第十五話 これ、毒です
リュミエラの身体は、驚くほど軽かった。
爆裂魔導型の反動で立てなくなった彼女を背負い、俺はグラントの案内で森を下りていた。
背中越しに伝わる体温は高い。けれど、熱そのものより、呼吸の浅さが怖かった。細い息が肩口にかかるたび、俺の胃がぎゅっと縮む。
さっきの爆発で倒れた岩殻猪より、今はこの軽さの方がよほど恐ろしい。
「カナタ……重く、ありませんか」
「軽い。軽すぎて腹が立つ」
「え……?」
「ちゃんと食わせる。絶対に食わせるからな」
リュミエラは小さく瞬きをした。
返事をしようとしたのかもしれないが、言葉にはならなかった。
コハクが足元を歩き、何度もこちらを振り返る。尻尾がいつもより低い。
「砦まで戻る前に、俺の作業小屋へ寄れ」
前を歩くグラントが言った。
「水と薬草くらいはある。お嬢さん、そのまま歩かせるな」
「助かる」
「礼はいい。あんなもんを見たあとで放っておけるか」
あんなもん……爆裂魔導型のことだろう。
俺も同感だった。
グラントの作業小屋は、森の縁にあった。
丸太を組んだ小さな建物で、壁には斧や鋸が掛けられている。中は木屑と樹脂の匂いが濃く、乾いた薪が天井近くまで積まれていた。奥には簡素な寝台と、水瓶、薬草を吊るした棚がある。
俺は寝台にリュミエラを下ろした。
「すみません」
「謝るなって」
「でも、私が倒れたせいで」
「何度もいわすな」
ここまでいって、リュミエラはやっと口を閉じた。
いつものように「はい」とは言わない。疲れすぎているのか、納得していないのか。たぶん両方だ。
俺は水瓶から水を汲み、濡らした布を彼女の額に置いた。
指先が触れたそばから、熱が伝わる。
「これ、普通の反動なのか? それとも危ないやつなのか……」
呟いたとき、視界の端に半透明のウィンドウが開いた。
【薬師型】
接続可能。
用途:診断・調合。
戦闘適性 低。
消費 微。
対象疲労下での接続 注意。
「薬師型……?」
俺が読み上げると、リュミエラが薄く目を開けた。
「薬師、ですか」
「ああ。診断と調合って出てる。負担は小さいらしいけど、疲労下だから注意とも出てる」
「私の身体がどうなっているか、わかるかもしれないのですね」
「でも、今のお前に使わせるのは怖い」
「怖いのは、わからないままでいることも同じです」
声は弱い。
だが、リュミエラは俺を見ていた。
選ぼうとしている目だった。
「カナタ。使ってください。無理だと思ったら、すぐ止めます」
俺は一度目を閉じ、息を吐く。
爆裂魔導型の直後に、また別の型を使う。
本当は避けたい。だが、リュミエラに何が起きているかわからないまま横に寝かせているのも、同じくらい怖い。
「少しでも苦しかったら言え」
「はい」
ウィンドウが白く光る。
【薬師型】
対象同意確認。
降臨を実行しますか?
