第63話 無能な働き者
現在時刻20時30分。
スマホアプリで呼んだタクシーに裸足のまま乗り込み、そのまま駅に向かった。
その間詩音さんはyoutubeショートの方でライブ配信をしていた。
件の弁明をするためだったのだろう。
スマホから直接やっているのかノイズが酷く、おそらくタクシーで帰りながらだ。
だけど私が視聴して見ている感じでは、その配信はまともな雰囲気で終わらず、証明も何もないただの弁論では、アンチの餌にしかならなかった。
最終的にコメント欄が罵詈雑言で埋め尽くされ、収集がつかなくなったところで、配信は唐突に逃げるようにして落とされた。
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マンションのオートロックの前に立ち、私はさっきプレゼントされたばかりの鍵を取り出す。
皮肉なものだ。
元々は信用の証として貰ったこの金属片が、今やこんな形で初使用する羽目になってるのだから。
「……開いた」
無機質な解錠音。
エレベーターを降り、彼女の部屋の前に立つ。
肺が焼けるような深呼吸を一つし、拒絶される恐怖を無理やり胃の底へ押し込み、私は呼び鈴を鳴らした。
「…………」
返事はない。
私は迷わず鍵を開け、静かにその境界線を越えた。
「これは……」
部屋の中は暗かった。
ただ、ゴミが多少散らかっているのと割れた皿やコップがいくつか落ちていた。
おそらく家に帰ってから、すぐに怒りに任せて暴れたのだと思う。
視界の中に詩音さんはいない。
きっと配信部屋に籠っているのだ。
私は閉じられた配信部屋の前に立ち、取っ手に手をかけた。
「……詩音さん。茜です。入りますよ」
そして私は扉を開けた。
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配信部屋の中も、やはり薄暗かった。
唯一PCモニターの青白い光だけが、幽霊のように部屋を照らしている。
詩音さんはベッドの上で毛布に包まり、膝を抱えてただその光を眺めていた。
…………私から見れば、とても異様な光景といって他ならなかった。
だけどずっと黙ってそれを放置しているわけにはいかない。
「詩音さ――」
「なんで来たの?」
彼女は私の顔を見ず、掠れた声で呟いた。
「私、イライラしてるって言った筈だよね。いま茜と話したら当たっちゃうからって」
「詩音さんの気が済むならそうしてください。私はそれだけの失敗をしたんですから」
私の返答に詩音さんはギリ、と奥歯を鳴らした。
怒りを抑えるように、飲み込むように。
「SNSの方は確認しました。アレはどう見ても片方は私ですね。文化祭の動画だけならまだマシだったのと思いますが、イオンで盗撮されたものは世間を騒がせるのに充分だったようです」
文化祭で撮られた動画のみだったならば、まだキモいオタクに詩音さんが接待してるだけに映った可能性が大きい。
清水という男がどうしてこの動画二つを今になってSNSに拡散したのかは分からない。
まぁどう考えても復讐以外に考えられないが。
彼は文化祭での動画のみでは足りないことを理解していたから、アレ単体で動画を投稿せずに私達――というか詩音さんの動向を追って、彼女の弱みとなるものを撮影したのだ。
詩音さんも長くインフルエンサーをしているのだ。
決定打がどちらの動画にあったのかは、理解できるだろう。
「なので詩音さんは悪くありません。私が……私が悪いんです」
私が彼と同じ服装だったのは完全な偶然。
何がどうあれ、私なんかが詩音さんの隣で居座っていたから、彼の怒りを買ってこうなった。
現状を顧みてもそれは変わらない。
そして神様は彼の意思決定に微笑んだのだ。
「そうやって謝って慰めて!!何がしたいの?!!茜がいま謝りにきてこれは解決する???しないよねェ???!!」
「…………」
「……それにこれは茜だけの問題じゃない。気づかないうちに、私のことをストーカーしてる奴がいたってことと……ファンのみんなの変わり身があまりに早かったのと…………」
詩音さんは言葉に詰まり、喉を震わせた。
