭で書きつけた型の記録。その横へ、香の情報を書き足していく。
神殿の男。
白い外套。
ミラベルの護符。
魔物避けを名乗る香。
黒い砂状の沈殿。
境界反応。
魔物誘導痕跡。
書けば書くほど、不穏過ぎる。
ふいに、視界の端でウィンドウが開いた。
小瓶に反応したのか、コハクが近くにいるからか。
【解析】
魔物誘導香 低濃度。
神殿香料偽装。
境界感知個体への刺激あり。
対象保護推奨。
対象保護。
その言葉に、少しだけ息が詰まる。
続けて別の表示が揺れた。
【ヒロイン】
対象:リュミエラ。
適性:高。
器容量:測定不能。
役割接続履歴:複数。
炭が、指の間で折れた。
「カナタ?」
リュミエラが、こちらを見る。
俺は表示から目を離せなかった。
器容量。神殿の男と同じ言葉が、俺のスキルの中にもあった。
「……なんで。なんで、こっちまでそんな言い方なんだよ」
声が掠れた。
リュミエラが立ち上がる。
「何が、表示されたのですか」
隠すべきか、一瞬迷った。
でも、隠せば同じだ。彼女の身体に関わることを、彼女に知らせず抱え込む。それは、神殿と何が違う。
喉の奥の苦さを押し込む。
「俺のスキルの表示だ」
「はい」
「対象、リュミエラ。適性、高。器容量、測定不能。役割接続履歴、複数」
読み上げるほど、胸の奥がきしむ。
リュミエラの顔から、血の気が引いていった。
「器、容量」
彼女が、その言葉だけを繰り返す。
「リュミエラ、違う。俺は、そんなつもりで……」
言いかけて、止まった。
そんなつもりではなかった。それは本当だ。
でも、そんなつもりではなくても、彼女の身体を使って力を出している事実は消えない。
「俺は、必ず聞くって決めた。嫌なら使わない。そこは絶対に」
「はい。わかっています」
リュミエラの返事は静かだった。
「カナタが、私を神殿の人たちと同じように扱っているとは思っていません」
彼女は、自分の胸元を押さえた。
その指先が震えている。
「でも……私は、聖女ではなくなっても、まだ何かを入れられる身体なのですね」
言葉が、暖炉の火より重く落ちた。
「月光戦姫型も、町内社交型も、精密魔導型も、爆裂魔導型も、薬師型も……役に立てるのは、嬉しいです。助けられるのも、本当です。けれど」
リュミエラは一度、唇を噛んだ。
その目には涙はなかった。
泣くよりも深いところで、何かが沈んでいく顔だった。
「私は、また器なのですね」
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