「降臨」
光は、ごく静かだった。
月光戦姫型の華やかさも、爆裂魔導型の熱もない。薄い青緑の光が、リュミエラの身体を水の膜のように包む。
銀髪の内側に、深い青と緑が混じった色が差した。すみれ色の瞳は澄み、薬瓶の底を覗いたときのような透明感を帯びる。
ふわりと、乾いた薬草の匂いがした。
苦みのある葉と、甘い樹皮と、雨上がりの土を混ぜたような匂いだった。
リュミエラはゆっくり息を吸い、まず自分の手首に指を当てた。
「脈は速いですが、乱れてはいません。熱は魔力の過剰放出による一時的なもの。水分、塩分、糖分、休息が必要です。爆裂魔導型は最低でも三日は使用禁止。できれば、その間は他の型も短時間に」
「自分で診断してる」
「見える。身体の反応が、文字ではなく色と匂いで」
リュミエラは自分の爪を見た。
それから唇に触れ、少し眉を寄せる。
「唇の乾き、爪の色、汗の匂いから見て、脱水が少し。大きな損傷ではない」
「本当に?」
「はい。怖いのは、無理を重ねること」
「それは俺でもわかる」
胸の奥から、固まっていた息が抜けた。
無事と言い切るには早い。けれど、今すぐ命に関わる状態ではなさそうだ。
それだけで、膝の力が抜けそうになる。
「次は、グラントさん」
リュミエラの視線が、今度はグラントへ向いた。
グラントは水瓶の横で腕を組み、少し身構える。
「俺はいい。年寄りの小傷だ」
「左手を見せてください」
「小傷だと言ったろ」
「左手」
静かな声なのに、有無を言わせない。
グラントは渋々、左手を差し出した。
手の甲には古い切り傷があり、指の付け根が少し赤く腫れている。
「いつの傷ですか」
「三日前だ。大したことはない」
「打撲と筋の損傷です。骨は無事です。今日は重いものを持たないでください」
「今日は、石板運びが」
「持つな」
「はい」
グラントが少し引いた。
俺も引いた。
リュミエラは淡々としている。
リュミエラの視線が、ぴたりと止まった。
「カナタ、少し待って」
「ん?」
振り返ると、リュミエラはもう俺の腕を見ていた。
視線は一点に固定されている。森を抜ける途中で引っかけた、右腕の浅い擦り傷。血はすでに止まっていて、俺自身もほとんど気にしていなかった。
「そこ、見せてください」
「これ? 大したことないぞ。ちょっと草で切っただけだし」
「草の棘が少し残っている」
「え、残ってたのか」
「はい。先端が折れて、皮膚の下に」
リュミエラは俺の返事を待たず、袖口を軽く押し上げた。
指先が傷の周囲に触れる。冷たい、というより、迷いがない。薬師が道具を扱うみたいな手つきだった。
「これ、毒です」
「え!?」
変な声が出た。
「量は少ない。細いので気づきにくかったと思います。でも、放置すると腫れます。抜きます」
「ちょ、待て待て待て。毒って、そんな急に言われても――」
「動かないで。深く入ります」
言いながら、リュミエラは腰の小袋から細い銀針を取り出した。
いつの間にそんなものを持っていたのか、聞く間もない。彼女は傷口の横を軽く押さえ、角度を確かめるように目を細める。
「痛いです」
「先に言うな!?」
「言わないほうがよかった?」
「いや、言ってほしいけど!」
ちくり、と鋭い痛みが走った。
反射で肩が跳ねそうになった瞬間、リュミエラの指が俺の腕を押さえる。細い指なのに、驚くほど逃がしてくれない。
「出た」
「早っ」
「棘が脆いです。途中で折れたら厄介なので、もう少しだけ我慢して」
「お、おう……」
銀針の先が、細い黒いものを掬い上げる。
草の棘、というにはあまりにも小さい。こんなものが皮膚の下に入っていたなんて、自分では絶対に気づかなかった。
リュミエラはそれを布の上に置くと、今度は何の前触れもなく、傷口に顔を近づけた。
「!? おまっ、何して――」
「毒を吸うだけ」
「吸うって!?」
「喋ると力が入ります。痛くなります」
「そういう問題じゃない!」
抗議はした。
したが、動けなかった。
リュミエラの唇が、俺の腕の傷に触れている。
ほんの数秒のことだった。けれどその数秒で、腕から肩、首の後ろまで熱が駆け上がる。処置だ。これは処置だ。わかっている。わかっているのに、目のやり場がない。
リュミエラは吸い出したものを、用意していた小さな布にぺっと吐き出した。
