第十九話 結局、金
『誰かが、魔物に道を教えている』
その言葉は、旧監視砦へ戻ってからも頭の中に残り続けた。
北森から流れてくる魔物。木の根元に塗られた香油。石に残された魔力の線。神殿の香に似ているかもしれない匂い。
考えれば考えるほど、ただの自然発生とは思えない。
だが、今の俺たちに北森の奥を調べる余裕はなかった。
一か月以内に正式なレギオン登録条件を満たす。
そのためには、依頼実績を積む。拠点を整備する。周辺の安全報告を出す。
つまり、やることは山ほどある。しかも金はない。
「結局、金なんだよな」
広間の床に仮使用許可証と依頼票を並べながら、俺は低く呟いた。
暖炉には小さな火が入っている。窓穴を塞いだ板の隙間からは、冷たい風が細く入り込んでいた。
リュミエラは調理場の棚を拭き終え、俺の向かいに膝をついている。
コハクは許可証の上に座ろうとしたので、さっき俺がどかした。
今は拗ねたように、空の木箱の上で丸くなっている。
「正式登録には、どのくらいの依頼実績が必要なのですか」
「最低でも小依頼五件。拠点周辺の安全確認一件。あと、レギオンの確認員に生活可能な状態だと認めてもらうこと」
「生活可能」
「今の状態だと、判定が微妙だな」
リュミエラは広間を見回した。
暖炉。布を重ねた寝床。修理途中の窓。拭いた棚。調理場へ続く廊下。奥には封じた地下扉。
「……湯浴み場がまだありません」
「そこ、レギオンの確認項目には入ってないと思う」
「ですが、生活可能というなら必要です」
「わかった。湯浴み場は正式登録前に何とかする」
リュミエラは真剣に頷いた。
この数日で、彼女の中の優先順位に湯浴み場がかなり上位で固定されたらしい。
悪いことではない。生き延びるだけではなく、まともに暮らしたいと思っている証拠だ。
「まずは、明日の小依頼だな」
俺は依頼票を一枚取った。
「街道沿いの祠の安全確認と清掃。最近、祠の近くで小型魔物がうろついているらしい。戦闘の可能性は低め。報酬も低め。でも、拠点周辺の安全報告に使える」
「祠ですか……」
リュミエラの指が、わずかに動いた。
「嫌なら別のにする」
「いえ。祠の清掃は、神殿でもよく行っていました。できます」
「できる、じゃなくて、やっていいかどうかで考えていい」
言うと、リュミエラは少しだけ黙った。
彼女はこういう時、まだ自分が役に立てるかどうかを先に考える。
それが悪いとは言わない。だが、全部をそれで決めるのは違う。
「……やってみたいです」
しばらくして、彼女はそう言った。
「祈るためではなく、荒れている場所をきれいにするためなら」
「じゃあ、それにする」
俺は依頼票を脇へ置くと、コハクが木箱の上で耳をぴくりと動かす。
「お前も行くぞ」
「にゃ」
「監督じゃなくて、今回はちゃんと警戒係な」
「にゃ」
「返事が軽いな」
リュミエラが小さく笑った。
その笑みを見ながら、俺は明日の準備を書き足した。
灰胡椒の実を砕いた小袋。水筒。簡単な包帯。短い縄。コハク用の干し肉。
最後の項目は、コハクが許可証の上へ前足を置いて主張してきたので追加した。
翌朝、街道沿いの祠へ向かう。
旧監視砦から町へ出る途中、小さな丘のふもとに石造りの祠がある。
旅人が道中の無事を祈る場所らしい。白い石で組まれた小さな屋根と、風化した台座。周囲には背の低い草が生え、供えられていた花はすっかり乾いていた。
近づくと、湿った石の匂いと、古い香の匂いがかすかに残っている。
「神殿の香に似てるか?」
俺が低く聞くと、リュミエラは祠の前で膝をつき、慎重に空気を吸った。
「いいえ。これは普通の旅人用の香です。魔物を誘導するようなものではありません」
「よかった」
「ただ、少し荒れています。台座に泥が入り込んでいますし、供え物も古いままです」
リュミエラはそう言って、持ってきた布を水で濡らした。
石の台座を拭き、乾いた花をそっと取り除き、落ち葉を払う。
その動きは静かで、丁寧だった。
聖女として命じられた作業ではない。祈りを捧げるためでもない。ただ、汚れた場所をきれいにしている。
俺は周囲を見回しながら、草を刈った。
背の高い草の下には、小さな足跡がいくつも残っている。蹄ではない。狼型でもない。たぶん小型の魔物だ。
コハクが祠の裏へ回り、鼻先を地面に近づけた。
「どうだ」
「にゃ」
短い返事。危険ではなさそうだが、何かはいる。
そのとき、茂みの奥で葉が揺れた。
「来た」
俺は剣に手をかける。
出てきたのは、昨日の倉庫荒らしに似た小型魔物だった。鼠より大きく、背中に硬い甲羅のようなものがある。数は三匹。
祠に供えられていた古い穀物を狙っていたのだろう。
「下がれ、リュミエラ」
「はい」
彼女は布を置き、祠から離れる。
戦うほどの相手ではない。そう思った瞬間、奥の茂みからさらに二匹出てきた。
五匹。数が増えると、少し面倒だ。
月光戦姫型の待機は明けている。
練度を上げるなら、こういう低危険の場面の方がいい。
ただし、使うかどうかは彼女が決める。
「リュミエラ、月光戦姫型を短時間だけ試せるか」
リュミエラは、祠と小型魔物を見比べた。
それから、静かに頷く。
「お願いします。ただ、倒すより追い払う形で」
「了解」
視界の端にウィンドウが開く。
【月光戦姫型】
接続可能。
対象同意確認。
出力調整 低。
降臨を実行しますか?
