第十八話 危険地帯ど真ん中
仮使用許可の書類を受け取ったあとも、俺はしばらく出張所の扉を見ていた。
オクタヴィア。
亡国の王冠のレギオンマスター。
旧監視砦を最初の拠点にしていた女。
そして、コハクを見て「境界を見る獣」と言った女。
「……情報量が多い」
思わず呟くと、リュミエラが隣で小さく頷いた。
「はい。どこから考えればよいのか、少し迷います」
「俺はまず、あの人の圧から考えたい。強すぎる」
「とても、お強い方だと思います」
「爆裂魔導型と同じくらい、近くにいるだけで周囲が焼けそうだった」
「それは、少し違うかと」
「比喩だよ」
「はい。ですが、爆裂魔導型は本当に焼けます」
「冷静な補足だな」
受付の老人が、俺たちのやり取りを聞いてため息をついた。
「オクタヴィアさんは、ああ見えて面倒見はいい。だが、甘くはないよ。一か月以内に条件を満たせなければ、本当に使用許可は取り消される」
「わかってる」
「依頼実績と安全報告、それから拠点の最低限の整備。旧監視砦を使うなら、周辺の魔物被害にも気をつけるんだね」
周辺の魔物被害。
俺は、さっきオクタヴィアが置いていった報告書の束を見る。
受付の老人が紐でまとめようとしていたそれには、北森、街道西、旧石切場という文字が見えた。
「オクタヴィアが出しに来た報告書って、魔物の件か?」
尋ねると、老人は少し迷った顔をした。
「正式な依頼として公表する前の調査報告だ。詳しくは言えない」
「ざっくりでも」
「ざっくり言えば、魔物の分布が変だ」
やはり。ホーンラビットの群れ。森の浅い場所に出た狼型魔物。ブラッドバット。岩殻猪。
俺たちがここ数日で遭遇した魔物も、いくつかは本来の場所から外れていた。
「奥にいる魔物が浅いところへ出てきている、という話は聞いた」
「それだけじゃない。普通なら別々の縄張りにいる魔物が、同じ方向へ押し出されている。何かから逃げているのか、どこかへ誘導されているのか、まだわからない」
「誘導……」
リュミエラが、小さく繰り返した。
その声に、わずかな硬さが混じる。
「人が魔物を誘導することは、可能なのですか」
「できないことはない。餌、匂い、音、魔力の痕跡。魔物によって反応するものは違う。ただ、広い範囲で流れを変えるとなると、素人の悪戯では済まないね」
受付の老人は、報告書の紐を結びながら眉を寄せた。
「オクタヴィアは、その流れを追っている」
「だから北森の報告書を」
「ああ。彼女は今、レギオンから別口の調査を受けている。魔物の群れがどこから押し出されているのか。誰かが手を入れているのか。その確認だ」
終盤で突然現れたわけではなく、ちゃんと別の線で動いている。
そんな言い方を、まだ誰もしていない。だが俺の中で、何かが繋がった。
オクタヴィアは、俺たちのために動いていたわけではない。
もともと、北森周辺の異変を追っていた。旧監視砦も、その異変の範囲に入っているのかもしれない。
「俺たちの砦、危険地帯ど真ん中じゃないか?」
「今さら気づいたのかい」
「気づきたくなかった」
コハクが肩の上で「にゃ」と鳴いた。
現実を見ろ、と言われた気がする。
リュミエラは、受付の老人に向かって静かに頭を下げた。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「詳しいことはまだ言えないよ。ただ、旧監視砦を使うなら夜間の外出は避けること。地下の扉には触らないこと。魔物の流れがおかしいと感じたら、すぐレギオンへ報告すること」
「はい」
老人は仮使用許可証を俺に渡した。
「一か月だ。無茶をしすぎるんじゃないよ」
「それ、最近いろんな人に言われます」
「言われるだけの顔をしてるんだろう」
否定できない。
俺たちは出張所を出た。
昼の光が眩しい。市場通りには人の声と車輪の音が重なり、焼いた肉の匂いが漂っている。
ここだけ見れば、魔物の流れが変だとか、旧監視砦の地下が不穏だとか、そんな話はどこか遠くのことみたいだった。
だが、肩の上のコハクは市場の匂いではなく、北の方角を見ている。
耳がわずかに傾いていた。
「コハク?」
俺が呼ぶと、コハクは返事をしなかった。
その視線の先には、森の稜線がある。
「どうかしましたか」
リュミエラが不安そうに聞く。
「わからない。でも、あっちが気になるらしい」
「北森……でしょうか」
そのときだった。
「おーい、そこの物好き拠点組」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、出張所の横の路地からオクタヴィアが顔を出していた。
さっき出ていったはずなのに、まるで最初からそこにいたみたいな自然さだった。
「物好き拠点組って」
「仮称だよ。正式名称は自分たちで決めな」
オクタヴィアは軽く笑い、こちらへ歩いてくる。
市場の人々は彼女を見ると自然に道を空ける。彼女自身は気にした様子もない。
「受付から少し聞いた?」
「魔物の流れが変だって話は」
「じゃあ、ついでにもう少しだけ」
彼女は声を落とした。
さっきまでの軽い調子は残っているが、目は笑っていない。
