第10話 50歳からのiDeCo、実は最強だった!?
ある昼休み、社内カフェの一角。
総務部の高坂玲子さん(50)が腕を組んで座っていた。
いわゆるお局さん。
この道30年のベテランで、仕事は鬼のようにできる。
書類の提出期限を破る輩には一切容赦がなく、ちゃらんぽらんな営業部からは特に恐れられている存在だ。
そして白鳥を見ると、だいたい小言。
「投資? ああ怖い怖い」
そう――投資が大嫌いなのである。
そんな高坂さん相手に、久我信一郎が営業をかけていた。
完璧な営業スマイル。隙のない姿勢。
社内カフェのはずなのに、なぜか支店の相談窓口みたいな空気になっている。
「老後資金でしたら、こちらのバランスファンドがおすすめです」
「いいえ、結構よ」
即答だった。
高坂さんの資産形成哲学は実にシンプル。
株=恐い
元本割れ=悪
老後資金=預金一択
「私、株はしない主義なの。ギャンブルみたいで恐いし、楽して儲けようとする今の風潮が大嫌いなのよ」
「ですが国も推奨しているように、老後資金は長期積立で準備した方が――」
「働けるうちは働けばいいの。それで足りる範囲で慎ましく暮らす。それが日本人の美徳じゃないかしら」
「おっしゃる通りだと思いますが、万一に備えて……」
「とにかく株は恐いの。老後に損をするなんて、とんでもないわ!」
さすが総務部。問答無用である。
久我も一瞬言葉を失ったが、営業エリートはそれでも立て直す。
「承知しました。では、より安定的な資産形成をするために――」
だが高坂さんは、腕を組んだまま言い放った。
「積立定期を申し込みたいんだけど」
一瞬。
久我の営業スマイルが、ほんのわずかに止まった。
……が、次の瞬間には完全復旧。
「承知しました」
申込書、スッ。
昼飯を終えて、少し離れた席から様子を見ていた俺は、さっきからずっと口を挟もうか迷っていた。
なぜなら――
現在50歳。
積立定期10年。
給与口座引き落とし。
用途は老後資金。
……ダメだ。
条件が綺麗に揃いすぎている。
経理部員としても、元銀行員としても、見て見ぬふりができない。
「……おい、久我」
「はい、何でしょうか」
「お前、iDeCoの説明はしたのかよ」
「いいえ、してませんが」
久我はいつもの爽やかな笑顔。
悪びれる様子はゼロである。
高坂さんが怪訝そうに眉をひそめた。
「ちょっと待ちなさい、鷹城くん」
警戒レベル、急上昇。
「また投資の話なの? 白鳥さんといい、あなたといい、経理部はそんな話ばっかり!」
「そんな話って、こんなNISA女と一緒にしないでください」
「誰がNISA女ですか!」
隣の白鳥が頬を膨らませて怒っているが、それを無視して高坂さんに反論。
「投資の話じゃありません」
「……だって今、iDeCoって」
「定期預金の話です」
数秒の沈黙。
高坂さんの頭上に巨大な『?』が浮かぶ。
「……はあ?」
俺は近くのホワイトボードを高坂さんの前まで引っ張ってきた。
営業部のプレゼン用備品。
普段は中身のない『営業会議』で酷使されているが、今日は本来の用途で働いてもらう。
「iDeCoって、投信だけじゃないんです」
カキカキ。
【iDeCo】
↓
【投資信託】 or 【定期預金】
「……選べるの?」
高坂さんの眉がぴくりと動く。
「選べます」
「でもiDeCoって、広告でよく見るアレでしょ? 積立投資とかインデックスとか……若い子が好きそうな」
「そうですが、定期預金も選べるんです」
「そんなの聞いたことないわ」
どうやら本気で初耳らしい。
隣では久我が、営業スマイルのまま静観している。
どうやら止める気はないようだ。
「高坂さん、今50歳ですよね」
「女性に年齢を聞くのは失礼でしょ。……まあ、そうだけど」
「じゃあ仮に、60歳までの10年間。月2万円を積み立てるとします」
「……iDeCoに?」
「普通の積立定期と、iDeCoの積立定期。その両方に預けたとしましょう」
「定期なら、どっちも同じでしょ!」
怒られた。
俺はホワイトボードに数字を書き込む。
【毎月2万円 →1年で24万円 × 10年】
↓
【積立総額240万円】
↓
【利率1%なら、満期で約250万円】
「普通の積立定期だと、ざっくりこんな感じです」
「積み立てなら、まあそんなものかしら」
金利感覚は持ってるらしく、反応は薄い。
だが、本番はここからだ。
「一方、iDeCo定期の場合」
「同じ商品なんだから、同じでしょ!」
「税金分、得をします」
「……税金?」
高坂さんの顔が、露骨に曇った。
税金の話は難しいし、みんな大嫌い。
だが、ここは避けて通れないのだ。
「iDeCoは、掛金が所得控除されます」
「所得控除って、何がどう控除されるのよ」
「所得税と住民税です。掛金分だけ課税対象の所得が減ります」