そこに薄い赤と、わずかに黄緑がかった液が滲む。
「……今の、毒?」
「はい。少量ですが、残すと熱を持ちます」
平然としている。
あまりにも平然としている。
俺だけが、心臓を変な速さで鳴らしている。
リュミエラはさらに小袋から薬草を取り出し、指先で潰した。青臭い匂いがふわりと立つ。森の湿った土と、潰れた葉の苦い香りが混ざった。
彼女はそれを傷口に当て、薄い布で手早く巻いていく。
「少ししみます」
「もうしみてる」
「効いている証拠」
「それ、便利な言葉だな……」
結び目まで作る動きに、迷いが一切ない。
棘を抜く挙動も、毒を吸い出す判断も、薬草の扱いも、全部が速い。いつものふわふわしたリュミエラとは、まるで違う。
俺は巻かれた腕を見下ろす。
さっきまでただの擦り傷だった場所が、急に危険物扱いになった気分だった。
「……毒は?」
「抜けた」
「俺の心臓は?」
「それは専門外」
「いや、今のは半分お前のせいなんだけど」
「毒の作用ではありません」
「わかってるよ!」
リュミエラはようやく顔を上げた。
真面目な目で俺を見る。照れている様子はない。さっき何をしたのか、まったく意識していない顔だった。
「念のため、しばらく走らないでください。腕も強く振らないほうがいいです」
「……わかった」
「あと、痺れ、吐き気、視界の揺れが出たらすぐに言ってください」
「怖い情報をあとから足すな」
俺が顔をしかめると、リュミエラは小さく首を傾げた。
「言わないほうがよかった?」
「言ってくれ。言ってくれたほうがいい。でも言い方が淡々としすぎなんだよ」
「毒なので」
「毒なので、じゃないんだよ」
リュミエラは納得したのかしていないのか、薬草の残りを丁寧に包み直して小袋へ戻した。
その横顔は、どこか満足げですらある。
「処置は終わりました」
「……助かった。ありがとう」
リュミエラはそれから、薬草棚の端に吊るされた小さな赤茶色の実を見つけた。
「これは、使えます」
「何に?」
「乾かして粉にすると、目と鼻を強く刺激します。人に使うには危険ですが、嗅覚の鋭い魔物を怯ませるには有効です」
「目眩まし粉みたいなものか」
「はい。灰胡椒の実です。細かく砕いて、布袋に詰めれば投げられます」
コハクが興味ありげに近づこうとしたので、俺は即座に抱き上げた。
「お前は嗅ぐな。絶対くしゃみが止まらなくなる」
「にゃ」
「不満そうにするな。これはお前のためでもある」
リュミエラは、赤茶色の実を指先で転がした。
薬師型の光を帯びた瞳が、静かに細まる。
「これがあれば、戦わずに逃げる時間を作れるかもしない」
「それいいな。俺たちに必要なやつだ」
「どういたしまして。毒草は、見つけると少し嬉しいです」
「そこは嬉しがるな」
「珍しい種類でした」
「嬉しがるなって」
俺たちは強くなりたい。けれど、今の俺たちはまだ弱い。
月光戦姫型は一日一度。爆裂魔導型は三日使えない。精密魔導型も万能ではない。
なら、戦う前に逃げる手段がいる。
「……そろそろ、切れます」
「大丈夫か」
「はい。薬師型は負担が軽いですが、今は長く使わない方がよさそうです」
光が消えた。
髪は銀へ戻り、リュミエラの身体が少し傾く。俺が支えると、彼女は目を伏せたまま小さく謝ろうとした。
その前に、俺が言う。
「謝るのは禁止」
「……はい」
リュミエラが深く息を吐くと、青緑の光が、髪の先から少しずつ抜けていく。
俺は腕の布を見下ろす。傷はもう痛くない。けれど、別の場所がまだ落ち着かない。
この型、距離感が危険すぎる。
グラントは薬を塗った左手を見つめ、それから棚の灰胡椒の実をひと束外して俺に渡した。
「持っていけ。あと、屋根板は明日以降にしろ。お嬢さんも、お前さんも休め」
「はい」
「返事だけはいいな」
「よく言われます」
グラントが鼻で笑った。
コハクが腕の中で「にゃ」と鳴く。
俺は灰胡椒の実と薬草を受け取り、リュミエラをもう一度背負った。
今度の背中の熱は、さっきより少しだけ落ち着いている。
薬師型。戦う力ではない。
けれど、倒れる前に気づき、逃げるための手段を作れる力だった。
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