第6話 悲報!オルカン死亡……中東戦争勃発
「終わったああああああっ!!」
月曜の朝。
営業部の絶叫がフロア全体に響き渡った。
まだ始業前だというのに、オフィスは異様な空気に包まれている。
いつもならコーヒー片手に雑談している連中まで、スマホとにらめっこ。
「NYダウ暴落。NASDAQもS&P500も全部終わってる……」
「シカゴの日経平均先物もとんでもないことに……」
「うそだろ……まだ下を試しに行くのかよ!」
「中東戦争ヤバすぎだって……」
「原油も爆上がりだし、為替もやべえ……」
「ていうかここで為替介入とか空気読めなさ過ぎ……財務省のあほー!」
デスクのあちこちから悲鳴が飛び交う。
ここ最近、中東情勢が急激に悪化しており、改善の兆しが全く見えない。
連日の空爆報道。
原油価格高騰。
世界同時株安。
当然――オルカンも真っ赤である。
「俺のS&P500がぁぁぁぁぁ!!」
軽井沢レンも、自席で頭を抱えていた。
証券アプリを見つめる顔は、既に世紀末。
「マイナス15万ってなんなんだよ! 先月まで普通にプラスだったじゃん!!」
「……軽井沢さん、鷹城さんに言われて積み立てにしたんじゃなかったんすか?」
「……いや、つい調子に乗って120万全部入れちまった」
「あーあ、だから鷹城さんの言うこと聞いとけばよかったのに」
「今さらおせえよ!」
「……軽井沢さん、俺のNASDAQ-100なんか、マイナスが20万を超えました……ううう」
「マジかよ……お前」
「俺もう耐えられないっす! 損切りした方がいいっすかね?」
「俺もNISAデビューするんじゃなかった…」
阿鼻叫喚。
地獄絵図。
たぶん今この瞬間、日本中のNISA民が同じ顔をしているはず。
いや――違った。
「随分安くなりましたね!」
その中で、一人だけ楽しそうな声。
経理部、白鳥美月(24)。
彼女もスマホを見つめながら、静かにほくそ笑んでいた。
「鷹城さん。オルカン安くなってます!」
「暴落だからな。そりゃ安くなるよ」
営業部とまるで真逆の反応を見せる白鳥に、経理部の女子社員たちが首を傾げる。
しかし白鳥は全く空気を読まず、
「同じ5万円の積み立てなのに、先月よりたくさん買えました。バーゲンセールです!」
「「「この子、暴落を喜んでる!」」」
白目を剥く女子社員たちを押しのけ、経理部にやってきた軽井沢。
「鷹城さん!」
そして半泣きで俺に縋りついた。
「助けてください! 俺の資産が毎日どんどん溶けてるんです!」
「落ち着け、軽井沢」
「これが落ち着いていられますか! 第三次世界大戦が今にも始まりそうなんすよ!」
「何を大袈裟な……」
「だってニュース番組の専門家が、第三次世界大戦の危機だって言ってたし!」
「専門家は危機って言うのが仕事。その方がニュースの視聴率だって上がるし、次もスタジオに呼んでもらえるからな」
「スタジオに呼んでもらえるって……それってまさかPV稼ぎ?」
「そこまで言わんが、専門家は最悪シナリオを言っとけば外れても怒られないし、番組としても責任回避ができる。持ちつ持たれつの関係ってやつさ」
「うわ……出たよ、元銀行員の発想」
軽井沢が白目でドン引きしているが、実際マーケットが荒れているのも事実。
日経平均株価は連日の急落。直近高値から20%ほど下落している。
米株も全滅。
SNSでは『NISA民死亡』がトレンド入り。
いつもの暴落祭りである。
「でも実際どうなんすか……?」
チャラ男後輩の一人が不安そうに俺に聞いてくる。
「このまま下がり続けたらどうしましょう」
「下がり続けるかもしれんな。第一次オイルショックの二の舞かも知れんし、ついこの前までは失われた30年の真っ只中」
「ひいいいっ!」
「でも数か月で戻るかも知れんし、未来なんて誰にも分からん」
「そんな無責任な……」
空気がさらに淀んでいくが、俺は軽く肩をすくめてこう言った。
「まあでも、この暴落もそこまで悪い話ではない」
「はあ?」
軽井沢が固まる。
「白鳥の笑顔を見てみろよ。積み立て民にとっては、ただのバーゲンセールだからな」
そんな俺の言葉に、白鳥がキラキラと目を輝かせる。
「鷹城さん!」
「なんだ?」
「今月、積立額を増やそうかな?」
「調子に乗るな」
「でも今は絶好の買い場なんですよ。オルカンが大安売りなんです!」
「スーパーの特売品みたいに言うな」
