幽玄からの誘い③
ハイリーには秘密がある。
それは、もともと清朝時代の上海で暮らしていたはずなのに、ある日、ふとした瞬間になぜか現代の香港に転移していたこと。
このことは居候で置いてくれているラムにも、従業員仲間にも誰にも言っていない。
香港に転移してからしばらく経つが、転移した理由もわからなければ、清朝時代に戻る術もいまだにわからないままであった。
それが、ロウの一言によって手掛かりが入る可能性が出てきたのだ。
テレビでは警察とはぐれ者の攻防が続いている見どころのシーンで、シュエガオが戻ってきたら今回のドラマ内容を伝えてあげるつもりだったけれど、次々と湧いて出てくる考え事に思考がすべて奪われ、ドラマを見ていても内容が少しも頭に入ってこない。
と、その時。
考え込んでいるハイリーの頬に、突然冷たいものが触れた。
ハイリーは驚いて後ろを振り返ると、背後には冷えたラムネを両手に持ったラムが立っていた。
「何をそんなに考え込んでるんだ?何度も呼んでるのにまったく聞こえちゃいねぇ」
ラムはラムネを一本ハイリーへ渡すと、もう一本のラムネをラッパ飲みする。
その飲みっぷりに、ハイリーは喉がチクチクと痛む感覚を思い出し、思わず眉をひそめた。
「寝ていたのではないの?それとも、起こしてしまったかしら」
「いや、シュエガオのヤツの声がでかくてな……」
そう言われてみれば、”カンフー”の話をしていた時のシュエガオは確かに興奮気味であった。手足を動かして敵と戦う真似事までして見せてくれたことが記憶に新しい。
しかし、同時にあんな小さな子に野蛮な格闘を教え込んだラムへの怒りも蘇る。
「そういえばシュエガオに護身術を教えたんですって?まだ小さいのに軽々しく教えてあまりにも危険だわ。もし勇み足で危険な人間に手を出してしまったらどうするの?いつもあなたが傍にいるとも限らないじゃない」
「ここが危険だからこそ教えたんだ。生き残るためには生き残る術を多く知っていても損はねぇ。まあ、心配するな、シュエガオは思った以上にたくましいヤツさ」
「そうは言っても、本当に万が一にもシュエガオが怪我でもしたらどうするの?あなたの目の下にある傷だって、下手したら失明していたかもしれない危険な場所よ。何をどうしたらそんなところに傷ができるのかしらね?野蛮で危険極まりないわ」
「この傷か」
ラムは自分の右目の下にある傷を触りながら少し笑った。
「……その傷、何か曰くつきなの?さっきシュエガオにも例えでその傷のことを話したら、急に落ち込んでしまったようなのだけど」
「この傷の話をしたのか?シュエガオに?そりゃあ、落ち込むかもな」
ラムはそう答えたものの、言葉の意味とは裏腹に顔はまだ笑っていた。
「傷の話でシュエガオが落ち込む?どういうこと?」
「いや、大したことじゃねぇよ」
ラムは相変わらず笑うだけで答える気はないらしく、ラムネを飲みながらテレビを見続ける。
ハイリーはラムの言葉の通り、いつか話してくれるのを待つしかないと仕方なく諦めて、ラムから受け取ったラムネを一口くちに含んだ。
「フフ。二人の秘密なのね。今日はなんて秘密が多い日なのかしら」
「秘密が多い?何かあったのか?そういえばシュエガオがいねぇな」
「さっきシュエガオの友達のユンって子が訪ねてきて、一緒に遊びに行ったわ」
「ああ、ユンか。あいつと話したのか?」
「それが、彼、どこか怯えているというか、私とは話したがらない感じで。シュエガオが私に紹介している途中でも、ユンに会話を遮られてしまったのよ。きっと子供同士の秘密なのだわ」
ハイリーのその言葉を聞いたラムは再び小さく笑った。
「いやいや、ユンはああいう奴なんだよ。香港のユングループって聞いたことあるだろ?ユンはそのグループを経営している財閥の息子なんだよ」
現代情報に疎いハイリーでも、ユングループはさすがに耳にしたことがあった。というのも、ハイリーの好きな時代劇を見ている時にもCMで流れているのを何回も見たことがあったからだ。
デパートやホテル、劇場、旅行会社など、今思えば多数のCMでユングループと表示されていたことを思い出す。
なるほど、道理でユンの身なりがきれいだったことに合点がいった。
「嘘でしょう?どうしてそんな子が?」
「ユンにも家庭の事情があるのさ。シュエガオに聞いた話だと、親はもちろん兄弟、親戚も常に収益やビジネスのことばかりであまりユンに構ってくれず、ユンに近づいてくる人間は金やコネで両親に取り入ろうとするヤツらばかり。それが原因で大人嫌いになったって話だ。だから俺たち大人とはそうまともに喋ってくれねぇんだよ。可愛い奴だろ?」
お金や見栄ばかりにこだわる家族だなんて、まるで自分と同じ身の上話を聞いているようだと、ハイリーは思った。
身に着けた翡翠の腕輪、ユンという同姓、さらに境遇まで似ているのはとても奇妙ではあったけれど、なおさら自分の事のように思え、ユンにとても親近感と、同時に同情感も湧いた。
「人間不信にもなるわよね。でも、だからってこんな……」
ハイリーはそこまで言いかけてハッとした。
"こんな汚くて危ないところ"と言いそうになったのを、寸前で言葉を飲み込む。
ここでたくましく生きている住人の一人でもあるラム本人を目の前にしてこんなことを言うのは、とても失礼だと思ったから。
しかし、ラムはそれを知ってか知らずか言葉を続ける。
「親に黙ってここに来てるのは、あいつなりに親に反抗してるらしい。ウロウロしてるところをシュエガオが声をかけたってわけさ。わざとこういうところに来て親の干渉や、財閥の子供として特別扱いされない場所に逃げたいんだろうが、裏を返せば少しでも親に心配してもらいてぇんだろうなぁ」
しばらくするとテレビ画面にノイズが走り、音がとぎれとぎれになってきた。
ハイリーは、以前ラムがやっていたことを思い出し、テレビの側面を軽く叩いてみる。
すると、画面は正常に戻り、音もはっきりと聞こえるようになった。




