第20話 恋も老後も、金融工学では何も解けなかった
その夜、駅前の居酒屋。恒例となった打ち上げが開催された。
今回の参加者は俺と橘主任、高坂さん、軽井沢、真壁課長の5人。
白鳥は珍しく資料整理で残業。久我も顧客対応か何かで、今日は大人しく銀行へ帰還。
「というわけで」
橘主任がジョッキを持ち上げる。
「今回の勝者は久我くんでした。乾杯~!」
「「「乾杯~!」」」
「でも納得いかねぇ!」
軽井沢がジョッキを置いた。
「どう考えても、鷹城さんの方が理屈が通ってたでしょ!」
リターン重視派の軽井沢がそう言うと、理論派の真壁課長もそれに頷いた。
「少なくとも、年金を割引現在価値で評価する話は、とても斬新だったわ」
「ですよね!」
軽井沢が嬉しそうに食いつく。
「なのにどうして、負けなんすか!」
全員の視線が俺に集まる。
俺はビールをグイッと流し込むと、
「負けた自分が言うのもなんだが、人間は合理性だけで生きてるわけじゃないからな」
「それにしても……」
「例えば宝くじ」
「宝くじ?」
「還元率は驚異の45%。公営ギャンブルの中でもおよそ最悪。それに比べて競馬や競艇は還元率が70〜80%はあるからまだ良心的」
「そんなに低いんすか……」
「それなのに、買う人はたくさんいるだろ」
「駅前でよく行列を見かけますね」
「しかも、宝くじを買う人のことを誰もギャンブラーとは言わない。こんなにハイリスクな博打なのに、社会に受け入れられている」
「競馬や競艇はギャンブル扱いなのに、どうして!?」
「私も好きだよ、宝くじ」
「高坂さん?」
投資嫌いの高坂さんが、実は宝くじ好きだったことが判明。
「だって夢があるだろ。当たれば10億、人生変わるんだから」
「コツコツ預金派で、投資はギャンブルだと嫌ってる高坂さんらしくないじゃん」
「いいんだよ。宝くじは庶民のささやかな夢なんだからさ」
軽井沢は納得いかないようだが、高坂さんのような考え方がむしろ一般的。
「つまりそう言うこと。期待リターンに直すと▲55%の宝くじなんか普通は見向きもされないはずなのに、実際には行列ができるほどの大人気。何でも数理計算で白黒はっきりさせる人の方が少ないってことさ」
「保険もそうね」
真壁課長が補足する。
「期待リターンだけ見るとマイナスの商品ばかり。でもみんな入ってる」
「何でか分かるか軽井沢」
俺が尋ねると、軽井沢はまだピンと来ていない様子。
「何で?」
「安心が欲しいからだ」
「それって、久我さんが言ってた……」
「これまで2回とも同じ構図。俺が売ったのは期待リターン。久我が売ったのは安心だ」
「もし私が参加者なら、久我くんに票を入れたわね」
そう、高坂さんが断言。
「マジで?」
軽井沢が驚く。
「だって恐いじゃない」
即答だった。
「恐い?」
「障害年金が消えるとか」
「でも確率は3%だって」
「その3%が自分に降りかかって来たらどうするんだい。それに老後は働かないって宣言したって、本当にお金が足りなくなったら働くしかないだろ」
「うーん、それはそうだけど……」
「鷹城くんの話は分かるわよ。でもね。」
高坂さんが笑った。
「たとえ確率が低くても、人生何が起こるか分からないし、普通の人は老後に不安を抱えたくないんだよ」
沈黙。
「387万円得する可能性より、想定外の問題で損する可能性を消したい。それが人間」
「損する可能性を消したい……か」
真壁課長が腕を組む。
「数学的には鷹城くんが正しいかもしれないけど、投票の結果は真逆になった。つまり、第1回のように投資がテーマだと期待リターンに分があって、今回みたいに年金がテーマになった途端、安心が上回る」
「でもどうして安心が勝っちゃうんだろ」
「行動経済学の『プロスペクト理論』よ」
「プロスペ……何それ」
「利益よりも損失を避けたいという行動原理のこと。人間にはこういった数学的ではない部分があるから、期待値との間に常にギャップが生じて、保険業や銀行業が収益をあげ続けることができる」
真壁課長は続ける。
「そもそもの話。鷹城くんは理屈が通っていたかも知れないけど、そこまでお金の管理をしっかりできる高齢者はほとんどいない。障害年金を『オプション商品』だと理解できる人なんてまずいないし、割引現在価値を最大化させながら老後を送るなんて、普通なら頭がおかしくなっちゃうから」
「確かにそうかも……」
「ギリギリまで節税して老後を暮らすなんて面倒だし、そんなことより残りの余生をのんびり暮らしたいって普通は考える。だからラップ口座のような手数料の高い金融サービスがちゃんと選ばれて、人気なのよ」
「でもこれは金融バトルで、1円でもリターンが高い方が……」
