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NISA貧乏株式会社 ~元銀行員の俺。NISA貧乏の美人経理を金融知識で救ったら、妙に懐かれた~  作者: くまひこ


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第12話 正しい提案のはず……だった

 面談当日。


 応接室に入ってきたのは、やはり普通の人だった。


 62歳。小柄な女性。


 どこにでもいる、近所のオバチャンみたいな雰囲気の人。


「今日はよろしくお願いします」


 少し緊張した笑顔で頭を下げる。


 退職金2000万円。


 だが、目の前にいるのは数字じゃない。一人の人間だった。


 まずはヒアリングから入る。


 家族構成

 年金見込額

 住居状況

 今後の主な支出予定


 聞けば聞くほど、俺の中の違和感は強くなっていった。


 投資経験ゼロ。株も投信も買ったことがない。


 趣味は旅行とガーデニング。


 家族は年老いた母親のみ……老々介護。


 そして、一番気になったのはやはり――


「正直、老後資金が足りるか不安で……」


 女性は困ったように笑った。


「テレビで老後2000万問題とか言いますでしょう?」


「ええ」


「銀行さんから声をかけていただいてセミナーに参加したんです。そこで運用のお話を聞いて、やった方がいいのかなと」


 その声には、期待より不安の方が強くにじみ出ていた。


 俺は資料を閉じる。


 もう、答えは出ていた。


「確認ですが」


 慎重に言葉を選ぶ。


「資産を大きく増やしたいというより、できるだけ安心して老後を暮らしたい、というお気持ちですか?」


「そうです!」


 即答だった。


 女性が少しほっとした顔をする。


「私、難しいことがよく分からなくて……。損をするのが怖いんです。でも預金だけだと駄目だって聞くし……」


 やっぱりそうだ。


 彼女に必要なのはラップ口座じゃない。


 毎月分配型投信でもない。


 少なくともこの人には勧められない。


「無理に一括投資する必要はありません」


 顧客が目を瞬かせる。


「……本当ですか?」


「まずは当面の生活資金、医療・介護に備えるお金を分けておきましょう」


 彼女が必死にメモを取る。そのペースに合わせてゆっくり説明を続ける。


「その上で、余ったお金を運用に回します。それも一度に全部投資する必要はありません」


「そうなんですか?」


「はい」


 俺は新NISAの資料を開く。


「例えば、低コストのインデックスファンドを使って、数年かけて積み立てる方法もあります」


「積み立て……収入もないのに今からですか?」


「相場は誰にも読めません。だからこそ購入時期を分散します」


「分散……?」


「一度にまとめて投資をすると、直後に相場が下がる可能性もあります。でも積み立てなら高値づかみのリスクを抑えやすいし、購入価格を平準化できる」


「なるほど……」


 女性がゆっくり頷く。


「それなら、少し安心かもしれません」


 その表情を見て、胸の奥にあったモヤモヤが消えていくのを感じた。


 この提案で正しい。


 売る側の都合じゃない。


 この人のこれからの人生を考えれば、答えは明らかだった。


 面談は想定以上にスムーズに進む。


 新NISA口座開設。


 インデックスファンド積立。


 投資額も控えめ。


 慣れてからもう一度相談。


 このやり方は、営業部が喜ぶ数字じゃない。


 それでも女性は納得し、ホッとした表情が印象的だった。


「ありがとうございました」


 書類を受け取りながら、女性が言った。


「無理に投資を勧められるのかと思って、少し怖かったんです」


 一瞬、言葉に詰まった。


「……いえ」


 苦笑する。


「投資は、急いで始めるものではありませんから」


 女性が頭を下げて応接室から出ていく。


 商談終了。新NISA口座を一件獲得。


 数字はゼロじゃない。


 最低限は積んだ。


 営業部のノルマ表に、小さく一行追加できる。


 そして何より――女性にとって、ちゃんと意味のある提案ができた。


 これでよかった。



         ◇



 営業部へ戻ると、鬼塚部長がデスクで書類に目を通していた。


「失礼します」


「……鷹城か」


 顔も上げないが、構わず面談結果を報告する。


 家族構成

 年金見込額

 住居状況

 今後の主な支出予定


 そして、老々介護を控えていること。リスク許容度が低いこと。


 積立提案に至った理由

 新NISAを活用したインデックス運用

 購入時期分散

 一括投資を避けた理由


 途中から必死に弁解しているみたいだなと思った。


 鬼塚部長は最後まで黙って聞いていた。


