第十七話 いいか悪いかで言えば、かなり面倒な場所だよ
旧監視砦に住み始めて、三日が経った。
住み始めた、と言っていいのかは微妙だ。
広間の一角に寝床を作り、窓穴を板で塞ぎ、暖炉に火を入れ、調理場の竈をどうにか使えるようにしただけだ。屋根はまだ一部に穴があるし、夜になると風が壁の隙間でひゅうひゅう鳴る。
地下の封じられた扉は、相変わらず廊下の奥で沈黙していた。
長机と石を積んで近づきにくくしてあるが、あれで安心できるかと言われると、全然できない。
それでも、昨日よりはましだ。
グラントが分けてくれた屋根板と石板を少しずつ運び込み、雨漏りのひどい場所から塞いでいる。リュミエラはまだ重い作業を禁じられているので、布を畳み、釘や縄を分類し、調理場の棚を拭いていた。
コハクは監督という名の昼寝をしている。
「コハク、そこは作業台だ」
「にゃ」
「寝台じゃない」
「にゃ」
「おまえ、返事だけはいいんだよなぁ」
コハクは尻尾だけを揺らし、動く気配を見せない。
俺がため息をついていると、リュミエラが棚の前からこちらを見た。
「カナタ、今日はレギオンへ行くのですよね」
「ああ。旧監視砦を拠点として借りる手続きと、修繕材の追加相談。あと、金」
「最後が重いですね」
「一番重い」
現実はいつだって重い。
夢は最強レギオン。現状は雨漏り砦と銅貨数枚。
差がひどい。
リュミエラは、外套のフードを手に取った。
「私も行きます」
「体調は?」
「もう大丈夫です。薬師型でも、無理はしない範囲なら問題ないと」
「薬師型の診断を盾にされた」
「便利ですね」
「便利だけど、ちょっと悔しい」
彼女は小さく笑った。
まだ薄い笑みだが、ここ数日で少しずつ増えている。
俺はそれを見て、レギオンへ行く準備を始めた。
レギオン出張所は、昼前だというのにいつもより人が多かった。
掲示板の前に冒険者たちが集まり、受付の老人が忙しそうに書類を捌いている。市場倉庫の件や森のブラッドバット、岩殻猪の話が少し広まったらしく、俺たちを見る視線も以前より増えた。
リュミエラはフードを深く被っている。
コハクは俺の肩の上で、なぜか堂々としていた。
「旧監視砦を拠点として借りたい?」
受付の老人が、俺の出した申請書を見て眉を上げた。
「正気かい」
「その確認、もう何回目ですかね」
「あそこは雨漏りどころじゃないだろう」
「知ってる」
「壁も崩れてる」
「それも知ってる」
「地下も変な噂がある」
「それはもう少し詳しく聞きたい」
老人は口を閉じた。
今、明らかに余計なことを言った顔だった。
「変な噂、とは」
リュミエラが静かに尋ねる。
老人は少しだけ視線を泳がせた。
「昔の話だよ。旧監視砦は古い軍の施設だった。使われなくなってから、何度か冒険者や小さなレギオンが出入りしたが、長続きしなかった。地下に妙な空気があるとか、夜に獣が近づかないとか、まあ、そんな話だ」
「封じられた扉がある」
俺が言うと、老人の顔つきが変わった。
「触ったのか」
「触ってない。コハクが嫌がったから」
「猫が?」
「うちの猫はかなり信用できる」
「にゃ」
コハクが肩の上で鳴いた。
老人は、ますます判断に困る顔をした。
「まあ、触っていないならいい。あそこを正式に拠点として使うなら、レギオンへの申請と最低限の安全確認が必要だ。崩落の危険、魔物の侵入、周辺住民への被害。あと、過去の使用者の確認もいる」
「過去の使用者?」
「ああ。あそこを最後に使っていたレギオンが、今は大きくなりすぎてね。名義上、まだ一部の設備がそちらの管理扱いになっている可能性がある」
俺はリュミエラと顔を見合わせた。