「……つまり?」
「高坂さんの年収なら、税率はざっくり30%くらい。年24万円積み立てた場合、年間7万円前後、税金が軽くなる可能性があります」
沈黙。
高坂さんが、二回瞬きをした。
「……10年だと?」
「ケースによりますが、節税効果だけで70万円近くになることもあります」
再び沈黙。
「待って!」
「はい」
「定期預金をしただけなのよ?」
「はい」
「元本保証の?」
「はい」
「なのに70万円も税金が……嘘でしょ?」
「しかも運用中は、利息に税金がかかりません。普通の預金だと毎年利息から20.315%引かれますが、iDeCoなら非課税です」
「ウソ……じゃあ、受け取る利息まで普通の定期より多いじゃない!」
そこで初めて、久我が口を開いた。
「iDeCoは、生命保険や個人年金と同様、税制優遇を受けられます」
営業スマイル。
「投信だろうと預金だろうと関係なく、掛金分の所得控除による効果があります。ただし、受取方法や退職金との兼ね合いによっては、受け取り時に課税されるケースもあります」
「……急に話が分かりにくくなったわね」
銀行員はコンプライアンスに縛られていて、ぶっちゃけた説明ができない。
代わりに俺が翻訳する。
「iDeCo定期は、税制ブーストが凄い」
「……税制ブースト?」
「ざっくり言うと、普通の定期預金と同じ商品なのに、そこに節税効果が乗る」
ホワイトボードを指し示す。
「さっきのケースなら、利息10万円に加えて入口の節税メリットが約70万円。出口戦略でも節税すればトータルでかなりの差がつく」
「実質80万円……利息が8倍……」
高坂さんが、ゆっくりと俺を見る。
「……預金なのに?」
「厳密には利息ではありませんが、はい」
隣で話を聞いていた白鳥が、突然俺の肩を掴んだ。
「これって、預金派の最終兵器じゃないですか!」
「どちらかというと50代向けの裏技かな?」
「元本保証で確定利息がなんと8%! 期待リターン5%より上位互換!」
「いや、だから利息じゃねえし。お前が言うと怪しい金融商品に聞こえるからやめろ!」
盛大にツッコんだが、高坂さんは笑わなかった。
ホワイトボードを、じっと見つめている。
【240万円】 ⇒
普通の定期 【約250万円】
iDeCo定期 【約320万円(条件次第)】
視線が、何度も数字を往復する。
そして数秒後。
「……鷹城くん」
「何でしょうか」
「iDeCoの申込書をちょうだい」
「俺、銀行員じゃないんですけど」
「あら、そうだったわね」
すると久我が、待ってましたと言わんばかりの営業スマイルを浮かべた。
「承知しました」
書類、スッ。
「お前、持ってたのかよ」
「もちろん。銀行員ですので」
「「「じゃあ、最初から出せよ!!」」」
全員の総ツッコミが入った。
「おい、久我」
「何でしょうか」
「なんでiDeCoを先に説明しなかったんだ」
一瞬。
カフェの空気が静かになる。
だが久我は、1ミリも表情を崩さない。
完璧な営業スマイルのままだ。
「聞かれませんでしたので」
「お前なあ……」
「高坂さんは積立定期をご希望でした。投資商品のご提案はしましたが、ご興味がないとのことでしたので」
「iDeCoにも定期があることくらい教えてやれよ。普通、気づくわけないだろ!」
銀行員という生き物はいちいちムカつく。
高坂さんも眉をひそめた。
「……どうして提案してくれなかったのよ」
「…………」
久我は黙る。
営業スマイルだけは崩さない。
俺はため息を吐いた。
「積極的に勧めにくかった理由――それは、リテール営業部の立場だとあまり旨味がないからですよ」
周囲がざわつき、白鳥が目をぱちくりさせた。
「銀行が儲からないから、じゃなく……リテール営業の立場だと旨味がない?」
「そうだ。安定した預金の確保は銀行全体で見ればむしろ大歓迎。特に資金運用を管理しているALM部門なんか大喜びだよ」
「ALM部門?」
「銀行にとって預金は、金利の低い資金調達手段。それを企業向け融資や運用に回すことがむしろ本業。そういう銀行全体のバランスを見る部署がALМだよ」
「そんな部署があったんだ……」
「だが本社の運用部隊と違って、現場のリテール営業は手数料ビジネス。そして主力は投資信託だ」
「同じ銀行でも向いている方向が違う……」
久我は否定しない。
営業スマイルのまま黙っている。
……否定できるはずがない。
「しかもiDeCoは営業泣かせの商品なんだ」
指を一本立てる。
「制度が複雑。説明が長い」
二本目。
「適合性確認だの法令対応で、手間が大変」
三本目。
「60歳まで資金ロック。営業接点もロック」
「……うわあ」
白鳥が露骨に引いた。
久我が小さく補足する。
「法令遵守事項はかなり多いですからね」
「だから説明だけで昼休みが消える。しかも最後は『難しくてよく分からん』で終わる」
