第85話 凍らせた思考で
外に出るとベックさんが駐車場の中央で、大雪に揉まれながら立っていた。
その手には泥のように伏した清水さんの首根っこが、無造作に握られている。
「終わったのか?」
無機質な音声に、私は肺に溜まっている濁った熱を吐き出した。
「そうですね。……はぁ………………人生で一番最悪な気分です。今日だけで、虐められていた頃の100億倍は酷い」
目の前の楽しいことを全てほっぽり出して、このまま帰宅する。
最悪だ。
体が求めているのに、それ以上をする気になれないなんて。
また今度詩音さんに嫌味を言ってしまいそうだ。
この前の比にならないやつを。
「帰る前に少しだけ待って欲しい」
ベックさんはスマホを操作し、こちらを見据えた。
「藤崎宅に私達の息のかかった救急車を呼んでおいた。これで問題なくキミたちは治療を受けれるだろう」
……冗談じゃない。
今どうでもいい人と接触するだけで、気がおかしくなってしまう気がする。
血じゃなくてもいいから適当にお腹に食べ物を入れて、家で何もせず眠りこけたい気分だ。
「……詩音さんはともかく、私は必要ありません。しばらくは誰にも会いたくないので、病院とか死んでも嫌です」
そう言って私は、自身の落ちている荷物や衣服を一瞥した。
持って帰りたいという気持ちはあるけど、詩音さんを抱っこしているせいで、着て帰るなんてできない。
残念ながらこのままでは二人揃って、裸での帰宅となってしまうだろう。
まぁ血塗れのボロ布を今更纏うよりは、誰にも会わないことを祈って裸で雪夜を歩く方が、よほどマシかもしれない。
ベックさんは気を利かせたつもりか、落ちていた私の眼鏡を拾い、私の顔に掛けさせた。
それから傷だらけの自分の黒いコートを脱ぎ、こちらに被せようとしてくる。
「コートは……詩音さんにかけてあげてください。きっと寒いと思うので」
私ももちろん寒くはあるけど、ここまできたらどうせ死にはしないし、体の心配なら詩音さんの方を気にかけるべきだろう。
私の言葉に従い、彼は詩音さんにコートを掛けた。
……が、直後にベックさんが妙なことを口走った。
「藤崎さん、角を引っ込めることはできるだろうか?」
「角?……そんな物どこに……」
当然の疑問を吐き出す。
するとベックさんは私のおでこあたりを、素早くつまむように触れた。
指先が触れた瞬間、そこにあるはずのない異物感が、確かな感覚として脳に伝わった。
……なんだこれは。
「なるほど? こんなのが生えてたんですね。これでは人じゃなくて化物みたいです」
私は落胆するではなく、自身で言い放ったそれにどこか安心感さえ覚えた。
自分でもどうしてそう考えてしまったのか理解できない。
まぁいいか。
私は意識を頭へと集中させ、その不愉快な痕跡を消そうと試みた。
内側へ収納することはできる。
でも今の私の損耗した身体では、それすら満足に制御できなかった。
不格好に、中途半端に、それは私の額に残ったままだ。
「お腹が空いているのか」
「まぁ凄く空いてますね。おまけに貴方があんなところに殴り飛ばしてくれたせいで、危うく詩音さんを喰べちゃうところでしたよ」
「それはすまない。お返しと言うわけではないが、少し上を向いて口を開けてくれ」
言われるままに口を開けると、ベックさんが自身の拳を私の口の上で握った。
彼の手から溢れ出した血が、私の口の中へ流れてくる。
それをゴクゴクと飲み干した。
確かに彼が言った通り、美味しいのは清水さんの血に限らないようだ。
うん、美味しい。
そして血を飲みながらも、ふと考えてしまう。
正直なところ、目の前の男と今抱えているモノを叩き壊したい。
そんな感情がちょっとだけ……
「頼む……本当にやめてくれ……」
先読みで釘を刺されてしまった。
「なんで私の気持ちがわかったんですか?」
「瞳孔が開いていた。それは動物が獲物を狩る時の眼だ」
なるほど。
そう言われてしまっては仕方ない。本能的な部分なのだから、バレて当然だろう。
彼は一通り流し終わったのか、私の前から手を引いた。
もう一度頭に意識を向けると、今度は角が引っ込んだ。
ただ今更気づいたけれど、髪の毛も濁った白色に変わってしまっている。
どうやらこれは、意識するだけでは黒には戻ってくれないらしい。
「そういえば清水さんはどうするつもりですか? まさかそのまま家に返すとか言いませんよね?」
