第29話 レイプ未遂その二 ☆
大雨が降り頻る、灰色の世界のど真ん中。
私は傘を差し、ただ立ち尽くしていた。
これは夢だ。
百パーセントの確信とともに眺める視界の先から、銀髪の少女――弦巻アメが、飛沫を上げてこちらへ駆けてきた。
その勢いのまま彼女は私の頬を、一切の容赦なく殴り飛ばした。
「ぶへぇっ!?」
身体が宙を舞い、地面を転がる。
痛みはない。
だって、夢だから。
私は這いつくばったまま、そのクソ馬鹿女へ毒づいた。
『ちょっと! 何かましてくれてるんですか!! 夢だからって何しても許されると思ったら、大間違いですよ!!!』
『今のは一昨日やられた分のお返しだよ〜? これで公平だね!』
『夢の中なので公平どころか私の圧勝ですよ、このクソ馬鹿女!』
『わぁ、強い言葉だね〜。次会う時もその調子でよろしく!』
……おかしな夢だ。
もう朝が近づいているとでも言うのだろうか?
悪夢を見ることは時々あったけど、ここまで特殊なことは初めてだ。
よほど彼女の嫌な印象が、頭に染み付いたのかもしれない。
そして彼女に殴られると同時に、頭の中に駆け巡る悪寒。
これは……
『あ、体借りるね〜』
そんな事を考えていると、彼女は私の腹を椅子代わりにして、乱暴に腰を下ろした。
バス停での仕返しのつもりだろうか。
そしてそのまま彼女は、私の眉間に冷たい指先を突き立てる。
『あれだけ忠告してあげたのに、茜っちにはまだ眠ってられる余裕あるんだ?』
『…………?』
『見上げなよ』
弦巻さんはどこからともなく取り出した鋭利な包丁を、天高く掲げた。
流石にその突然の出来事に、私は黙っていながらも戸惑いを隠せなかった。
『君の目の前にいるのは熱に飢えた獣だよ』
『ほ、包丁?!」
『本当にしおっちを愛してるんだったら、どんな形で化けても許してあげるべき。そうでしょ?』
『ちょっと、まっ――』
そして彼女はそのまま、私の眉間目掛けて振り下ろした。
---
悪夢に叩き起こされ、意識が覚醒した。
部屋は暗い。
嵐の過ぎ去った後のような、重苦しい沈黙。
けれど、夢の続きは終わっていなかった。
「……ぅ……ぅぅ……ぁあ……っ」
だが衝撃的な夢のあと目の前にいたのは、私の身体に馬乗りになり、泣きじゃくりながらハサミを振り上げている、月宮さんの姿があった。
波で濡れた髪の間から覗く瞳には、何とも形容し難い、底の抜けたような狂気が宿っている。
「――――――ッ!」
思考よりも先に生存本能が動いた。
振り下ろされかけた刃を、私は咄嗟に素手で掴み取る。
不完全な形で開いていた両刃が、手のひらの肉を浅く裂いた。
けれど構わず、私はその凶器をもぎ取るようにして床へ叩き落とした。
金属が硬い音を立てて転がる。
手のひらから溢れ出した熱い液体が、シーツに黒いシミを作っていく。
「ああ…………ぁああっ!!」
「月宮さん……」
「……あ」
彼女は何かに気づいたのか、表情がゆっくりと元に戻っていく。
「…………」
……なるほど。
どうやら弦巻さんの助言はしっかり聞くべきだったようだ。
というか断片的とはいえ、聞いておいて良かった。
何の危機感も無しにこの場面に遭遇していたら、多分もっと本気になって対応していたと思う。
いやはや……弦巻さん様様である。
今回の件であの人に対する評価がまぁまぁ変わった。
それでも普通に嫌いだけど。
「ちがッ――違うの!!……こ、これは――!」
弦巻さんの話によると、月宮さんのこれを言い表すならば過去のトラウマ――もしくは精神病とかの類になるのだろう。
弦巻さんは月宮さんに体を刺された後も、警察に突き出す事なく、自身のおもちゃとして手元に残した。
では私はどうするべきか、どう対応するべきなのか?
