第89話 吐露
どこまでも無機質な、白一色の病院の廊下を二人で歩く。
「詩音も可哀想だよね。一年に二回も入院する事になるんだから」
「おまけに今回の原因の一端が私にあるので、気まずくて仕方ありませんよ。……帰っていいですか?」
「ダメだね。っていうかあれはどう考えてもあの馬鹿が悪いんだから、藤崎さんが気にする必要なんて何もないよ」
気まずいのは嘘だ。
私の頭は透き通っている。
何に対する悪感情もない。
詩音さんに対する気持ちも――いや、分からない。
まだ何とも言えない。
私は彼女に対する責任感と義務感は持ち合わせているのだから。
そしてようやく病室の前にたどり着いた。
「開けなよ」
まぁ隣に彼女がいる分、幾分かマシな空気にはなってくれるだろう。
最悪の場合、頼りになる人が隣にいるというのは心強い。
「……分かってますから、急かさないでください」
私は努めて冷静に答え、重い扉を音を立てぬよう静かに押し開けた。
窓際のリクライニングベッドを起こし、彼女はそこに座っていた。
夕刻の淡い光の中に溶け込む、真っ白な霧のような少女。
彼女はただ、落ちていく陽光を眺めるように静止していた。
その光景が網膜に焼き付いた瞬間、私は耐えがたい拒絶感に襲われ、反射的に踵を返した。
そのまま扉を掴んで外へ出ようとしたが、びくともしない。
気づけば、隣にいたはずの坂本さんの姿が消えていた。
私は扉の向こう、外から引き戸を固定しているであろう坂本さんへ、低く、小さな声を絞り出す。
「……やってくれましたね、坂本さん」
「本当はすぐに私だけ帰るつもりだったんだけどね。こうなるのを予想しておいて良かったよ」
「お金なら払うのでッ!今すぐに開けてもらえませんか……っ!」
弱体化した身体で必死に力を込めるが、扉は非情なほどに動かない。
「無理! お話が始まったら私はすぐに帰るから、もう観念して諦めて!!」
ほんとにもう……最悪だ。
あとほんの少しだけ日が沈んでくれれば、絶対に力負けなんかしないのに。
私もこういう事態を予測して、時間を指定しておくんだった。
「その声は茜……? そこにいるの?」
内側から響いたその声に、私は数秒間だけ目を閉じた。
諦めとともに眼鏡を外し、私はゆっくりと詩音さんの方へ向き直る。
一歩一歩、その色彩を失った世界の中で、彼女へと近づき、立ち止まった。
彼女の四肢には、痛々しいほどびっしりと医療器具が取り付けられていた。
まともに動くのは右腕と左足だけだというのが、見て取れる。
彼女の左腕には私のマフラーが、大切に抱え込まれていた。
見るに堪えない惨状だ。
それでも私は、逃げずに彼女を直視する。
悪感情などはないけれど、それでもこれは自分の責任であることは自覚している。
責任から逃げようとしていたけれど、ここまで流れができてしまったのなら仕方ない。
これは夜の通り道で見つけた白いモヤに優しく微笑みかけるのと、何ら変わらないのだ。
「茜。もっとこっちに来て、もっと近くに……」
「はい」
促されるまま、私は彼女の右側まで歩を進めた。
詩音さんは穏やかな笑みを浮かべ、両の腕を広げていた。
それはまるで幼子を迎え入れる聖母のように、あるいは傷ついた獣を誘う罠のように。
私という存在を無条件に肯定し、抱擁しようとする仕草だった。
私はごく僅かに指先を震わせ、導かれるように彼女の胸元へ体重を預けた。
柔らかい温もりが、私を包み込む。
その感触は、冬の底で凍てついた私の四肢を、表面的には溶かしてくれるような心地がした。
でも――それでも、決定的に何かが足りていない。
抱きしめられながら、私の心はどこまでも冷め、彼女を見ていない自分を自覚していた。
「久しぶりに会ったらね、まず怒ってやろうって考えてたんだ。茜、全然会いにきてくれないんだもん」
「……ごめんなさい。どんな顔して詩音さんに会えば良いか分からなくて。私……体も、心も、もう全部おかしくなっちゃったので…………」
「そうなんだ。ごめんね」
詩音さんの細い腕に力がこもる。
「明日菜ちゃんから全部聞いたよ。私のせいでいっぱい迷惑かけてごめん」
「…………ぁ……」
「痛かったよね、苦しかったよね。私なんかと比べものにならないくらい酷い思いをさせちゃった。茜には一生を懸けても返せない恩ができたと思う」
痛くなんてなかった。
苦しくなんてなかった。
あの日、あの夜の私は、間違いなく全身全霊で生を謳歌していたのだから。
「……一生なんて大袈裟さですよ」
どちらかといえば、今が一番苦しい。
何のために歩き、何のためにこの不自由な呼吸を繰り返しているのか。
自分でもその理由をとうに見失っている。
ただ一つ、重い錨のように私を繋ぎ止めているのは、責任感という名の枷だ。
詩音さんを元の輝かしいステージへ送り届ける。
その目的だけが、私を突き動かす唯一の指針だった。
その後のことは………………何も、分からない。
「ううん、茜……私は――」
ただこの温もりに触れていると、歪んだ思考の隙間から、ある種の渇望が漏れ出していく。
他責でも、自虐でもなく。
今の私を……。
詩音さんにはこの救いようのない空虚な私を、ありのままに見つめてほしかった。
「詩音さん」
私はゆっくりと彼女の腕の中から身を引き、距離をとった。
詩音さんは少しだけ虚を突かれたような顔をして、私を見つめ返した。
「えっ、何……?」
「明日菜がここで話した内容と、真実には――少しだけ齟齬があるんです。私の話、聞いていただけますか?」
私は彼女が横たわるベッドの縁に、静かに腰を下ろした。
視線を横に流し、詩音さんを見やる。
彼女はどこか深く思索に耽るような、静かな表情でしばらく私を観察していた。
やがて、その唇がゆっくりと開く。
「うん、教えてよ。今の茜の事を全部」
彼女はそう言って、私を拒むことなく微笑んだ。




