第55話 人生適正皆無。生きるの向いてない
配信終了と同時に、弦巻さんは秒速で家を飛び出していった。
何か急ぎの予定でもあったのだろうか。
嵐が去ったような静寂の中、部屋から出てきた詩音さんは、目の前の光景にただ茫然と立ちつくしていた。
「えぇ……!? ここまでやったの?」
「当然です。基準は私の家ですからね」
「こんなに綺麗にされても維持できないよ……」
「なら、定期的に私が掃除しにきますよ。日曜日とか」
「それっていわゆる通い妻――」
「黙って座ってください。お菓子、食べるんでしょう?」
くだらないことを口走りかけた彼女を、照れ隠しも兼ねてソファに座るよう促す。
詩音さんが用意していたのは、百貨店の包みに入った、私が見たこともないような繊細な装飾の洋菓子だった。
二人で並んで、甘い香りに包まれながらとりとめのないお喋りをする。
配信中の凛とした響きとは違う、少し抜けていて、けれど耳に心地よい彼女の地声。
夕食は買ってきた食材で簡単に済ませた。
特別なことは何もない、穏やかな時間が流れる。
「ねえ、茜」
「なんですか」
ソファで食後の余韻に浸っていると、詩音さんが不意に距離を詰めてきた。
その細い指先が、私の眼鏡のフレームにそっと触れる。
「これやっぱり貸してくれない? 茜が何を見ているのか、私……ずっと気になってるんだよね」
「……ダメですよ」
私は首を傾けて、その手をかわした。
「前々から狙っているみたいですけど、これだけは譲れません。これは絶対に詩音さんに渡すなと、あの人に釘を刺されているんですから」
「そんなのいつ言われたの!? っていうか、なんでアメの言うことをそんな律儀に聞いてるの……」
「気づいたらうちの妹と弦巻さんが友達になってたんですよ。そこから経由して私に話が回ってきたんです」
おまけに家族にも眼鏡の事情は筒抜けで、その後普通に精神科を勧められたのは少しだけ心に堪えた。
「え、明日菜ちゃんとアメが!?…………嫌だなぁ、あの二人で意気投合してるの」
「それに、この道具は想像以上に便利なんです。他人に貸して万が一にも紛失するような真似はできません」
私がきっぱりと断ると、目に見えて不機嫌そうな表情を浮かべた。
その子供っぽい仕草に、つい独り言のような溜息が漏れる。
「はぁ……こんなことでイライラしないで、風呂でも入ってきてくださいよ。もう沸いた筈ですよね」
「ふんっ! 茜ちゃんのケチッ!」
そう言って彼女は浴室に向かった。
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私は詩音さんのオリジナルソングを小さく口ずさみながら、夕飯で使った食器を洗っていた。
「♪〜」
ふと、不思議な充足感が胸を満たす。
なんてことはない、このありふれた時間。
初めて好きな人の家に入ったからだろうか?
遮断されたこの二人だけの空間が、ひどく心地よいものに思えてしまった。
もしもの少し先の未来、お互いが大学生になって同棲とか始めたら、きっとこうやって何もないこの時間でも、こんな暖かな気持ちになれるんだろう。
それで一緒に先の未来を二人で歩いて――――――
「くっ…………はぁ……はぁ、はぁ……っ!」
――けれど、この幸せな思考の隙間に、あの忌々しい記憶が染み出してきた。
私を嬲ってきた獣たちの嘲笑と、文化祭で群がってきた猿共の気色の悪い執着心。
眼鏡を通してクリーンな詩音さんを見ているのにも関わらず、記憶の底にある先人たちは、私に正しい人としての歩き方を説こうと、私の脳を侵食してくる。
幸福の絶頂に訪れる、不安と不快の抱き合わせ。
神様は弱者がただ穏やかに生きることを、どうしても許してはくれないらしい。
それも当然かもしれない。
私が求める関係と、詩音さんが求めるそれは、きっと埋まらないほどの乖離がある。
私はただ一人に依存し、その執着を糧に地を這っているだけの弱者だ。
そんな生き方に未来などないことくらい、私にだって分かっている。
それに同性同士の愛に一体どんな生産性があるというのか。
種の繁栄という生物として当然の理に背き、血を繋ぐことさえ叶わないこの無駄な関係に、一体何の意味があるのか。
私の思考は他人との関わりを通して、より一層壊れていく。
そして答えの出ない自問自答の海へ、また沈みそうになったその時だった。
「ど、どうかしたの茜!? 凄く酷い顔してるけどまた貧血!!?」
ハッと我に返ると、私は台所の床に膝をつき、ひどく荒い呼吸を繰り返していたらしい。
「救急車呼んだ方がいい?!」
「…………やめて下さい。これは……精神的なものですから………」
震える手で眼鏡を調理台に置き、私は片手で視界を覆い隠した。
だけど指の隙間から見えた光景に、思考が別の意味で停止する。
「っていうか、なんで裸なんですか……!」
「だってここ、私の家だもん」
「貴女に告白した!…………私がいるんですから……気を遣ってくださいよ……!」
羞恥を紛らわすように吐き捨てた私を無視して、詩音さんは私の肩を支えてくれた。
「………………貴女に性欲を向けてる私が、馬鹿みたいじゃないですか」
直に伝わってくる柔肌の熱に心臓が跳ねる。
ドキドキしている自分自身に対しても、やり場のない苛立ちが募った。
詩音さんは私を薄暗い寝室へ運び、ゆっくりとベッドに横たえてくれた。