「北森の魔物は、ただ暴れてるわけじゃない。逃げてるだけでもない。ところどころに、道しるべみたいな痕がある」
「道しるべ?」
「木の根元に塗られた香油。石に残った魔力の線。普通の獣なら気づかない。でも魔物は、ああいうものに引っ張られることがある」
リュミエラの表情が強張った。
「香油……神殿で使うものに、似ていますか」
オクタヴィアの視線が、彼女へ向いた。
深紅の瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「詳しいね」
「……昔、儀式で似たものを使ったことがあります」
「なるほど」
それ以上、オクタヴィアは踏み込まなかった。
リュミエラのフードの奥を覗き込むこともしない。
ただ、彼女が何かを隠していることは、たぶん気づいている。
「似てるかどうかで言えば、似ている。でも、祈りに使う香とは違う。もっと薄めて、魔物の鼻にだけ残るようにしてある。たぶん、人間の鼻ではほとんどわからない」
「コハクなら?」
俺が聞くと、オクタヴィアはコハクを見た。
「わかるかもしれないね。けど、嗅がせすぎない方がいい。境界を見る獣は、境界の匂いにも引っ張られやすい」
「また、よくわからないけど怖いこと言う」
「わかりやすく言うと、その子の勘は頼れる。でも頼りすぎると、その子が先に危ないものを見つけすぎる」
俺は肩の上のコハクを見る。
コハクはオクタヴィアをじっと見返していた。
鳴かない。ただ、尻尾だけがゆっくり揺れている。
「それで、旧監視砦も調べるんですか」
「いずれね。今は北森の奥を優先してる。あそこを中心に、魔物の流れが扇みたいに広がってるから」
「扇?」
「旧監視砦は、その端に引っかかってる。だから、君たちのところに魔物が流れる可能性もある」
可能性。便利な言葉だ。だが、こういう場合はだいたい起こる。
俺は三十回近く面接に落ちた男だから、悪い予感が当たることには妙な実績がある。
「対応策は?」
「夜に火を絶やさない。匂いの強い食材を外に置かない。血のついた布を放置しない。古い井戸と地下扉には近づかない。あと、妙な香りのする石や布を見つけたら触らずに呼びな」
「急に生活防衛マニュアルみたいになった」
「生きるって、そういう細かいことの積み重ねだよ」
さらりと言われて、少し黙った。
この人は強いから軽いのではない。
細かい危険を一つずつ潰してきたから、今こうして軽く言えるのだろう。
リュミエラが、両手を胸の前で重ねた。
「その香油は、人に害がありますか」
「濃ければね。薄いものでも、魔力に敏感な人間なら気分が悪くなるかもしれない。特に、祈りや浄化に関わる力を持っていた人間は」
リュミエラの指が、かすかに動いた。
俺は彼女の横顔を見た。フードの影で表情は見えにくい。だが、唇の色が少し薄くなっている。
「リュミエラ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない時の返事が早い」
「……少し、嫌な話だと思っただけです」
オクタヴィアは、そんな俺たちを見ていた。
何かに気づいたようにも見える。だが、やはり言わない。
「無理に聞かないよ。こっちも秘密はあるし」
彼女はそう言って、腰の剣の柄を軽く叩いた。
「ただ、旧監視砦にいるなら、近いうちにまた会うと思う。私が魔物の流れを追っている限り、あのあたりは巡回範囲だ」
「それは心強い」
「頼りきりは駄目だよ。でも、困ったら報告はしな。泣き言は早めに、だ」
オクタヴィアはまた笑った。
その笑顔は気さくだが、背後に大きな剣の影がある。
「あと、君」
彼女は俺を指さした。
「一か月以内にレギオン登録するなら、名前を考えておいた方がいい」
「名前」
「うん。仮称を放っておくと、周りが勝手に呼び始めるよ。物好き拠点組とか」
「それは絶対嫌だ」
「じゃあ、急ぎな」
言うだけ言って、オクタヴィアは市場通りの人混みへ歩き出した。
彼女の背中はすぐに人の間へ消えたが、不思議と見失った気がしない。あれだけの存在感なら、たぶん森の中でも道を空ける。
俺は仮使用許可証を握り直した。
旧監視砦を使えるようになった。
けれど、条件が増えた。
一か月以内の登録。拠点の整備。周辺の安全報告。
そして、北森から不自然に流れてくる魔物。
「カナタ」
リュミエラが、低く言った。
「はい」
「香油の匂いがするものを見つけたら、私にも見せてください。神殿のものと似ているかどうか、確認できるかもしれません」
「無理はするなよ」
「無理はしません。ただ、知っているものから逃げてばかりでは、何もわからないままです」
その声には、怖さがあった。
でも、逃げるだけではない硬さもあった。
コハクが肩の上で、北森の方へもう一度顔を向ける。
風が吹くと、市場の匂いの奥から、ほんのかすかに甘く焦げたような香りが混じった気がした。
魔物は、ただ迷っているのではない。
誰かが、魔物に道を教えている。
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