「だって鷹城さんも今バーゲンセールって」
「もっと凄いバーゲンが始まるかもよ」
「これより凄いバーゲンセールって!」
「いいか白鳥、『落ちてくるナイフはつかむな』という株格言がある。積み立て民は相場に一喜一憂しないのが鉄則」
「なるほど……では口数の増加だけをジックリ眺めていることにします。こちらは常に右肩上がりですからね。ウフフフ……」
白鳥が怪しい笑みを浮かべると、社員全員ドン引きした。
「この人、暴落を心から楽しんでる……」
「さすがNISAガチ勢……」
「NISA女改め、NISAバーサーカーを襲名」
「誰がバーサーカーですかっ!」
怒った白鳥が頬を膨らませるが、その隣では軽井沢が死んだ魚のような目で、スマホを俺に向けてきた。
「落ちるナイフ、思いっきり掴んじゃいました……トホホホ」
「お前、まさか下落局面で買ったのか!」
「先週『底打ちした!』と勝手に判断して、追加投資しちゃいました……」
「何やってんだよ、お前……」
「買えば買うほど暴落していき、ついには120万円全部つぎ込んでしまって……」
「そんなお前に、ピッタリの株格言がある」
「……聞きたくないけど、どんな?」
「下手なナンピン、スカンピン」
「聞くんじゃなかったああああ!」
◇
昼休みの社員食堂。
チャラ男軍団に囲まれた俺は、今後の対策について相談を受けていた。
暴落の歴史をまとめた資料をテーブルに広げ、コーヒーを飲みながら淡々と説明する。
『第一次オイルショック:回復まで約5年』
『リーマンショック:回復まで約7年』
『バブル崩壊:回復まで約34年』
最後の数字を見て、軽井沢が叫んだ。
「34年って何!? そんなの待ってたら老後が来ちゃうじゃん!」
「まさにそう。株価は必ず戻るって言う人もいるけど、問題は『いつ戻るか』だ」
「いつ戻るか……確かに!」
「数か月なら耐えられるが、34年なら人生設計が狂う。だから株は余裕資金でやれと」
周囲で聞き耳を立てていた他の社員も、真剣な表情でメモを取る。
「でもオルカンって、長期投資なら安全って聞いたぜ」
「別に安全じゃないよ」
俺は即答する。
「特にオルカンには『株価変動リスク』の他に『為替変動リスク』もあって、これまでは円安方向に振れていたから儲かり易くなってただけ」
「為替変動リスク?」
「ここから円高トレンドになれば、株価が上昇してもドル安と相殺してさえない動きになるだろうし、そもそも安全な投資なんてこの世に存在しないよ」
その一言で、みんな沈黙する。
「さて暴落の話に戻るが、これにはいくつかの種類がある」
俺は資料を指差しながら説明を続ける。
「コロナショックみたいに、たった数か月で元に戻る暴落もあれば、バブル崩壊みたいに国そのものの成長が止まってしまう危険な暴落もある」
「恐っ……!」
軽井沢が青ざめる。
「じゃ、じゃあ今回の暴落は……」
「暴落の途中なので、まだ分からん」
「そんな……」
NISAは放置してれば勝てる。
そんな空気がどこかあったが、現実はそんなに甘くない。世界情勢一つで、資産なんか簡単に吹き飛ぶのだ。
「じゃあ……」
白鳥が、おそるおそる口を開いた。
「つみたて投資も危険なんですか?」
「もちろん安全ではない」
「じゃあどうすれば」
「一つの商品に全財産を突っ込むな。株、債券、金など異なる動きをする複数の資産に分散投資をしろ」
俺は真っ直ぐ白鳥を見る。
「その大前提として、暴落しても生活できる額で続けること」
白鳥の表情が少し引き締まった。
「例えば、失業した時」
「はい」
「大怪我や病気になった時」
「……はい」
「そういう時に生活費まで投資に回していた奴は、市場から即退場となる」
軽井沢が「ひっ!」と声を漏らす。
「だからまずは生活防衛資金」
「生活防衛資金?」
「最低でも生活費半年分。できれば一年分」
周囲の社員たちも真剣にメモを取る。
「その資金を確保した上で、余裕資金だけを投資に回す」
「余裕資金……」
「暴落しても平気で眠れる金額。それが自分のリスク許容度だ」
白鳥が静かに頷くが、
「無理無理無理!!」
軽井沢は頭を抱えた。
「もうマイナス15万っすよ!? 俺もう耐えらんない!」
「だから一括で突っ込むなって言っただろ!」
「もう売った方がいいんすかね……」
「うーん……軽井沢の場合、120万で▲15万。まだ10数%しかやられてないし、相場の下落率もピークから20%ほど。損切りルールには抵触してないな」