「それは違うわ。この金融三番勝負はリターン勝負ではなく営業対決。つまり人気投票。若手はほとんど鷹城くんに票を入れたけど、大多数を占める年配社員の人気は久我くんに集中した。つまりそういうことよ」
「じゃあ真壁課長も久我さんに?」
「うーん、微妙なところね。私はシステム屋だし金融工学的な考え方が好きだから、あそこまで徹底的じゃないけど合理化は図ると思うわ」
「じゃあ鷹城さんは、俺と真壁課長の2票だな。そうだ、橘主任は?」
軽井沢が話をふると彼女は、
「私も鷹城くんかな」
「おおっ、これで3対1!」
「私はそういった制度に詳しいし、自分の老後は節税とかしちゃってると思う」
「さすが人事部、福利厚生と労務のプロ!」
「だから純粋に鷹城くんを見直したし、是非とも人事部に欲しい人材ね」
「結局それかよ!」
みんなの結論が出たところで、俺が締めくくる。
「老後のお金関係を自分でやるのはしんどいけど、AIに任せれば実はそうでもない」
「AI……!」
「AI革命はまだ始まったばかり。近い将来にAIをエージェントとして各種手続きを代行させられるようになれば、全部AIに任せればいいだけさ」
「なるほど!」
「老後デリバティブ戦略はそれこそAIの得意分野だし、ラップ担当者と違って利益相反行為を心配する必要もない。銀行営業こそ、AIに真っ先に駆逐される職業だよ」
「AIに駆逐される……」
「少なくとも、手数料だけで飯を食ってる銀行員は危ないな。証券会社やライバル行との顧客獲得競争なんかより、AIとの差別化を図ることの方が急務だと思うよ」
◇
お開きになったのは20時過ぎ。駅前の居酒屋を出ると、夜風が少し心地いい。
「じゃあまた明日ね」
「お疲れさまでしたー!」
みんなと別れ、俺は一人駅へと向かった。
飲み会ではああ言ったものの、今日の敗北は正直悔しい。
理屈で勝ったと思ったが、結果は42対58。
「安心を売るか……」
俺も元銀行員。人は合理性だけで生きていないのは理解できている。
理解できるが――納得はいかない。
そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。
「あれ?」
見覚えのある後ろ姿が視界に入る。
白いブラウス。
美しく整った長い黒髪。
「白鳥……?」
思わず立ち止まった。
今日は残業していたはずなのに、その隣にいる人物を見て俺は固まる。
「久我……」
第一中央銀行のエース営業。
久我信一郎。
二人は並んで歩いていた。
――とても楽しそうに。
白鳥が何かを話し、久我が笑う。
久我が何かを返し、白鳥も笑う。
今まで、俺にしか見せたことのない表情。
それを今、久我に見せている。
「いつの間に……」
二人はいつからこんな関係に。
そんな兆候はあったか?
前回の打ち上げ……その後二人が急接近。
でもどうして……?
それ以上は、俺の脳が処理を拒否した。
「いや待て。落ち着け……たまたまだ」
たまたま帰りが一緒になっただけ。
そうだ、きっとそうに違いない。
だが二人は駅とは違う方向へ歩いていく。
「…………」
気付けば、俺の足は勝手に二人を追いかけていた。
一定の距離を保ちながら後を追う。
別に尾行じゃない。
偶然同じ方向に歩いているだけ。
自分にそう言い聞かせて後を付いていく。
やがて二人は繁華街の一角で足を止めた。ショーウィンドウの明かりが夜道を照らしている。
そして俺は看板を見て凍りつく。
宝石店。
「……は?」
心臓が嫌な音を立てる。
まさか。
いやいやいや。
そんなわけがない。
だが二人は躊躇なく店内へ入っていった。
ドアが閉まる。
俺だけが外に取り残された。
「まさか……」
頭の中で嫌な想像が暴走する。
二人は付き合ってる?
いつから?
ていうか今日の打ち上げを休んだ理由って――仕事じゃなかったのか?
白鳥はウソをついたのか。
待て、まだそうと決まったわけじゃない。
だが、もし本当にそうだったら?
「…………」
店に入れば分かる。
直接聞いて確かめればいい。
だが足が動かなかった。
ショーウィンドウ越しに見える二人の姿。
白鳥が何かを見ている。
久我が隣で何かを話している。
楽しそうだった。
それ以上は見たくなかった。
「帰るか……」
自分でも驚くほど小さな声だった。
俺は踵を返す。
夜道を一人で歩く。
駅へ向かう足取りが重い。
別に白鳥が誰と付き合おうが、俺には関係ない。
同僚。
ただの同僚だ。
なのに……なぜだろう。
胸が痛い。
「……何やってんだ、俺」
誰もいない夜道で呟く。
もちろん答える者はいない。
先ほどまで感じていた夜風の心地よさは、もうどこにもなかった。