「それ、どこのレギオンなんだ?」
老人が答える前に、出張所の扉が開い瞬間、空気が変わった。
大げさではない。
扉の金具が鳴った瞬間、室内にいた冒険者たちの視線が一斉にそちらへ向いた。話し声が少しだけ低くなる。誰かが椅子を引く音まで止まった。
入ってきたのは、一人の女。
背が高い。
俺より少し低いくらいだが、姿勢のせいで大きく見える。長い深紅の髪を高く結び、黒い外套の裾を片手で払っている。革の胸当ては傷だらけで、腰には幅広の剣。歩くだけで、床板が彼女のために道を空けているように見えた。
顔立ちは、嫌になるくらい整っている。
強さと華やかさを同じ型に流し込んだような美人だ。
そして、圧がある。爆裂魔導型の魔法陣とは別方向の、近づいたら何かが爆ぜそうな圧だ。
「受付、北森の報告書を出しに来たよ」
女は軽い調子で言った。
声までよく通る。
「オクタヴィアさん」
「……オクタヴィアって……亡国の王冠の!?」
現在この世界で最大かつ最強と呼ばれているレギオンのマスター。
街道で何度か噂を聞いた。こんな形で会うとは思っていなかった。
噂では熊のような大女とも、ゴリラのような筋肉とも聞いていたのに……
受付の老人が、ほっとしたような、困ったような顔をした。
「ちょうど、あなたのところに確認が必要な話が出ていまして」
「私のところ?」
オクタヴィアと呼ばれた女が、こちらを見た。
その目が、まず俺を捉える。次にリュミエラ。
最後に、俺の肩の上のコハクで止まると、彼女の表情から笑みが消えた。
「琥珀の瞳……境界を見る獣か」
低く、ほとんど独り言のような声だった。
俺の肩の上で、コハクの尻尾がぴたりと止まる。
「え」
俺が声を漏らすと、オクタヴィアはもう笑っていた。
さっきの鋭さが嘘みたいに、気さくな顔だ。
「ごめんごめん。珍しい目の猫だと思ってね。いい子だ」
「にゃ」
コハクは返事をした。
ただ、いつもより少し低い声だった。
警戒しているのか、認めているのか、俺には判断がつかない。
オクタヴィアは受付に近づき、俺の申請書を覗き込んだ。
「旧監視砦?」
「はい。この方たちが、拠点として借りたいと」
「へー。あそこかぁ」
オクタヴィアの目が、また俺たちへ戻る。
品定めされている。
ただし、不快な値踏みではない。剣の重さ、靴の汚れ、リュミエラの立ち方、コハクの目。そういうものを一瞬で見ている感じだった。
彼女は、意味深に笑った。
「いいと思うよ」
軽い。軽すぎる。あれだけ崩れていて、地下に不穏な扉まである廃墟に対して、返事が軽い。
「いいのか」
俺が聞くと、オクタヴィアは肩をすくめた。
「いいか悪いかで言えば、かなり面倒な場所だよ。雨漏りするし、獣も出るし、夜は風がうるさい。地下は触らない方がいい。あと、最初の一週間はたぶん心が折れる」
「全部知ってる人の感想だ」
「知ってるよ。昔、使ってたから」
「レギオン……」
リュミエラが小さく呟いた。
オクタヴィアは彼女へ視線を向ける。
その目は一瞬だけ深くなったが、何かを言い当てるような真似はしなかった。
「今はだいぶ大きくなったけど、最初は三人と一匹だった」
「一匹」
「犬。ものすごく賢い犬。私より先に危険を見つけるし、私より先に肉を食べる」
「うちの猫と似てる」
「にゃ」
コハクが不満げに鳴いた。
自分はもっと上だと言いたいのかもしれない。
オクタヴィアは楽しそうに笑った。
「旧監視砦を使うなら、覚悟はいる。でも、悪い場所じゃない。高台で見通しがいい。森に近いから素材も取れる。街道から外れているから、余計な客も少ない」
「余計な客が少ないのは助かります」