「損切りルール?」
「投資の損失を限定するためのルール。個別銘柄なら▲10%程度で切る人も多いが、インデックス投資は別。暴落してもいずれ戻る前提で持つ戦略だからだ」
「個別銘柄と何が違うんだ?」
「倒産でゼロになったりしないし底値で張り付いて微動だにしなくなることもない。20%程度の下落なら比較的早く戻るケースも多い」
「こんなに下がってるのに、すぐ戻るの?」
「資料をよく見てみろ。30%程度の暴落なら数か月で戻ってるだろ」
「え……?」
「1980年代のブラックマンデー、2020年代のコロナショック、トランプ関税」
「……あ、ホントだ」
「一方、40%を超える下落率なら数年は回復しない。1970年代の第一次オイルショック、1990年代のアジア通貨危機、2000年代のITバブル崩壊とリーマンショックがそれ」
「どれも超有名じゃん!」
「そして下落率が80%を超えたのが1989年のバブル崩壊。失われた30年の象徴。株価回復までにかかった期間は、絶望の34年だ」
「ひいいいいっ!」
「つまり、今回の暴落も30%程度に収まれば急回復の可能性もあるし、40%を超えれば第一次オイルショックの二の舞もあり得る」
「なるほど……今はまだ暴落の途中だから、見極めが大事ってことか」
「そういうこと」
「でもさぁ……」
軽井沢レンが、ぐったりした顔でスマホを見つめる。
「暴落で耐えれる人っていなくないすか?」
「ああ。初心者はたいていここで脱落する」
俺は即答した。
「実際、暴落時はみんな『世界が終わった』みたいな空気になる」
「今がまさにそれ!」
「だが――」
俺はコーヒーを一口飲んで続ける。
「暴落で慌てて売った奴は、その後の急回復の恩恵を受けられない」
白鳥が、はっとした顔をする。
「急回復の恩恵……?」
「株価って何年もかけてダラダラ戻るんじゃない。暴落の後に来る、ほんの数日の急騰局面。そこで何年分ものリターンを叩き出す」
「何年分ものリターン!?」
「それが『稲妻が輝く瞬間』だ」
「稲妻が輝く瞬間……!」
全員、息を飲む。
「その瞬間を逃さないため、市場に居続けることこそが投資の必勝法なんだ」
ゴクリっ……!
「例えばコロナショック」
俺は、2020年頃の日経平均株価のチャートを指差した。
「不要不急の外出禁止。店は閉まり、飛行機も飛ばず、世紀末のような雰囲気だった」
「何年も自粛してたような気がします……」
白鳥も真剣に頷く。
「でも株価は、たった数か月で元に戻った」
「そんなに早かったんですか!?」
「市場は、現実より先に未来を織り込む」
軽井沢がぽかんとする。
「あの時パンデミックに恐怖して手放した奴らは、直後の反発相場に乗れなかった」
「反発相場……」
俺が指さした怒涛の株価上昇局面に、全員固唾を飲んだ。
「もちろん、絶対に戻る保証なんてどこにもない」
「うっ……」
「だから余裕資金でやれっていう話だ。そして市場に居続けること」
軽井沢が、ぐぬぬと唸る。
「投資って、思ったよりメンタルゲーっすね」
「むしろそこが本体と言っていい」
「……」
沈黙する軽井沢の隣で、白鳥は静かに自分のスマホを見つめていた。
証券アプリ。
先月より大きく減った資産額。
寂しくなった含み益。
少し前の彼女なら、それだけで眠れない夜を過ごしていたかもしれない。
だが――今は。
「……なんだか」
白鳥が、小さく呟いた。
「前より怖くないです」
俺は少し驚いて、彼女を見る。
「そうか」
「長期戦だって分かっているので」
白鳥は画面を見つめたまま言った。
「前は、金額が減った=投資に失敗したって思ってました」
「うん」
「でも今は『長い人生のゴールで振り返るとこういう時期もあったなあ』って後で思えるんですよね」
その言葉に、軽井沢が「おお……」と感動している。
「白鳥ちゃんが老練の投資家に見える……」
「元々、筋金入りのNISA女だからな。素質が違うよ」
「誰がNISA女ですかっ!」
白鳥が頬を膨らませる。
「悪りぃ、NISAバーサーカーの間違いか」
「余計にひどいですっ!」
社員食堂が笑いに包まれる。
そこにはもう、暴落に引きつる投資初心者の悲壮な空気はどこにもなかった。
不安が消えたわけじゃない。
ただ――不安と付き合う方法を、少し覚え始めたのだ。