 否定もしない。遮りもしない。妙に静かだった。


 そして報告が終わると、ようやく顔を上げる。


「……分かった」


 冷淡な表情。感情が読めない。


 一瞬、怒鳴られる覚悟をしたが、鬼塚部長が確認したのは一つだけだった。


「新NISA口座は作ってもらえたんだな」


「……はい」


「そうか」


 それだけだった。


 説教もない。叱責もない。


 拍子抜けするほど淡々としている。


「分かった。もう下がっていい」


 俺は一瞬、言葉を失った。


「……はい」


 席へ戻る。妙な違和感はあったが、これで終わった。


 その時はそう思っていた。



         ◇



 それから数週間が経ったある日、営業先から戻る途中でスマホが震えた。


 見覚えのある名前。あの女性からだ。


「お世話になっております、鷹城です」


『た、鷹城さん……!』


 声を聞いた瞬間、何かが起きたのだと思った。


 息が荒く、完全に取り乱している。


『下がってるんです! すごく……! どうなってるんですか!?』


 相場急落。


 朝からニュースでも報じられていた。


 俺は歩道の端で立ち止まる。


「落ち着いてください。積み立てなら暴落時ほど口数を多く買えます。長期前提なら慌てる必要は何も――」


『違うんです!』


 遮られた。


『積み立ての方じゃないんです!』


 嫌な予感が走る。


「……積み立ての方?」


『別の担当の方に勧められて……試しにこの商品を買って見ろと』


 頭の中が真っ白になる。


 心臓が、嫌な音を立てている。


『毎月お金が受け取れる商品だから安心だって……』


 毎月……受け取れる。


 それだけで、何の商品か分かった。


 毎月分配型……しかも急落局面。


 最悪の組み合わせだった。


「……商品名、分かりますか」


 そう尋ねる俺の声は震えていた。


 電話口に女性が告げた商品名を聞いて、それが確信に変わる。


 リテール営業部の主力投信。


 ラップじゃないが、こちらも数字が積みやすい商品だ。


『銀行さんが安心だからって……』


 電話口の声が震える。


『こんな話、聞いてません……!』


 喉が乾く。


 目論見書

 適合確認書

 署名


 頭の中に、営業フローが浮かぶ。


 法令違反じゃない。好んで選ぶお客様だっている。それは分かっている。


 だが――この女性にとって本当に必要な提案だったとは思えない。


 電話を切ったあと、俺は営業部へ走った。


 鬼塚部長の席に直行する。


「部長!」


「どうした」


「例の退職金案件です」


 鬼塚部長の手が、ほんの僅かに止まった。


「別の担当者が投信を販売しましたね」


 短い沈黙。


 だが鬼塚部長は、驚くほど普通の声で答えた。


「ああ」


 認めた。あまりにもあっさりと。


「どうして……?」


「顧客ニーズがあった。何か問題でも?」


「問題でもって……」


 声が掠れた。


「投資初心者ですよ。損をするのが不安だって、ちゃんと本人から聞きました」


「リスクはちゃんと説明している」


 鬼塚部長が淡々と言う。


「適合性確認も済んでいる。本人の署名もある」


 聞き覚えのある言葉だった。


 正しい手続き。正しい銀行の回答。


「運用商品なんだから、元本保証などない」


 部長は資料から目を離さない。


「投資は自己責任。相場急落など誰にも読めん」


「……どうしてですか?」


 気づけば、そう口にしていた。


「どうして、あの人に売ったんですか!」


 鬼塚部長が、ようやくこちらを見る。


 怒りもない。


 罪悪感もない。


 ただ、不思議そうな顔だった。


「お客様に必要な商品を売る。それだけだ」


 その瞬間。


 俺の中の何かが、静かに折れた。


 怒りじゃない。絶望に近かった。


 自分が正しい提案をしたと思っていた案件。


 お客様のニーズに答えられたと思っていた案件。


 俺の知らない所で、組織は別の数字を積みに行っていた。





 その日、俺は退職届を書いた。


 不思議と手は震えなかった。



         ◇



 昼休みの社員用カフェ。


 俺の話が終わると、テーブルに重苦しい沈黙が広がっていた。


「……酷い」


 それを破ったのは白鳥の怒りに満ちた声。


「退職したばかりの初心者に、そんな投信を売りつけるなんて!」


 趣味オルカンのNISA女が、怒りに打ち震えている。


 預金絶対主義の高坂さんも腕を組んで、険しい顔で鼻を鳴らした。


「ほら見なさい! だから嫌なんだよ投資ってのは!」


 総務部の重鎮がさらに声を荒げる。


「老後が不安な女性を捕まえて、無理やり投資信託を売りつけるなんて! NISAブームか何だか知らないけど、世も末だよ!」


 そしてその視線が、ゆっくりと久我へと向いた。


