第11話 その投信、本当にお客様のためですか?
高坂さんの一件も片付き、職場に戻ろうとしたところ、
「……鷹城さん」
白鳥の声に足が止まった。見ると、彼女は神妙な顔をしている。
「どうしたんだ?」
「いえ……その……」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
「鷹城さんの様子……少し変でした」
「変……?」
「いつもと雰囲気が違うというか、銀行の話になった途端……」
少し迷った末に、白鳥が言った。
「……どこか辛そうでした」
「……え?」
すると高坂さんも、難しい顔で頷く。
「営業の裏事情に詳しすぎるし、それを暴露するあんたからは、なんていうか恨みがこもってた」
「恨み……」
二人の言葉に、自分がまだ過去を吹っ切れていない事実に初めて気づかされた。
「鷹城さん」
「……なんだ」
「久我さんに対する接し方、ただの知り合いではなさそうですね」
「…………」
コイツはたまに鋭いというか、人のことをよく見ている。そして久我が、いつもの爽やかな営業スマイルで口を開いた。
「鷹城さんは以前、僕と同じ部署でした」
白鳥が目を瞬かせる。
「同じ部署……って、リテール営業部」
「ええ」
久我は小さく肩をすくめた。
「誰よりもお客様本位……でした」
「おい、久我!」
「だからこそ……いえ……失礼」
「鷹城さん……」
白鳥がゆっくり俺を見る。
「普段の行動で分かります。鷹城さんはお客様にあった商品をしっかり勧められる人だってことを。てもどうして銀行をやめちゃったんですか?」
「それは……」
昔の空気が、脳裏をよぎる。
朝礼
支店のロビー
ノルマ
営業スマイル
配属初日の俺は本気で信じていた。金融知識で誰かの役に立てることを。
本当に必要な商品を提案して、
お客様の不安を少しでも減らして、
人生を安心して暮らせるようにできると。
そんな銀行員になれると……本当に思っていた。
だが、現実は違った。
◇
本社勤務への登竜門とも言われる支店リテール営業部。
その初日。
朝礼の空気は、俺の想像していた銀行とはまるで違っていた。
窓口、後方事務、渉外補助。
現場経験は一通り積んできた。忙しくはあったが、銀行という組織に堅実な印象を持っていた。
だが――この部署は違った。
銀行に抱いていたイメージが、開始五分で音を立てて崩れ始める。
会議室の壁に貼られた営業ランキング。
投信販売額
保険手数料
ラップ純増
資産形成口座獲得件数
達成率と順位が、行員の名前と共に赤裸々に並んでいる。
まるで絵に描いたようなブラック企業。違うのは、怒鳴り声が飛ばないことだけ。
静かな会議室
上品なスーツ
エリート意識に包まれた空気
そのランキング表の前に立つ男が、ゆっくりと口を開いた。
リテール営業部長・鬼塚。
四十代半ば。
笑っているのは口元だけ。
「未達が多いな」
低い声が、会議室に落ちる。
誰も返事をしない。
鬼塚部長がランキング表を指先で叩く。
「コンプライアンス順守は大前提。お客様本位も当然のこと」
一拍。
視線が、部屋全体をゆっくり舐める。
「だが、それは言い訳にならん」
空気がわずかに張り詰めた。
「数字を作る方法は自分の頭で考えろ。結果だけを持ってこい」
別に怒鳴っているわけじゃない。
なのに、会議室の温度が数度下がった気がした。
何人かの行員が、無言で目を伏せる。
隣の先輩が俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「歓迎するよ、新人くん」
乾いた笑み。
「ここじゃ数字が正義だ」
俺は愛想笑いで返した。
銀行も営利企業。こういう部署もあるんだろう。
……この時は、まだそう思っていた。
だが数年後。
俺は、顧客のライフプランより先に月末の営業成績を考える銀行員になりかけていた。
年金相談を見ると、まず投信残高を思い浮かべる。
退職金の話を聞けば、変額保険とラップの提案余地を考える。
営業スマイルは、いつの間にか呼吸みたいに自然になっていた。
そのことに気づいた頃には、本当にお客様のために働いているのか、数字のために働いてはいないか──
──自分でも分からなくなっていた。
◇
ある日の朝礼。
会議室の空気は相変わらず重い。
壁のランキング表がまた更新されている。
投信販売額
保険手数料
ラップ純増
新NISA獲得数。
赤字で表示される月次順位。
トップにある名前は今月も変わらない。
――久我信一郎。
同期入社。営業成績トップ常連。
窓口時代から仕事は正確で顧客対応もとても丁寧。残業も無駄口も少なく、感情を表に出さずに淡々と数字を積み上げていく。
まるで銀行のパンフレットから抜け出て来たような男だった。
一方、俺は下位グループに沈んでいた。
投信未達。保険未達。ラップ未達。
未達、未達、未達。
見慣れた文字が胃をじわりと重くさせる。
「……さて」
鬼塚部長の目が俺の方を向く。嫌な予感。
「鷹城」
「はい」
「どうして数字が上がらない?」
静かな声だった。
怒鳴り声より、よほど逃げ場がない。
「こ……今月は相場急落もあって、お客様も慎重になってまして」
「なるほどな」
鬼塚部長が頷く。
理解を示したように見えて、だが次の一言でバッサリ切り捨てる。
「それは面白い。キミの担当顧客だけ相場が急落したのかな?」
「それは……」
部長の指がランキング表の最上段を叩く。
「久我は積んでいる」
