幽玄からの誘い②
二人は顔を見合わせ、声の聞こえてきたホールへ向かうと、換気のために営業中以外はほぼ開けっぱなしにしている裏口から顔を覗かせている小学生くらいの男の子の姿があった。
「あ、ユン、どうしたの?」
ハイリーは初めて見る顔だったが、今はもうすっかり機嫌が直ったと思われるシュエガオと男の子は面識があるようで、きっと友達なのだろうと理解する。
男の子はうつむき加減で視線だけシュエガオに向け、どこか影が感じられた。
ただ、とてもこの界隈に住んでいるとは思えないほど身なりはとてもきれいに整っていて、なにより嫌でも目立つ、手首でつややかに光る翡翠のブレスレットにハイリーは目を奪われていた。
かつて、翡翠は高価な宝飾品であり、高身分の間でとても人気でステータスを表すために重宝されていたものの一つ。
ハイリーの家系も多分に漏れず、皆翡翠の腕輪を身に着けることで身分を誇示し、そして一族の印の意味も兼ねていたことを思い起こす。
無意識のうちにハイリーの手が、自分の手首にはまっている翡翠の腕輪に触れる。
「……遊びに来たんだ。どこか行こうよ」
「いいよ、行こう!今日はどこで遊ぶ?」
今にも駆け出して行こうとする二人を、ハイリーは咄嗟に呼び止めた。
とりわけ何かを話したかったわけではなく言葉に詰まっていると、二人は再び駆け出して行こうとする。
「あ、待って。———あなたの名前、聞いてもいいかしら?」
「……ユン」
ハイリーは駆け出していく男の子になぜか、何か声を掛けなくては、という衝動に駆られ、咄嗟に思いついたのが名前を尋ねることだった。
男の子はどこか儚げな表情と消え入りそうな声で、自分の名前を口にした。
「え?」
良く聞こえなかったため、ハイリーは聞き返す。
「……ユン・ツァイユン」
さっきより一回り大きな声で、それでも震えるような小さな声で再び名乗る。
「ユンだよ、あのユン!あ、ハイリーは知らないのか。ユンはねぇ、香港で———」
「言ったらだめだよ……!」
ユンは突如会話に入ってきたシュエガオの手を掴むと同時に、言葉を遮った。
「あ、そっか、ごめんごめん。じゃあ、まだ内緒」
シュエガオはユンの言葉の意味を理解し、頭を搔きながらハイリーを上目遣いで見やった。そして、二人は裏路地の奥へと駆けて行ってしまった。
きっとよくある子供同士の内緒話なのだろうとハイリーは理解しつつも、それでもどこか釈然としないユンの剣幕のすごさに少し寂しさを覚える。
きっとあの子にもなにか家庭の事情や理由があるのだろうと気を取り直し、ハイリーはテレビをつけたままの台所へ戻ることにした。
それにしても、なぜか頭に残る儚げなユンの顔と名前。
ユンという苗字はチャンや、ワンなどと並び、特段珍しいわけでもないありきたりな苗字の一つなのだが、実は、ハイリーの姓もユンというのだった。
翡翠の腕輪といい、同じ姓といい、なんていう偶然なのだろうなどと考えながら台所に入ると、テレビ画面ではシュエガオが楽しみにしていたドラマがすでに始まっていた。
警察がロウのようなはぐれ者を追っているところで、はぐれ者達は建物に隠れて警察を迎え撃とうというシーンだった。
警察が身をひそめたはぐれ者達の気配に気づき、はぐれ者たちを次々と叩きのめしていく様は、見ているこちら側も爽快な気分になる。
シュエガオが見ていたらさぞ興奮していたに違いなく、ハイリーも見ていてなんとなく理解できるような気がしてきた。
シュエガオと一緒にテレビを見られないのは残念に思いながらも、思えばいつのまにか自由を手にしている事にハイリーは改めて気づく。
年寄り臭いと敬遠される時代劇のドラマに魅入り、自分で洗濯をして洗い物を干し、食べたいものを自分で買いに行き、上下関係や男女関係なく会話することが許され、何より誰にも自分の生活を指図されず干渉されることもない。
当時の清朝ならすべてあり得ないことばかり。
ただ、その一方で本来ならこんなふうにのんびりとテレビを見ている場合ではなく、いい加減、この先の生き方を決めないといけないことは、ハイリーも十分わかっていた。
とはいえ、未だ本来の自分が暮らしていた清朝の時代に戻るための手がかりを、いまだ何一つ見つけられていない。
あるとすれば、昨日、ロウから聞いた話……。
不思議な現象を感じたことを人前で話すなと言われ、皆がいる場ではそれ以上詳しい事を聞くことができず中途半端な形で会話を終えることになってしまったが、ハイリーはあの話が何か手掛かりになるのではと、密かに期待を寄せていた。
でも、もし、清朝へ戻れないのだとしたら……。
いずれにせよ、次にこの話ができるのだとすれば、ロウと二人になる時間を作る必要があった。
<<続く>>