 久我は黙って座っているが、いつもの営業スマイルはなく、表情が消えている。


「……あんた」


 高坂さんが目をつり上げる。


「投信を売ったのは、あんただろ!」


 空気が張り詰める。


 久我は数秒黙ったあと、小さく答えた。


「いえ、僕じゃありません」


「証拠でもあるのかい!」


 激高する高坂さんに、俺はかぶりを振った。


「多分コイツじゃありませんよ」


「どうして言い切れるんだい!」


「久我は営業トップの常連。わざわざそんなことしなくても数字は積めます。多分やったのは成績下位の誰か。鬼塚部長のプレッシャーに負けて……」


「なるほど、確かにそうかもしれないね…」


「…………」


 さすがに見ていられず、思わず久我を救う形になってしまった。


 だがコイツに罪がない訳じゃない。


 久我はこのことを知っていながら、見て見ぬふりをしていたからだ。


 重苦しい空気が場を支配する。


「やっぱり預金が一番!」


 高坂さんがテーブルを叩く。


「元本保証。減らない。平和。最高!」


「インフレで目減りしますけど?」


 すかさず白鳥がツッコむと、


「うるさいわね、このNISA女!」


「誰がNISA女ですっ! 預金モンスター!」


「言ったわね、青春損切り女!」


「むかーーーっ!」


 どうやらこの二人は水と油らしく、ついに取っ組み合いのケンカになった。


 高坂さんに逆らう奴を初めて見たが、どうやらNISAバーサーカーには恐いものはないらしい。


 そんな二人を止めるため、この救いようのない空気を追い払うことにした。


「高坂さん、白鳥」


 二人がこちらを見る。


「すべての銀行員が、あんな営業をしているわけではありません」


 久我が驚いて、俺を見つめる。


「大半の行員は真面目に働いてます。フィデューシャル・デューティーを掲げて」


「……なんですかそれ?」


「顧客本位の営業だよ、白鳥」


「横文字禁止。最初からそう言いなさい」


 怒られた。


 さすが総務部のお局様、恐い。


「今から思えば内部告発などやり様はあったかもしれないけど、あの時はそこまで頭が回らなかった」


 そう言って肩をすくめる。


「あんたのような人間でもかい」


「ええ。そう言う職場だと思い込まされていた……今から考えればそんな気がします。それにあの男のことですから、証拠は何も残してなかったでしょうね」


 すると久我も、静かに頭を下げた。


「……本当にすみませんでした」


 白鳥が目を丸くする。


 高坂さんも一瞬固まった。


 久我が謝る。


「……何に対して謝ってるんだい?」


 高坂さんが眉をひそめる。


 久我は少しだけ視線を落とした。


「止められなかったことに、です」


 静かな声だった。


「僕も当時は、『仕方ない』と思ってました」


 誰も口を挟まない。


「数字は正義。商品は売って当然。適合性確認と署名があれば問題なし……そういう感覚に慣らされてました」


 久我が苦く笑う。


「今思えば、かなりの職業病ですね」


「職業病で済ませるんじゃないよ! 一人の人生かかってんだ!」


 その一言で、テーブルが静まる。


 久我は反論しなかった。


「……はい。その通りです」


 素直に認める。


 高坂さんがじっと久我を見る。


 数秒。


 長い沈黙。


「……ふん」


 ようやく腕組みを解いて久我に向き直る。


「明日、私のiDeCoの書類をちゃんと持って来るんだよ」


 久我が一瞬、目を瞬かせる。


「……許していただけるのですか?」


「少なくともアンタは信じられる。明日、ちゃんと説明しなさい」


「ありがとうございます。もちろんです」


 高坂さんが胸を張る。


「投資なんかしない。iDeCoで定期預金。元本保証。これが大人の堅実運用さ!」


 白鳥が吹き出した。


「高坂さん、それiDeCoの強みを半分くらい捨ててません?」


「うるさい、NISA女」


「この預金モンスター!」


 またケンカを始めた二人だったが、さっきまでの重苦しい空気は消えていた。


 俺と久我がホッと目を合わせたその時、


「こらぁぁぁぁぁぁっ!!」


 突然の怒声に、全員の肩がビクッと跳ねた。


 振り向くと、そこに立ってたのは──鬼。


 いや、鬼より怖い人事部長である。


「もうとっくに昼休みは終わっとるぞ!!」


 時計を見る。


 ……とっくに終わってた。


「早く持ち場に戻れぇぇぇ!!」


「「「ひゃいいいいっ!!」」」


 白鳥が慌てて逃走。


 高坂さんも書類を握りしめて逃走。


 さすがのお局さんも、泣く子と人事には勝てないらしい。


 久我が無言で一礼すると、俺たち全員、雲の子を散らすように退散した。


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