第9話 白鳥美月の水着ポートフォリオ
とある休日の昼下がり。
俺――鷹城恒一は、自宅のソファで見事にダメ人間と化していた。
冷房の効いた部屋。
テーブルにはコンビニコーヒー。
スマホで適当にニュースを流し見る。
平和だ。実に平和である。
――だがその時、
突然スマホが震えた。
【白鳥美月】
……嫌な予感しかしない。
恐る恐る開く。
『鷹城さん、今日暇ですか?』
俺は即返信した。
『暇ではない。ニュースチェックに忙しい』
既読。
『じゃあ、買い物に付き合ってください』
『何で?』
既読。
『水着を買います』
……。
…………。
………………。
『何で俺?』
返事は早かった。
『経済合理性の観点から、私の判断です』
意味が分からない。
水着選びに経済合理性って何だ。
俺はスマホを胸に置き、天井を見上げた。
――休日、終了のお知らせである。
◇
一時間後。
俺はなぜか、駅前ショッピングモールにいた。
解せぬ。
「お待たせしました!」
小走りで現れた白鳥美月が、ぺこりと頭を下げる。
白いブラウスにロングスカート。
地味めな私服はコイツの通常運転だが、いつものスーツ姿より少し柔らかい印象。
……いや、なんで俺、会社の女子と休日に待ち合わせしてるんだ?
「で?」
俺は開口一番、問い詰めた。
「説明してもらおうか」
「何をです?」
「何をじゃない。水着を買うのに、どうして俺が呼び出されている」
白鳥は真顔で答えた。
「経済合理性です」
「その説明を求めてるんだよ」
白鳥は小さく咳払いする。
そして、まるでプレゼンでも始めるような口調で、
「女子同士で買い物に行くと、問題が発生します」
「問題?」
「褒め合いです」
「褒め合い?」
「『かわいい〜!』『似合ってる〜!』の応酬になります」
「……そういうものなのか?」
「しかし、それでは正確な市場の評価が得られません」
「市場の評価?」
水着選びに市場原理を導入する女。
だが白鳥は構わず続けた。
「今回は、軽井沢さんたちと海に行く際の水着選びです。必要なのは女子の無難なコメントではなく、男性目線による客観的評価」
「だから何で俺なんだ」
「市場参加者による冷静な分析が必要なんです」
「何の市場だよ! 俺、参加してないし!」
「待ってください!」
帰ろうとする俺の袖を、慌てて掴む白鳥。
「鷹城さん以上の適任者はいません!」
「もう嫌な予感しかしないが、理由を聞いてもいいか?」
「鷹城さんは金融知識が豊富なので」
「水着選びに金融知識いる?」
「最適ポートフォリオの構築です」
「はあ?」
完全に意味不明だった。
「例えばですね」
白鳥が指を一本立てる。
「水着を構成する要素は、価格、デザイン、機能性、着用頻度、心理的満足度――」
「お前、水着を金融商品みたいに分析するつもりか?」
「当然です。安い買い物ではないですから」
……コイツの中では当然らしい。
「水着は季節限定商品。使用頻度は年数回。複数年の着用も想定されます。となれば、耐用年数と減価償却を考える必要が――」
「待て」
「え?」
「水着を固定資産扱いするヤツがどこにいる!」
「ここにいますが」
俺が頭を押さえると、白鳥は不思議そうに首を傾げた。
「大事な視点だと思いますけど?」
「そこを重視する女子、初めて見た……」
「それに」
白鳥はさらっと続ける。
「鷹城さんなら、変に気を遣わず正直に評価してくれます」
「……」
「『似合ってない』なら、普通に『似合ってない』って言いますよね?」
「言うだろうな」
「ほら」
「ほら、じゃない!」
白鳥は満足そうに頷いた。
「やはり鷹城さんの起用が最適解でした。まるでオルカンですね」
「俺を全世界分散投資みたいに扱うな!」
「では行きましょう」
そう言うなり、白鳥は自然な動きで俺の腕を引っ張った。
「ちょ、待て!」
「時間は有限です。休日の機会コストが発生しますよ」
「……お前、本当に何でも金融に例えるな」
俺の抗議など完全に無視して、白鳥美月は水着売り場へ一直線に突撃した。