「出力調整、低。できるのか」
「やってみます」
「降臨」
白金の光が、リュミエラを包んだ。
以前よりも穏やかだ。
銀髪の毛先に淡い金が差し、瞳に星のような光が宿る。胸の前で両腕を交差させかけたところで、彼女はぴたりと止まった。
「ポーズ、省略できたわ!」
「成長ポイントそこなんだな」
リュミエラは少しだけ真面目に頷き、両手を前へ出した。
足元に小さな月輪が浮かぶ。
前のような大きな光ではない。薄い輪が、祠を囲むように広がった。
「光を、強くしすぎずに……」
彼女が呟く。
月輪の縁から、小さな光の粒がいくつも落ちた。
小型魔物たちは驚いて跳ね、祠から離れる。逃げようとした一匹が横へ逸れると、リュミエラは光の糸で足元を軽く弾いた。
傷つけない。だが、近づかせない。
「おお。うまい」
俺は近づいてきた一匹を剣の腹で軽く追い払い、逃げ道を森の方へ作った。
コハクがその反対側へ回り込み、尻尾を太くして威嚇する。
「にゃっ」
魔物たちは一斉に森へ逃げていった。
戦闘と呼ぶには小さい。だが、前より明らかに安定していた。
視界の表示を確認する。
【月光戦姫型】
接続安定率 七十一%
出力 低。
保持時間 残り三百秒。
対象疲労 小。
「安定率上がってる。疲労も小だ」
「よかったです」
リュミエラは月光戦姫型のまま、ほっと息を吐いた。
以前なら、型が入った瞬間に身体を持っていかれるような緊張があった。今は違う。まだ不慣れだが、彼女自身が手綱を握っている感じがある。
「今のは、私の意思で弱められました」
「すごいじゃないか」
「うん。……少し、嬉しい!」
その言葉を聞いて、俺も口元が緩む。
嬉しい。彼女が自分でそう言えるのは、かなり大きい。
祠の清掃を終え、依頼票に記録をつける。
魔物は小型五匹。誘導香なし。祠の荒れは古い供え物と草むらが原因。周辺の魔物痕跡は軽度。
月光戦姫型の光は、祠の白い石に淡く反射していた。
「きれいだね」
リュミエラがぽつりと言った。
「自分の光だろ」
「まだ、自分のものだとは思えない。でも、前より怖くないわ」
「なら、よかった」
その時、街道の方から荷車の音が近づいてきた。
商人の荷車だ。御者台には、昨日の共同倉庫で見た豆商人が乗っている。
俺たちに気づくと、豆商人は荷車を止めた。
「あんたら、祠の依頼も受けてたのか」
「うん。ちょうど終わったところよ」
リュミエラは月光戦姫型を解こうとしたが、まだ光が完全には抜けていない。
毛先に淡い金が残り、瞳には星のような輝きがある。
豆商人はそれを見て、目を丸くした。
「へえ……昨日は黒髪だったのに、今日はまたずいぶん綺麗な」
「色々と事情があって!」
俺が慌てて間に入る。
だが豆商人は特に疑っている様子もなく、荷台から小袋を取り出した。
「倉庫の件、助かったよ。これ、昨日言いそびれた分だ。乾燥豆の余りだけど、煮れば食える」
「いいのか」
「ああ。あの揉め事を片づけてくれたんだ。あと、祠もきれいにしてくれたなら、道中ありがたい」
実績が評判になる。こういうことか。
「ありがとう」
リュミエラが頭を下げる。
豆商人は笑い、荷車を進めようとした。
その時、荷台の奥から小さな声がした。
「……お姉ちゃん」
見ると、荷台に座っていた女の子がこちらを見ていた。
年は七つか八つくらい。膝の上に布の人形を抱えている。大きな目で、リュミエラをじっと見つめていた。
「光ってる」
リュミエラが少しだけ身を引く。
「怖い?」
「ううん。きれい」
女の子はそう言って、にこりと笑った。
リュミエラの肩から、わずかに力が抜ける。
「ありがとう」
それだけで終わるはずだった。
だが、荷車の後ろを歩いていた老婆が、ふと足を止めた。
白髪を布で包み、杖をついた老婆だ。彼女はリュミエラの顔を見上げ、眉を寄せた。
「その目……」
リュミエラの表情が固まる。
俺は一歩前へ出た。
「どうかしましたか」
「いや、すまないね。昔、首都の大聖堂で見た聖女様に、少し似ていて」
喉の奥が冷えた。
リュミエラの指が、外套の端を握る。
月光戦姫型の光が薄れ、髪は銀へ戻り始めている。
老婆は、まじまじと彼女を見つめた。
「……リュミエラ様?」
風が止まったような気がした。
街道の上で、荷車の車輪が小さく軋む。
豆商人が不思議そうにこちらを振り返る。
元聖女は、まだ誰の記憶からも消えていなかった。
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