そして私の存在など視界から消し去ったかのように、吸い寄せられるようにスマートフォンへ指を伸ばした。
彼女が頼ったのは助けを求めるための同業者への連絡でも、運営への相談でもない。
自らの尊厳をズタズタに切り裂いているはずの、Tmitterだった。
「なっ?!」
今のタイムラインを彼女が覗くこと——それは猛毒を煽るに等しい行為だ。
見れば見るほど心が壊れていく自傷行為。
自分から傷つきにいくのは、あまりに愚かしすぎる。
「何やってるんですか!」
私は反射的にスマホを取り上げようとした。その瞬間——。
乾いた音が部屋に響き、私の視界に火花が散る。
頬を力いっぱい叩かれたのだと理解するのに、数秒を要した。
じりじりと焼けるような痛みが、静まり返った闇の中で拍動する。
「ねぇ、なんでここにいるの……っ!?早く一人にしてって分からない??」
「………………私のせいでこんなことになったので……詩音さんを一人にするわけには……」
「そう、そうだね……茜のせいでもあるよね。私何回も言ったもんね、その服着るのやめてって」
「……」
「茜が馬鹿で頑固なせいでこうなった。……Tmitter見たんでしょ?」
詩音さんは忌々しいものを見るような手つきで、スマホを床に投げ放った。
「いま私は何千、何万って人に悪口を書かれてる。あんたには想像できないよね? だって一年近くも私の隣を歩いていながら、あんな格好をずっと続けてられるほど無神経だったんだからっ!」
彼女の言う通りだ。
私には想像できない。
その立場——視点でモノを見ることができない。
かつて私がいじめを受けていた時の加害者の人数など、せいぜい十人にも満たなかったはずだ。
詩音さんに向かっているのは、桁の違う人の悪意の集合物。
しかも動画という消えない証拠が残っている限り、この攻撃は指数関数的に膨れ上がっていく。
私には……やっぱり想像できない痛みだ。
「ファンのみんなもおかしな話だよね。私、あんなに頑張ってたのに、いきなり私のことを刺し始めるんだもん。…………泣いて喚いて叫びたいのに、ここまで状況が酷いと、その気も無くなっちゃった」
「…………」
「はぁ……もう言わなきゃ分かんないかな? って言うか、何回も言わせないでくれない? 早く出てって欲しいんだけど」
「……今の詩音さんの側に居れるのは、私だけなので、それは…………。私にできることなら何でもするので、一緒にいて欲しいです」
すがるような私の言葉は、静まり返った部屋の中で、ひどく空虚に響いた。
その瞬間、彼女の奥底で澱んでいた何かが、決定的に変異したのがわかった。
暗い室内にはっきりと、そしてしつこいほど大きく、不快な舌打ちが鳴り響く。
「きっっっも」
感情を削ぎ落とした短い言葉がゆっくりと……重量を持って私の胸の奥に沈んでいった。
詩音さんはそのまま立ち上がると、生気を感じさせない足取りで、ふらふらと部屋を出て行った。
私は引き止める言葉も、追いかける資格も見つけられないまま、ただ彼女が何かを探して室内を徘徊する音を、耳で追うことしかできない。
台所のほうでな金属が擦れ、ぶつかり合う音が聞こえた。
ガチャリ、というその響きは、この静寂の中ではあまりに異質。
やがて詩音さんの足音が戻ってきた。
背後でそれは止まり、私のうなじを凍らせ、絞めあげるような声が響く。
「優しい優しい茜ちゃんは何でも言うことを聞いてくれるんだっけ?」
「……はい」
私の喉は引き攣り、嫌な予感だけが心臓を早鐘のように叩かせる。
逃げ場のない冷や汗をこめかみに感じながら、それでも私は祈るように返事をした。
「……っ?!」
直後私の膝のすぐ隣に、ある物体が乱暴に叩きつけられた。
照明のない部屋では、その正体をすぐには捉えられない。
けどフローリングを打った重々しい金属音と、床に伝わった鈍い振動が、その重みを教えてくれた。
やがて暗闇に目が慣れ、PCモニターの微かな光が、その輪郭をゆっくりと縁取っていく。
「へ……?」
投げ置かれたそれは、一本の包丁だった。
ステンレスの刃が、冷たく、静かに光を反射している。
「じゃあさ――死んで?」