そして、この時まだ知らなかった。
水着選びは、想像以上に精神を削るハイリスク商品だったということを。
◇
ショッピングモール三階、水着売り場。
周囲にいるのは、若いカップルか女子グループばかり。
少なくとも、男一人で来る場所ではない。
「彼氏さんは、こちらでお待ちくださいね」
店員の明るい声が、俺たちに向けられた。
「ち、違います!」
白鳥が顔を真っ赤にして即否定する。
だが、周囲から向けられる生暖かい視線は止まらない。
何だこの公開処刑。
店員は『はいはい、若いですね〜』と言いたげな笑顔を残し、フィッティングルームの奥へ去っていった。
……コイツが美人なのは認める。
だが俺の名誉にかけて誓う。
こんなNISA女の彼氏では断じてない。
「……では」
白鳥が真顔で試着室のカーテンを閉めた。
「これより市場調査を開始します」
「意味が分からん」
「男性目線による定量評価です」
「水着の試着室をマーケティング会議みたいに言うな」
数分後。
試着室の向こうから、小さな声がした。
「……鷹城さん」
「何だ」
「準備できました」
「そうか」
「では市場に公開します」
「IPOかよ」
シャッ。
カーテンが開いた。
「…………」
俺の思考が止まった。
白鳥が立っている。
淡いネイビーのシンプルな水着。
露出は控えめ。
だからこそ、コイツの清楚さが妙に際立っていた。
普段は地味な経理女子。
なのに今だけ、真夏の妖精みたいになっている。
……危険だ。これは色々と危険すぎる。
「ど、どうですか?」
白鳥が少し不安そうに尋ねる。
落ち着け。冷静になれ。
そうだ、金融で考えろ。
「……極めてリスクの高い商品だ」
白鳥が「ふむ」と頷く。
「つまり価格変動リスクが高いと」
「いや、水着にボラティリティはねえよ!」
「では、何のリスクでしょうか?」
「し、信用リスク……?」
「つまり、この水着を着ると会社が倒産すると」
「ああ。バタバタ倒れるだろうな」
倒れるのは会社じゃなく、ビーチの男どもだけど。
白鳥は鏡の前でくるりと回り、自分の姿を確認した。
「つまり、この商品は非推奨?」
「いや……」
俺は視線の置き場に困りながら答える。
「最適ポートフォリオだ……たぶん」
「最適ポートフォリオっ!」
白鳥の目が輝く。
「では、リスクは抑えめですね!」
「違う意味でリスクが高すぎる!」
布地面積は多い。
だが、清楚系美人の白鳥が着ると破壊力が半端ない。
たぶん、ビーチの男どもの視線を根こそぎ持っていくだろう。
――などと、そんなことを口にできるはずもない。
どこか納得していない様子の白鳥は、俺の評価を聞くとカーテンをシャッと閉めた。
さらに数分後。
「第二案です」
再びカーテンが開いた。
……今度は黒。
大人っぽいデザイン。
肩紐は細め。
露出も、かなり高い。
「…………」
いや待て。
これはダメだ。
危険度が急上昇している。
ボラティリティが異常値を示し、俺の心臓が超過勤務で倒れそうだ。
「どうでしょうか」
「ハイリスク商品。初心者には非推奨」
「即答!?」
「これはかなりの上級者向けだ」
「つまり金融デリバティブ商品?」
「ああ。しかもレバレッジの効いたヤバいやつ」
「ひいいいいっ!」
真っ青になった白鳥が、バッグからメモ帳を取り出した。
『黒=ハイリスク商品』
「書くな!」
三着目。
フリル多めの可愛い系。
白×水色のパステルカラー。
全体的にふわっとしていて、露出も控えめ。
「これはどうですか?」
俺は思わず頷いた。
「……バランス型だな」
「それってどういう……」
「保守性を確保しつつ、市場の成長性を上手く取り込んでいる」
「市場の成長性! つまりオルカン!」
「オルカンだけじゃない。日本株と内外債券も組み込んだ4資産分散投資」
「なんか凄い……!」
白鳥が感心したように頷く。
「でも、水着の成長性って何ですか?」
「え?」
「保守的なのは分かるんですが、成長性って何かなあと」
素で聞いてくる白鳥。
「それはもちろんお前の……いや、何でもない」
危ねえ!