こちらとしては別にそれでも構わない。
なんなら私から会いに行っても面白そうだ。
どんな反応をしてくれるのか、考えるだけで楽しみになってくる。
「暗示で彼に今日やったことの記憶処理をした後、そのまま警察に引き渡すつもりだ」
それを聞いて思わず舌打ちが出た。
私は彼の横を通り過ぎる。
「あーあ……私から楽しみを奪ってくなんて、本当に最低な人ですね、ベックさん。ここまで私に酷いことをしてくれた人は貴方が初めてですよ」
警察に行かれてしまったら、清水さんとはしばらく会えない。
私の楽しみは完全に無くなったようだ。
…………帰ったらご飯食べて寝たいけど、多分色々と忙しいんだろうな……
Vtuberになっちゃったし、ライバー用スマホ貰っちゃったし。
直近でやらないといけない事を挙げるなら、運営さんや同業者達と連絡を取ったり、家に届くだろうパソコンとかもセッティングしたり、放り出していた冬休みの課題も含めて、やるべきことが山積みだ。
考えるだけでウンザリする。
重い足取りで雪を踏みしめていると、背後から機械的な音声が追いかけてきた。
「ケーキ、美味しかった。ありがとう」
その不器用な謝辞に、私はふっと、場違いな笑みを漏らした。
「アレは私が作ったわけじゃありませんから……次は私の手料理をご馳走しますよ」
その後一度も振り返ることなく、私は夜の公園を後にした。
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暗く、底冷えする冬の帰路。
雪は音もなく降り積もり、世界の時間が引き延ばされているような錯覚を覚える。
いっそこのまま、すべてが止まってしまえばいい。
立ち止まって凍死すれば、どれだけ後が楽になるだろうかとさえ考えてしまう。
私が一人ならそれも選択肢に入った。
だけど残念ながらそうじゃない。
私の腕の中には愛する人がいる。
重傷でこの寒い中放っておいたら死ぬかもしれない人が。
だから歩かないといけない。
どれくらい歩いただろうか。
ようやく家の玄関にたどり着いたとき、私の体力は底を突いていた。
両手が塞がっていて扉を開けられない。
大声を出して母や妹を呼ぶ気力も湧かなかった。
私は仕方なく、玄関のインターホンにおでこを叩きつけて、無理やり呼び鈴を鳴らした。
すると家の中から、猛ダッシュしてくる誰かの足音が聞こえてくる。
「はーい!」
勢いよく扉を開け放ったのは、案の定、妹の明日菜だった。
彼女は私の姿を視界に入れた瞬間、目を見開いたまま石のように硬直した。
当然といえば当然の反応だろう。
私は全裸のうえに、体のあちこちから血を滴らせている。
腕の中の詩音さんは、借り物の大きなコートに包まれていて、明日菜からは誰だか判別できないだろう。
立場が逆なら私だって固まる。
「外国人の……変、態……? でも凄い怪我してる???」
困惑しきった明日菜が、おろおろと後ずさる。
私はこの馬鹿の顔を見て、ため息を一つ吐くと、重い口を開いた。
「ただいまです、明日菜」
「お……お――お姉ちゃんッ!?!?!?」
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そこから数分後すぐに救急車が来て、詩音さんは病院に運ばれた。
付き添いとして、母も慌ただしく同乗していく。
「明日菜ッ!!! 私は病院に行くから、茜からどういう事情か全部喋らせておいて!!」
「おっけ〜!」
というやり取りが目の前でなされた。
いつものなら適当に流せるけど、今日は怠いことこの上なかった。
「お姉ちゃん! 一体全部どうなってるの!! 早く喋って!!!」
明日菜が詰め寄ってくる。
私はもう二階へ上がる気も、シャワーを浴びる気も起きなかった。
リビングのソファを占領し、体を投げ出すようにして眠りの体勢に入る。
「うるさい……一回寝かせてください。起きたらごはん作るので……」
「そうじゃなくて!!――って、マキさんから連絡きた」
どうやら弦巻さんにも、現状の情報が伝わったらしい。
あの人が後から全てうちの家族に説明すると、LINE越しで伝えてくれたそうだ。
そのおかげで私はようやく余計な義務感から解放され、意識を沈めることができた。
そして後日、公園に放置していた荷物のすべてが我が家へと届けられた。