会議室の視線が、一斉に久我へ向いた。
当の本人は、無表情のまま資料に目を落としている。
まるで自分の話ではないみたいに。
「鷹城。君なりに分析はしているのか?」
「はい……提案タイミングの改善は必要だと思っています」
「なるほど」
鬼塚部長は頷く。
だが、口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「では聞こう。まずは投信」
一拍。
「アポ件数は?」
「今月は64件です」
「成約率は?」
「20%……長期保有向きのファンドの成約が多く」
「なるほど」
鬼塚部長は頷く。
「では収益額は?」
「……」
「私は販売本数を聞いているんじゃない」
一拍。
「収益をもたらす数字を聞いている」
数字が上がらない理由を説明しようとすると、すぐに遮られて反論させてもらえない。
まるで真綿に首を絞められる感覚。
「鷹城、君は真面目だ」
鬼塚部長が、わざとらしく穏やかな声を出した。
「それは評価している」
だったら終わらせてくれ。
「だから私も不思議なんだ」
会議室が静まり返る。
「真面目にやってる。努力もしている。アポも取っている。ではなぜ数字にならない?」
逃げ道のない問いだった。
「私は君を責めてるんじゃない。ただ原因を知りたいだけなんだ」
答えれば傷が深くなる。
「何か改善点があるということだろ?」
黙れば認めたことになる。
「……改善します」
ようやく絞り出した言葉に、鬼塚部長は満足そうに頷いた。
「そうか。期待してるよ」
期待。
銀行でその言葉は励ましなんかじゃない。
ちゃんと数字を積めという意味だ。
朝礼が終わる。
張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。
席に戻ろうとした時、後ろから声がした。
「気にするな鷹城」
久我だった。
ランキングトップ常連の模範的銀行員は、資料を鞄にしまいながら続ける。
「鬼塚部長は、未達の文字を見ると噛みつく癖がある」
「……トップ営業様は余裕だな」
嫌味で返す。
だが久我は表情一つ変えない。
「余裕じゃない。求められている数字をただ積んでいるだけだ」
それだけ言って久我は部屋を出ていった。
──必要な数字。
その言葉が、やけに胸に残った。
◇
その案件が回ってきたのは、月末を目前に控えた金曜の午後だった。
顧客情報の画面を開いた瞬間、隣の先輩が口笛を吹く。
「おいおい……当たり案件じゃねぇか」
退職金、2000万円。
顧客は62歳の女性。地元の製造業を定年退職したばかりだった。
住宅ローン完済
配偶者なし
投資経験、ゼロ
年金見込額は平均より少し低め
相談メモには、こう書かれてある。
『老後の資金運用について相談したい』
典型的な資産形成案件。銀行員なら誰でも目の色が変わる。
案の定、鬼塚部長の反応は早かった。
「退職金2000万か」
資料を覗き込んだ鬼塚部長が目を細める。
「当たり案件じゃないか」
その一言で、周囲の空気に緊張が走る
退職金。相続。土地売却。
まとまった資金が動く。
一気に数字をひっくり返せる案件。
こういうのをリテール営業部では、当たり案件と呼ぶ。
「鷹城、担当はキミだな」
「……はい」
「で、方針は?」
俺は手元のメモを見ながら答える。
「投資経験が乏しく、リスク許容度も高くないでしょう。まずは生活費と緊急予備費を分けた上で、運用部分は慎重に――」
「慎重に?」
鬼塚部長が、薄く笑った。
嫌な予感がする。
「具体的には?」
「NISA口座を作ってそこに積み立てを」
言い終える前に、鬼塚部長が鼻で笑った。
職場に微妙な空気が流れる。
「退職金が2000万もあるのに、積み立てを勧めるつもりなのか?」
「ですがこういったお客様はリスク許容度が低く、一度に投資すると心理的負担も大きく……」
「そういうお客様のために、ラップ口座があるんじゃないか」
「ですが年金も平均より少なく」
「だからこそ、そのお客様は運用したいんだろ? 老後資金を増やしたいんだろ?」
「ですが、それだと相場急落時に……」
鬼塚部長は腕を組む。
「鷹城。顧客ニーズを履き違えるな」
周囲の行員たちは黙って資料を見ている。
誰も助け舟を出さない。
「退職金の運用の相談に来ているお客様だ」
部長が続ける。
「運用のニーズは明確。現金で寝かせておく方が機会損失だろ。昨今のインフレのこともちゃんと説明すればいい」
「ですが、元本棄損への耐性が――」
「だから、我々銀行員が懇切丁寧に説明するんだ」
また遮られる。
静かな声なのに、逃げ場がない。
鬼塚部長が書類を指で叩く。
「ラップを勧めろ」
「ラップ……ですか」
「それが難しいなら毎月分配型。年金生活者は毎月の収入を何よりも喜ばれる」
営業部の主力商品。
手数料が高く数字を積み上げやすい商品。
「新NISAだけで終わらせるな」
鬼塚部長の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「退職金案件は、導入初月が勝負」
周囲の行員が、無言で頷いている。
反論する空気じゃない。俺は資料に視線を落とした。
62歳で投資経験なし。退職したばかり。
相談メモには、こうも書いてある。
『老後資金が足りるか不安。大きく減るのは避けたい』
その一文が、やけに目に刺さった。
「取ってこい、鷹城」
鬼塚部長が静かに言った。
「ラップでも投信でもいい。数字をな」
数字……か。




