第51話 最推し以外の人間など、見るに堪えない畜生である。
それから二週間。
季節が一段と冷え込みを強めた頃、私はようやく退院の許可を得た。
久しぶりの登校日。
一緒に行こうと申し出てくれた詩音さんは、私の体調を気遣ってタクシーを配車してくれた。
「どう?茜。久しぶりの学校は」
久しぶりの学校。
それは本来、何も変わらない退屈な日常の再開であるはずだった。
なのに……
「ヒッ、はぁ、っ……はぁッ……」
校門をくぐった瞬間、膝の力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
「茜ッ!?!?」
視界が歪む。
ここは見慣れた学校のはずだ。
なのに行き交う生徒たちが、まるで生理的な嫌悪を催す異形のナニカにしか見えない。
彼らの存在そのものが、耐え難い不浄として脳を侵食してくる。
凄まじい吐き気がせり上がり、喉と胃の腑が焼けるような熱を帯びた。
「どうしたの!? 今すぐに救急車呼んだほうがいい!!?」
「いえ、大丈夫です。…………少し目を瞑るので、誰もいない場所にゆっくり連れて行ってください」
「分かった!!!」
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そして連れてこられたのは、静まり返った校舎裏だった。
念のため目を閉じたまま、私は荒い呼吸を整える。
「やだ〜。もうそんなに精神病んじゃったの?」
不意に頭上から場違いに明るい声が降ってきた。
目を開けずともわかる、弦巻さんだ。
「……その声は弦巻さんですか。文化祭が終わっても、律儀に登校しているんですね」
「ううん、これが終わったら帰るけどね。さっきLINEでしおっちに呼び出されるまで、朝ごはん食ってたし〜」
「……詩音さん、なんでこの人呼んだんですか……」
「だって、救急車がダメなら、あとは一番頼れるのってアメくらいだし……」
おそらく呼び出してから五分と経っていないはずだ。
この女の神出鬼没ぶりには、もはや恐怖すら覚える。
「はぁ……じゃ単刀直入に効くんですが、これ……どうにかできます?」
「どうもこうも、家に引き篭もってればいいんじゃない? 元々学校に行くのなんか向いてなかったってことでしょー。それとも休日が足りてなかったかな?」
「家に引き篭もってて良いのなら、喜んでそうするんですけどね」
私は詩音さんの気配がする方へ、わずかに顔を向けた。
「ダメ」
「だそうです」
……というか、他人を視界に入れるだけで、これほど劇的に体調が悪化するとは思わなかった
それに彼ら彼女らを見ていると、胃が雑巾を絞るようにひっくり返る。
条件は他人だけなのかは分からない。
もしかしたら制服を着ている人間を見たのが、引き金になった可能性もある。
他人が正視に堪えない異形に見えるということは、私の深層心理が周囲をそれほどまでに見下し、排斥したがっている証左なのだろう。
……つくづく、救いようのない社会不適合者だ。
でも気持ち悪いんだから仕方ない。
普通にみんなに死んで欲しいっていう私の気持ちも、そう簡単に変わりはしない。
まあ、嘆いたところで現実は変わらない。
「意地悪やめてくださいよ。解決する手段があるんでしょう? 貴女がそんな嫌味を言うだけのために、この場に居続けてるとは思いませんから」
「それは、そっ!……とりあえず目を開けてみてくれない?」
「分かりました」
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界の脇から奇妙な物体が差し出された。
「マキちゃんお手製秘密道具の!ぼんやり眼鏡〜!!」
「………………」
「これを付ければ、あら不思議。人と物の境界線が曖昧になって、他人を認識しづらくなるよ!」
「それってただ目が悪くなるだけじゃん!!!」
詩音さんの指摘を無視し、半信半疑のまま弦巻さんからそれを受け取り、顔に装着してみる。
まずは詩音さんに視線を向けてみたが、さほど大きな変化はない。少し輪郭が霞んでいる程度だ。
次に弦巻さんを視界に収めて、私は息を呑んだ。
彼女の姿がまるで漂白された白い靄、あるいはモノトーンの一色に塗り潰された無機質なシルエットのように見えたのだ。
……何だ、この道具。
私の予想を遥かに超えて、かなりヤバい代物だ。
およそ現実に存在していい道具ではない。
「ちっちっちっ、ただ目が悪くなるだけって代物じゃないよ!」
困惑する私を余所に、弦巻さんは楽しげに指を振る。
「これはちょっとカスタムしてあってね! 興味のない人を見る時、対象を勝手に白く塗り潰してくれる便利な代物なのだよ! だからもし遊園地で逸れた時や、都会の人混みに飲まれた時は、これを付ければすぐに好きな人を発見できる優れ物!!」
「……貴女って本当に人なのか怪しいところですよね」
「渡した15万を入院費に当てたって聞いたし、代わりにそれを無料であげるよ。ちなみにこれ、持ち出し厳禁なやつ渡してるから、無くしたらぶっ飛ばすからね〜」
そう言って彼女は去っていった。
「……改めて思うんですけど、あの人って色々とおかしいですよね?」
「…………お父さんの話だと、生まれて数ヶ月もしないうちに自力で家を脱走してたらしいし。私たちの物差しじゃ測れない本物の変人だよ」
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結局、その得体の知れない眼鏡のおかげで、私の発作は劇的に治まった。
ただしこの不可思議な道具には、極めて実用的かつ、致命的な困りどころが存在していた。
「久しぶり、藤崎さん。無事で何よりだよ」
「…………坂本さんですか?」
「そうだよ? もしかして入院してから相当目が悪くなったりした感じ?」
「みたいですね。これだけ近いのに、誰か分かりませんでした」
それは月宮さん以外の人の判別が、全く付かないところだろう。
そしてこのあと自分で眼鏡を外してみて外で確かめてみた結果だと、私の気分が悪くなるのは学校限定らしい。
まぁ看護師さんを見て気持ち悪くなったりしなかったし、そうだとは思ってたけど。
とりあえず便利だから普段使いしようと思う。
他人が目に映らないというのは、それだけで大きすぎるメリットだ。




