第二十一話 具合の悪い娘を、しかるべき場所へ戻すだけ
市場の端にある香と護符の露店。
その前で、白い外套の男が店主に問いかけている。
淡い茶色の髪を後ろで束ね、首元には神殿の印。笑顔は柔らかい。声も丁寧だ。
だが、目だけがひどく乾いていた。
「銀髪の若い娘です。具合を悪くしている可能性があります。こちらの方へ迷い込んでいませんか」
リュミエラの息が、隣で止まった。
町内社交型の黒髪が、風に小さく揺れる。今の彼女は銀髪ではない。毛先も愉快にくるんとしている。だが、本人の震えまでは隠せない。
俺は半歩、彼女の前に出た。
「戻るぞ」
低く言う。
だが、リュミエラはその場を動かなかった。
「待って」
「危ない」
「でも、何を言っているのか聞きたいわ」
その声は小さい。
怖がっている。
けれど、耳を塞いで逃げる声ではなかった。
俺は露店の方を見た。
距離はある。人通りも多い。こちらが黒髪の女連れだと見えても、すぐリュミエラだとは結びつかないはずだ。
コハクは俺の足元で、低く身を沈めていた。背中の毛は少し逆立っているが、逃げろとは鳴かない。
「少しだけだ。無理だと思ったらすぐ離れる」
「はい」
俺たちは干し果実の屋台の陰に寄った。
町内社交型のおかげか、リュミエラの表情は穏やかに保たれている。だが、袖の中の指先は固く握られていた。
露店主は、白い外套の男に困ったような顔をしていた。
「銀髪の娘ねえ。旅人にはたまにいるが、具合の悪そうな若い娘は見てないな」
「そうですか。もし見かけたら、神殿へ知らせてください」
男は小さな紙片を差し出した。
神殿の印が押された護符だ。紙の端に、かすかな金色の粉が光っている。
「もちろん、謝礼はお渡しします。情報だけでも銀貨五枚。保護に協力していただければ、金貨一枚」
俺は耳を疑った。銀貨五枚。金貨一枚。
俺たちがここ数日、祠を掃除し、魔物を追い払い、屋根材を運んでようやく稼いだ金とは桁が違う。
リュミエラの肩が、わずかに揺れた。
値段がついた。
彼女自身にではない。
元聖女の居場所に。
元聖女の身柄に。
「そんな大金が出るってことは、よほど大事な娘なんだな」
露店主が半ば感心したように言う。
神殿の男は、丁寧な笑みを崩さなかった。
「ええ。国にとって大切な方です。いえ、大切だった方、と言うべきでしょうか」
言い直し方が、嫌だった。
隣で、リュミエラが細く息を吸う。
「今は聖女様が新しく立たれました。ですが、前の方にも確認しなければならないことがあるのです」
「確認?」
「聖女の器には、祈りの痕が残ります。役目を終えた後も、完全に空になるわけではありません。残った痕が乱れると、周辺に影響が出ることがありますから」
器……男は、何のためらいもなくそう言った。
俺の手が、知らないうちに拳になっていた。
肩に乗せていた布袋の紐が、指に食い込む。
「へえ、難しい話だな」
露店主はよくわかっていない顔で頷く。
男はさらに柔らかく笑った。
「難しく考える必要はありません。具合の悪い娘を、しかるべき場所へ戻すだけです」
「王宮へかい」
「それは、こちらで判断します」
その一言だけ、やけに冷たかった。
王宮へ戻すとは言わない。神殿へ戻すとも言わない。ただ、こちらで判断すると。
リュミエラの唇が、かすかに白くなる。
町内社交型の影響で表情は崩れていない。だから余計に、指先の震えが目立った。
「カナタ」
彼女が、声を殺して言った。
「私は、何か乱れているのかしら」
「違う」
リュミエラが小さくこちらを見る。
「お前は乱れてない。あいつらの言い方が腐ってるだけだ」
口にしてから、少しだけ後悔した。
場所を考えれば、声を荒げるべきではない。
だが、飲み込めなかった。
神殿の男は、露店主にさらに紙片を数枚渡していた。