「つら……」
「そこまで頑張って仮に加入してもらっても、手数料は少ない」
「いいことじゃないですか」
「顧客にとってはな」
久我が無言で肩をすくめる。
「現場営業はどうしても収益性の高い商品を扱いたくなる。高信託報酬の投信や一部アクティブファンドなんかがその代表格だ」
すると白鳥が首を傾げる。
「……あれ? でもそれってNISAも同じじゃないですか? でも銀行はNISA獲得に必死」
「いい質問だ」
俺は頷く。
「違いは、NISAが超人気商品だってことだ」
「超人気商品?」
「銀行と証券会社が、顧客の奪い合いをしてるレベルでな」
「金融業界こわ……」
「しかもNISAは投信をいつでも売却できる」
「……売却?」
「積立変更、解約、資産の組み換え――そういう営業接点が残るってことだ」
「……営業接点」
「だがiDeCoは違う」
俺はホワイトボードをコンコン叩いた。
「ここに入れた金は、基本60歳までロック。顧客も1円も下ろせずにロック。銀行の営業機会も完全にロックだ」
数秒の沈黙の後、白鳥がぽつりと呟く。
「……確かに、営業の立場から見ると嫌な制度ですね」
「老後が心配なNISA貧乏から見ると神制度なんだけどな。あと本社も」
「私のことっ!?」
そこまで言うと、高坂さんがギロリと久我を睨んだ。
「……久我くん。私みたいな預金派にこそ必要な制度だったじゃないのよ!」
「…………」
「顧客の利益より、自分たちの利益を優先したってことなの?」
久我は営業スマイルを崩さない。
「誤解のないよう申し上げますと、ご希望いただければ、どの商品でも適切にご説明します。お客さまの利益が最優先ですので」
「ご希望いただければって何なのよ、その受け身な態度は!」
高坂さんの声が一段大きくなる。
「確かに、iDeCoについて十分な説明をしなかった点はお詫びします。ですが……」
そこで言葉が止まる。
珍しく、歯切れが悪い。
俺は小さくため息を吐いた。
「銀行員の立場じゃ言えないこともある。俺が説明するよ」
俺は高坂さんの向かいに座り直した。
「法令上、iDeCoを紹介するときは特定の商品を強く勧めにくいんです。さっき俺が言ったような『iDeCo定期』みたいな裏技は、特に」
「そうなの?」
「それに、さっきは端折りましたが、iDeCo定期って出口戦略で税金が変わるんです」
「そう言えば、出口戦略って言ってたわね」
「ええ。ざっくり言えば、退職時に一括で受け取るか、年金みたいに分割で受け取るか。あるいはその両方です」
「何それ……?」
「受取方法や退職金との兼ね合いで、税負担が変わります。高坂さんの場合は一括受取の方が有利になりそうですけど」
「普通の定期と全然違う……」
「iDeCoはとにかく税制が複雑なんです。出口戦略次第でトータルリターンが結構変わる。だからお客様ごとに事情を見ないと、まともな説明ができない」
「……そういうことなのね」
「俺は高坂さんの事情を知ってるから、ここまで踏み込んで話せました。でも普通は難しいし、コンプライアンスの問題もある。だから久我の煮え切らない態度も理解できます」
久我は爽やかな笑顔のまま、黙って聞いている。
「せっかくだし、iDeCoの特徴を改めて整理しておきます。一番の特徴は、60歳までお金を引き出せないこと」
「本当に解約できないの?」
俺は頷いた。
「iDeCoはあくまで年金。老後資金専用口座です。病気、転職、住宅ローン……そういう大きな出費にも基本使えない。だから20代、30代の資産形成のメインにしにくい」
「確かに……若い人ほど手が出せないわね」
「でも高坂さんは60歳まであと10年。ちょうど10年積立定期の満期と同じです。だからiDeCo最大の弱点が、弱点にならない」
「本当にそうね……」
「それとiDeCoって、高所得者ほど所得控除の恩恵が大きい。所得税率が10%の白鳥より、20%の高坂さんの方がメリットが出やすい」
「逆に言えば、専業主婦は所得控除のメリットが……」
「小さくなります。ただ、運用益が非課税なので、複利のメリット自体は残ります」
「そっちで恩恵があるのね」
その後もしばらく制度の説明を続け、
「……とまあこんな感じで、ちゃんと説明すると昼休みが軽く吹っ飛ぶんです」
「あら、もうこんな時間!」
時計を見た高坂さんが驚き、久我へ視線を向けた。
「話はよく分かったわ。明日、手続きをお願いするわね」
「承知しました」
久我は営業スマイルで、ぺこりと頭を下げる。
「でも次からは、聞かれる前にちゃんと説明しなさい」
それでも笑顔は崩さない。
「もちろん。お客様のご満足が最優先です」
「今それ言える!?」
「もちろん。銀行員ですので」
「お前メンタル鋼すぎだろ、久我……」




