第二十話 父さんに言いつけるわよ
「……リュミエラ様?」
老婆の声は、街道の上で妙にはっきり響いた。
豆商人が荷車の手綱を引き、御者台からこちらを見る。荷台の女の子は、布人形を抱いたまま首を傾げていた。
リュミエラの指が、外套の端を強く握る。
月光戦姫型の光はもうほとんど消えている。銀髪は元に戻り、すみれ色の瞳だけが、祠の白い石を映して淡く揺れていた。
「人違いです」
俺は一歩前へ出て言った。
できるだけ自然に。今すぐ逃げたい気持ちを顔に出さないように。
老婆は俺を見る。
目は濁っていない。年を取っているが、見るべきものをちゃんと見ている目だった。
「そうかい……いや、すまないね。年寄りの見間違いかもしれない」
口ではそう言った。だが、視線はまだリュミエラから離れない。
このままでは、豆商人も、女の子も、何かを察する。
俺は喉の奥が乾くのを覚えた。
その時、視界の端に半透明のウィンドウが出た。
【町内社交型】
接続可能。
対象同意確認待ち。
周辺警戒度 中。
町内社交型。
今ここで……確かに、斬って解決する場面ではない。
「リュミエラ」
俺は彼女にだけ聞こえる声で言った。
「町内社交型、使えるか。ここを穏便に抜けたい」
リュミエラは一瞬、老婆を見た。
怖さがある。
だが、逃げるだけでは済まないこともわかっている顔だった。
「……お願いします」
小さな返事に頷く。
「降臨」
薄い金色の光が、リュミエラを包んだ。
月光の名残を上書きするように、銀髪が艶のある黒へ変わっていく。毛先がまた、妙に愉快なくるんとした曲線を描いた。
すみれ色の瞳は柔らかくなり、硬かった肩から少しだけ力が抜ける。
「あらまあ」
リュミエラが、老婆に向かって穏やかに微笑んだ。
「大聖堂まで行かれたことがあるのですね。長い道中だったでしょうに、お疲れさまでした」
口調が完全に町内の世話役だった。
こんな状況でなければ、俺は全力で突っ込んでいたと思う。
だが、老婆の表情が変わった。怪しむ色より先に、懐かしむ色が浮かぶ。
「ああ、若い頃に一度だけね。孫が熱を出して、大聖堂で祈っていただいたことがあって」
「それは心配でしたでしょ。お孫さんは、今はお元気ですか」
「元気だよ。もう子もいる」
「よかったわあ」
リュミエラは、心からそう言うように目を細めた。
町内社交型の影響かもしれない。
けれど、たぶんそれだけではない。彼女は元聖女として、その老婆と孫のことを本当に気にかけている。
豆商人が、緊張を解くように笑った。
「ばあさん、聖女様だなんて驚かせるなよ。この子らは祠をきれいにしてくれた冒険者だ」
「すまないねえ。目元が少し似ていて」
「よく言われるのよ」
リュミエラが、さらりと受け流した。
町内社交型、強い。何が強いってコミュ力がとんでもなく強い。
戦闘適性は低いが、こういう場面では本当に心強い。
「それより、街道の祠はしばらく供え物を新しいものにした方がよさそうです。古い穀物に小型魔物が寄っていましたから」
「ああ、それは困るな。次に通るとき、新しい花を置いていくよ」
「ありがとうございます。古い供え物は、できれば持ち帰って処分してくださいね。魔物も、食べ物の匂いには敏感ですから」
老婆も豆商人も、素直に頷く。女の子まで、布人形を抱いたままこくこくと頷いていた。
この型、町内どころか街道まで掌握し始めている。
荷車が去ったあと、リュミエラは小さく息を吐いた。
「……助かったわあ」
「こっちの台詞だ。今の受け流し、すごかった」
「少し、胸が苦しいわね。でも、あの方のお孫さんが元気だと聞けたのは、よかったわ」
町内社交型の黒髪が、風に揺れる。くるんとした毛先が視界の端で跳ねた。
俺はそこを見ないようにした。
見たら、緊張が変な方向に抜ける。
「このまま町へ行くか」
「そうね。せっかくこの型になっているし、話を聞くなら今がいいわね」
「前向き」
「それと、乾燥豆のお礼も言いいましょ」
「町内力が高い」
コハクが「にゃ」と鳴いた。
たぶん同意だ。
町へ着く頃には、リュミエラの町内社交型は完全に馴染んでいた。
市場通りに入ると、彼女はまず豆商人の店へ向かった。
乾燥豆の礼を言い、倉庫の排水溝がその後どうなったか尋ねる。ついでに、古い網の張り方が甘い場所を指摘し、魚油の樽は日陰へ移した方がいいと助言した。
豆商人は笑っていたが、最後には真面目な顔で頷いていた。
「嬢ちゃん、ほんとによく気がつくなあ」
「あら、困りごとは小さいうちに見ておいた方がいいじゃない」
「小さいうちに見たいものが多すぎる」
俺が小声で言うと、リュミエラは横目で俺を見る。
「カナタも、肩を庇う癖がまだ残っているわよ」
「俺も小さい困りごと扱いか」
「大きくなる前に見ておかないと、父さんに言いつけるわよ」
「お前、俺の親父知らないだろ!?」
豆商人から聞けたのは、思ったより多かった。
首都から神殿の使いが何人か来ているらしいこと。
新しい聖女のお披露目が近く、街道沿いの祠や宿にも香と護符を配っていること。
その一方で、前の聖女については「療養に入った」「遠い巡礼へ出た」「王宮から離された」など、噂がばらばらであること。
「新しい聖女の名前は?」