「宿、鍛冶屋、薬草屋にも配ってください。銀髪の娘は、ひとりでは動けないはずです。誰かに連れられている可能性もあります」
「連れられている?」
「ええ。本人の意思で逃げているとは限りません。悪い者に利用されていることも考えられますから」
悪い者。つまり、俺のことか。
妙な笑いが喉の奥に引っかかった。
レギオンの面接に七回落ちた俺が、元聖女を利用する悪人扱い。出世したのか落ちたのかわからない。
「情報を隠せば、罰があるのかい」
露店主の声に、少し警戒が混じった。
男はゆっくり首を振る。
「罰などと言うつもりはありません。ただ、神殿の保護を拒む理由はありませんよね」
やはり、目が笑っていない。丁寧な言葉が、細い紐みたいに首へ巻きつく。
リュミエラが、一歩だけ後ろへ下がった。
俺はすぐに彼女の腕を支える。
「離れるぞ」
今度は、彼女も頷いた。
だが、その前にコハクが低く鳴いた。
「にゃ……」
市場の端、露店の裏側。
白い外套の男が置いた小瓶から、ほんのかすかに甘く焦げた匂いが流れてきた。
俺の鼻でもわかるほどではない。だが、リュミエラの顔色が変わった。
「その香……」
男が、露店主へ小瓶を渡す。
「これは旅人の安全を祈った香です。祠や宿先で焚いてください。魔物避けになります」
魔物避け。そう言った。けれど、オクタヴィアは言っていた。
北森には、木の根元に塗られた香油がある。魔物を引っ張る道しるべがある、と。
リュミエラが、小さく首を振った。
「違うわ。あれは、魔物避けの香じゃない」
「わかるのか」
「神殿の香に似ている。でも、底に混ぜ物があるわ。甘くて、焦げたような……魔力の残り方が変」
その声は震えていた。
怖いからだけではない。
知っているものを、知らない形に歪められていることへの嫌悪が混じっていた。
俺は露店を見た。
男はもう、次の店へ向かおうとしている。
背中はまっすぐで、歩き方も落ち着いている。人を探す者というより、印を置いていく者の動きだった。
「追うか」
俺が聞くと、リュミエラはすぐには答えなかった。
町内社交型の黒髪が、頬にかかる。
「追えば、見つかるかもしれないわ」
「それはそうだ」
「でも、このまま放っておけば、あの香が町に広がるんじゃないかしら」
その通りだった。
俺たちは、リュミエラを守りたい。
だが、町に香がばらまかれれば、魔物の流れが変わるかもしれない。祠や宿に置かれれば、人のいる場所へ魔物が寄る可能性もある。
俺は一瞬だけ目を閉じた。
最強レギオンを作る。そう言ったばかりだ。なのに、最初にやることが、香の小瓶を止めることになるとは。
「リュミエラ、町内社交型はまだ持つか」
「ええ。戦わなければ、もう少し」
「じゃあ、露店主から小瓶のことを聞く。危険そうならすぐ離れる。あの男は追わない。今の俺たちじゃ、正面から当たるには情報が足りない」
「はい」
俺たちは露店へ向かった。
神殿の男はすでに市場の人混みへ消えかけている。
コハクがそちらを見ていたが、俺の足元から離れなかった。
「あら、先ほどの香ですけれど」
リュミエラが、町内社交型の柔らかい声で露店主に話しかける。
「旅人用にひとついただけますか。祠の清掃をしておりますので、どういうものか確認したくて」
「ああ、いいよ。神殿の方が置いていったばかりだ。ありがたい香らしい」
露店主は小瓶を一つ手に取った。
その瞬間、コハクが「しゃあっ」と鋭く鳴いた。
市場の音が、一瞬だけ遠のいた。
露店主が手を止める。
リュミエラの肩が震える。
小瓶の中の油が、光を受けてとろりと揺れた。
【警告】
境界反応あり。
魔物誘導痕跡を検出。
俺は小瓶から目を離せない。
元聖女を探している男は、町に香を置いていった。
そしてその香は、魔物を避けるためのものではなかった。
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