コイツの魅力を最大限に引き出せるポテンシャルを秘めている、とか危うく口走るところだった。
だが、何かを察したのか、白鳥がじっと俺を見ている。
「鷹城さん」
「何だ」
「今、何か言いかけましたよね?」
逃がさん、という目だ。
「正しい評価をお願いします」
「ダメだ。コンプライアンスに抵触する」
「コンプライアンス!」
「コンプライアンスは銀行員の生命線。口が裂けても言えん」
「そっか。なら仕方ないですね……って、鷹城さんもう銀行員じゃないですよね! だったらコンプライアンス違反にも問われません!」
「会社員でも普通に問われるわ!」
すると隣から、店員がニコニコしながら現れた。
「さすが彼氏さん、お目が高いですね〜。そのデザイン人気なんですよ〜」
「だから彼氏じゃありません!!」
顔を真っ赤にした白鳥は、そのまま試着室へ引っ込んでしまった。
危険資産の審査がようやく終了。
「……鷹城さん」
カーテンの向こうから声がする。
「審査は終わったはずだが」
「一つ、聞いていいですか?」
「何だ」
数秒の沈黙。
そして――
「鷹城さん、女の子の水着見慣れてます?」
俺の思考が停止した。
「……はあ?」
「分析が的確な上に冷静でしたので。もしかして慣れているのかと」
「全然慣れてねえよ!!」
反射的に叫んでしまい、近くの客の視線が一斉に刺さる。
この公開処刑、誰か止めてくれ……。
だが、白鳥はカーテンの向こうから不思議そうに続けた。
「でも、融資判定みたいに査定を即完了させてましたし……」
嫌な予感。
「銀行員時代も、こうやって女子の水着査定を――」
「やるか、アホっ!」
◇
しばらくして、白鳥が再び姿を見せる。
結局選んだのは、白×水色のフリル付き。
可愛い系で露出も控えめ。
無難だが、ちゃんと似合っている。
「最適ポートフォリオとどちらか悩みましたが、成長性に賭けてこれにしました」
俺は少しだけ安心した。
「まあ、いいんじゃないかな」
「成長型ポートフォリオでしたっけ?」
「バランス型だ!」
「なるほど」
全然なるほどじゃないが、白鳥は納得したのかそのままレジへ向かった。
ちなみに値札は5980円。
「想定の予算内です」
「そうか」
「これなら今月の家計にも影響ありません」
優秀な経理部員らしいコメント。
だが、俺の視界にレジ横の商品棚が入る。
帽子
ラッシュガード
サンダル
防水ポーチ
俺はゆっくり白鳥を見る。
「……そう言えばお前」
「はい?」
「付属コストを考えていたか?」
白鳥の動きが止まる。
「……付属コスト?」
俺は棚を指差す。
「海に行くなら、水着だけじゃ足りない」
「あ……」
俺が視線を商品棚に向けると、さすがの白鳥も気づいたようだ。
「…………」
白鳥の顔から血の気が引いていく。そして震える指でスマホの電卓を開いた。
「水着……5980円……」
ぽちぽち。
「ラッシュガード……2980円……」
ぽち。
「サンダル……1480円……」
ぽち。
「防水ポーチ……980円……」
ぽち。
「帽子……2980円……」
白鳥がゆっくり顔を上げる。
「総額……14400円……」
「まあ、そんなもんだな」
白鳥、絶望。
「予算オーバー……大暴落です!」
「暴落じゃねえし」
「想定外支出です……ポートフォリオ管理の大失敗……」
「今さら言うのも何だが、水着選びをポートフォリオ理論で語るな!」
だが白鳥は本気で悩み始めた。
「ラッシュガードを削れば……」
「日焼けするぞ」
「帽子を削れば……」
「熱中症になるぞ」
「サンダル……」
「足、大やけど」
「防水ポーチ……」
「スマホ死亡」
「……詰んだ」
「だから事前設計しろと!」
白鳥が肩を落とす。
それは、完全にリスク管理に失敗した投資家の顔だった。
そして、ぼそりと呟く。
「……鷹城さん」
「何だ?」
「今月の食費、削っていいですか?」
「削るな!」
「でも、お金が……うううっ」
「オルカンを一部解約しろ! 評価益が出てるんだから、こういう時に使え!」
「は、はいっ!」
どうやら積み立てを下ろす発想がなかったらしく、マジで今月の家計を心配していたらしい。
だが、お金の心配がなくなった白鳥は、商品棚から手あたり次第手にすると、まとめてレジに持っていった。
◇
店を出ると、初夏の陽射しが眩しかった。
白鳥は紙袋を抱えながら、どこか楽しそうに歩いている。
「あ、そうだ! ちょっと待ってください」
そう言うと、スマホでポチポチ始めた。
すると、俺のスマホが震える。
白鳥からのメッセージ。
「いや、今隣にいるだろ」
そう言いながら、メッセージを開く。
『本日の市場評価レポート』
『満足度:★★★★★』
『同行アドバイザー:有能』
「……誰が同行アドバイザーだ」
白鳥が少し笑う。
『次回、夏服ポートフォリオ相談会』
「やらねえからな!」