俺が聞くと、豆商人は腕を組んだ。
「確か、ミラベル様だったかな。可愛らしいお方だって話だ。大聖堂の者がずいぶん褒めてたよ」
リュミエラの指が、袖の中でわずかに動いた。
俺はそれを見逃さなかった。
「ミラベル様」
リュミエラは、町内社交型の穏やかな声で繰り返した。
「その方の護符が、このあたりにもあるのかしら?」
「ああ。旅人の安全祈願だとか。うちにも一枚置いていったよ」
豆商人は店の奥から小さな紙片を持ってきた。
白い紙に、淡い金色の印が押されている。香の匂いはほとんどしない。
だが、リュミエラが紙片へ顔を近づけた瞬間、眉がかすかに寄った。
「どうだ」
俺が低く聞く。
「普通の護符に見えるわ。ただ、香が……少し違うわね」
「魔物を誘導するやつか?」
「いいえ。そこまで強くないわ。でも、神殿のものにしては、匂いの底が甘すぎる」
甘すぎる。
俺にはわからない。
だが、リュミエラには引っかかるらしい。
豆商人に礼を言い、俺たちは次に宿へ向かった。
最初に泊まった街道沿いの宿の女将は、俺たちを見るなり腰に手を当てた。
「生きてたかい、旧監視砦の物好きたち」
「呼び名が広まってる」
「そりゃ広まるよ。あそこに住もうなんて、最近じゃ一番の変わり者だ」
女将は豪快に笑った。
リュミエラは町内社交型のまま、深々と頭を下げる。
「先日は、古布をありがとうございました。おかげで寝床を作ることができたわ」
「あら、礼儀正しいねえ。役に立ったならよかったよ」
「それから、少しお伺いしてもいいかしら。最近、神殿の方がこちらにこなかったかしら」
自然だ。
あまりにも自然に本題へ入った。
俺なら、間違いなく怪しまれていた。
女将は少し考えた。
「来たよ。白い外套の若い男が一人。旅人向けの護符を置いていった。ついでに、銀髪の若い娘を見なかったかって聞かれたね」
俺の背中に冷たいものが走る。
「銀髪の若い娘」
「ああ。具合が悪くて迷っているかもしれない、とか言ってたよ。親切そうな口ぶりだったけど、目が笑ってなかったね」
リュミエラの顔が、町内社交型の穏やかさを残したまま、静かに強張った。
「その方は、どこへ行ったのかしら?」
「西へ行った。市場と祠を見てくるって。あんたたち、何か心当たりがあるのかい」
女将の目は鋭い。
リュミエラが答える前に、俺が口を開いた。
「銀髪の娘なら、旅人にはそこそこいます。俺たちも、少し目立つから気をつけようと思って」
「ふうん」
女将は納得したような、していないような顔をした。
だが、深追いはしなかった。
「まあ、気をつけな。ああいう、丁寧すぎる男は面倒なことを持ってくる」
「覚えておきます」
宿を出ると、リュミエラはしばらく黙っていた。
市場の喧騒が遠く聞こえる。焼いた肉の匂い、果物の甘い匂い、馬車の車輪の音。その中に、さっき聞いた話だけが、妙に重く沈んでいた。
「カナタ」
「ああ」
「その方は、私を探しているんじゃないかしら」
「だろうな」
「神殿の方なら、私が生きていることを確認したいのかもしれないわ」
「確認だけで終わるならいいけどな」
リュミエラは袖の中で手を握った。
町内社交型の影響で表情は柔らかい。けれど、指先には力が入っている。
「型を解くか?」
「もう少しだけ。このままの方が、人の話を聞けるわ」
「無理するな」
「無理はしないわよ。怖いけど、知っておきたいわ」
その返事に、俺は頷いた。
次に向かったのは、鍛冶屋だった。
旧監視砦の修繕に必要な釘と金具を見てもらうためだ。鍛冶屋の親父は、俺たちが持ってきた壊れた金具を見るなり鼻を鳴らした。
「古いな。軍の規格だ。今の釘とは寸法が違う」
「使えますか」
「直せばな。ただ、手間賃はもらうぞ」
「財布が泣きます」
「財布を慰める仕事はしてない」
正論だった。
リュミエラが横から、にこりと微笑む。
「この金具を直していただく代わりに、旧監視砦の安全報告で、鍛冶屋さんのお名前を補修協力者として記載してもいいかしら。レギオンの方が確認に来られた時、仕事の丁寧さが伝わると思うわ」
鍛冶屋の親父が、ぴたりと黙った。
「……嬢ちゃん、商売がうまいな」
「あら、ただお願いしているだけよ」
「それがうまいんだよ」
結局、金具の修理費は少しだけ安くなった。
町内社交型、恐ろしい。
その帰り道。
コハクが急に足を止めた。
「コハク?」
猫は市場の端、香や護符を扱う小さな露店の方を見ていた。
店先には、白い紙片と小瓶が並んでいる。
その前に、白い外套の男が立っていた。
若い。
背は高くない。淡い茶色の髪を後ろで束ね、首元には神殿の印らしき銀の飾りを下げている。
彼は露店の主人に何かを尋ねていた。
笑顔は丁寧だ。
だが、女将の言った通り、目は笑っていない。
「最近、このあたりで銀髪の娘を見ませんでしたか。体調を崩しているはずなのです」
男の声が、風に乗って届いた。
リュミエラの息が、隣で止まる。
町内社交型の黒髪が、ほんの少し揺れた。
コハクの背中の毛が、静かに逆立つ。
神殿の男は、リュミエラを探していた。
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