「ただし、来る時は来るよ。面倒な客ほど、道を選ばない」
指折り数えるその言葉に、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
「地下の扉は?」
俺が尋ねると、オクタヴィアの笑みが少し薄くなった。
「開けないこと」
「やっぱり何かあるのか」
「ある、というより、昔から閉じておく場所だね。私たちも開けなかった。開ける必要がなかったから」
「必要が出たら?」
「その時は、一人で開けないこと。猫が嫌がるなら、なおさら」
コハクが低く鳴いた。
オクタヴィアはその声を聞いて、軽く目を細める。
「いい相棒を持ってるね」
「俺の方がオマケっぽい扱いになることもあるけど」
「それは、たぶん当たってる」
「初対面で結構失礼なこと言うな」
「ははっ」
オクタヴィアはまた笑った。
軽いのに、全部を見透かしているような笑い方だった。
受付の老人が咳払いをする。
「それで、旧監視砦の名義ですが」
「ああ。うちの残ってる権利は全部放棄でいいよ。今の拠点で手一杯だし、あそこを欲しがる物好きがいるなら譲る」
「物好き」
「物好きでしょ」
「否定できない」
俺が認めると、オクタヴィアは満足そうに頷いた。
「ただし、条件をひとつ」
「条件?」
「一か月以内に、正式なレギオンとして最低限の登録条件を満たすこと。依頼実績、拠点管理、安全報告。できなければ、使用を止める。それでどう?」
受付の老人が慌てて書類を確認する。
「確かに、その形なら仮使用許可は出せます」
「じゃあ決まり」
オクタヴィアの決断は早かった。
早すぎて、こちらが置いていかれる。
「待ってくれ。俺、まだレギオン登録そのものが」
「これからするんでしょ?」
「そのつもりだけど」
「なら同じだよ。場所が先に決まることもある。人が先に集まることもある。名前が先に走ることもある」
オクタヴィアは俺の肩のコハクを見て、それからリュミエラへ目を向けた。
「君たちは、たぶん場所が先に必要な組だ」
その一言で、俺は返す言葉を失った。
この人は、リュミエラが誰なのかまでは知らないはずだ。
けれど、彼女に居場所が必要だということは、見抜いたのかもしれない。
リュミエラは、フードの奥で静かに息を呑んでいた。
「ありがとうございます」
彼女が小さく頭を下げると、オクタヴィアは気軽に手を振った。
「礼は一か月後でいいよ。あそこを使うなら、泣き言のひとつやふたつは出るだろうし」
「三つくらいならもう出てる」
「早いね。見込みがある」
「泣き言に見込みっているか?」
「折れる前に吐けるなら、ある」
さらりと言われて、少し驚いた。
気さくで軽いのに、言葉の芯が硬い。
オクタヴィアは報告書を受付に置き、帰り際にもう一度コハクを見た。
「その子の目、大事にしなよ。琥珀の瞳は、境目で迷う者を見つける」
今度は、聞き違いではなかった。
俺が問い返す前に、彼女は扉へ向かって歩き出す。
冒険者たちが自然に道を空けた。
「オクタヴィア!」
俺が呼ぶと、彼女は振り返った。
「あんたは、何を知ってるんだ?」
「今は、君たちより少し先に旧監視砦で泣いたことがあるってだけ」
オクタヴィアは、少しだけ笑いながら、出張所を出ていった。
扉が閉まる。
止まっていた空気が、少しずつ動き出す。
俺の肩の上で、コハクが静かに尻尾を揺らした。
旧監視砦。
亡国の王冠の始まりの場所。
そして、オクタヴィアが何かを知っている場所。
俺たちが選んだ廃墟は、やはりただの雨漏り物件ではなかった。
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