――おそらくここはとても重要なターニングポイントとなる。
「月宮さんは大丈夫ですか? ちょっと強めに叩いちゃったので痛かったですよね?」
「…………え?」
私はそう言いながら血に濡れたままの手で、月宮さんを抱きしめた。
そして私はそのまま自分の方へ強く引き寄せ、ベッドの背板に身体を預ける。
「怖い夢でも見てしまったんですか?……仕方ないので、月宮さんが眠くなるまで起きててあげますね」
「……どうして…………怒らないの?」
「え?」
「アメは怒ったのに、茜ちゃんは怒らないの?」
あぁ……
あの人、一応しっかり怒ったんだ。
てっきり『おもしれー女』みたいな枠で手元に残してるのかと思ったけど。
「もちろん怒ってますよ。私と話してる最中に他の女の名前を挙げられて、凄く怒ってます」
「…………」
「で、どうして私を刺そうとしたのか、答えられますか?」
「それは……」
「言いたくないのなら答えなくても大丈夫ですよ」
「…………大丈夫、ちゃんと言うから」
---
月宮さんは弦巻とは違った視点から話を語ってくれた。
彼女の話では月宮さん自身がとても両親の事を嫌っていたらしく、それはもう何度も何度も自分の手で刺し殺そうとしていたらしい。
それは現実や夢の中問わず、一生頭の中に巡り続けているそうだ。
だが小さな彼女は頭の中では理解していた。
二人を失ってしまえば自身が生きていくことは厳しくなると。
他に行き場所が無いと。
そして例えどんな形になってしまえど、両親は自身を養ってはくれているのだから、愛されていると自分で勘違いしていたのだ。
そんな中、突然彼女の両親は失踪したらしく、どうしようか本当に路頭に迷ってしまった時、救ってくれたのが、友人の弦巻アメらしい。
「そうなんですね。嫌な事をいっぱい話させたみたいですみません」
「…………全然驚いてない。もしかして私の家族のこと知ってたの……?」
「まさか。月宮さんが家族関係の話を持ち出されたく無かったように見えたのをきっかけに、少しだけ察することができただけです」
弦巻さんの話と彼女の話では、語られた内容の解像度が段違いで違う。
何故なら色々と抜けてる内容がある。
例えばどうして親だけではなく、私や弦巻さんを刺そうとするのか。
まぁここら辺も考察することはできる。
彼女の夢にはきっと、毎回のように家族の事が頭によぎるのだろう。
だから月宮さんは夢を見ないように、基本的に眠気が限界になるまで身体を酷使している。
彼女の配信のアーカイブ時間が酷かったり、学校の休憩時間は基本的に自分の席でほぼ仮眠で過ごしているのは、こういう理由が背景にあるのかもしれない。
弦巻さんと月宮さんでのこの話の解像度の違いには、彼女自身の自己理解の違いが出ている可能性がある。
おそらく月宮さんの事は彼女自身より、弦巻さんの方が遥かに詳しい。
弦巻さんが意のままに月宮さんを操れるようになってる時点で、その線が1番濃い。
……とはいえ生産性の無い話だし、これ以上知りたくなったら、弦巻さんにでも詳しく聞くとしよう。
私は月宮さんを後ろから抱きしめる形へと、体勢を変えさせた。
私の腕の中に彼女の華奢な背中を閉じ込める。
「その…………ごめん、本当にごめんなさい」
「え?」
「何でもするから許して欲しい……です」
「……本当に何でもですか?」
すると彼女は小さく首を縦に振った。
何でも願いが叶う。
今回の件、言ってしまえばここ数日の旅行全額奢りで、帳消しにしてもいいくらいの案件だ。
でも彼女はそう思っていないか、もしくはそれを認識できていない。
月宮さんには本当に申し訳ないが、ここはまたと無いチャンスだ。
「なら私の退学を許して下さい」
「――――――ッ?!」
腕の中にある身体が、岩のように硬直した。
「大丈夫ですよ。会える時間は減ってしまいますが、弁当は毎日朝早くに届けますし、お昼休憩にはちゃんと電話します」
「…………や」
「それに下校時刻になったら校門の前で待――」
「い、嫌ッ!!!」
私が続きを話そうとすると、月宮さんは途中で割って入ってきた。
「茜ちゃんはそんなこと言いながら、絶対に途中でいなくなる!!」
「………………」
「お父さんもお母さんもアメも!みんな適当なことばっか言っていなくなってた!!!」
「……私は違いますよ」
「違わない!!!!」
大きく叫んだ彼女に、私は言葉を返すことができなかった。
「…………だって今日の茜ちゃん、数日前までと比べてもすごく優しい筈なのに、それを台無しにするくらい――冷めてるもん」
……月宮さんにはそう見えてしまうのか。
今の私は、どうにか月宮さんに恋をしている現実に適応しようとした結果で、こういう態度を取ってしまっている。
今までのように私は、能天気に彼女からの行動に振り回されてはいけない。
希望のない恋に胸を高鳴らせるなど、あってはいけないという理由から心を凍らせていた。
そして彼女の予想は悲しいことに、当たっている。
正直、私はこの関係を終わらせたがっている面もある。
それを完全に否定する事はできない。
だって時間の無駄だから。
このまま私が月宮さんを好きなまま、それを言えず、しかも気持ちを押し殺したまま関係続けるなど、もはや苦痛でしかない。
そしてもしかしたら、学校生活での最中に、月宮さんと他の誰かが付き合う可能性がある事を考えると、それだけで反吐が出る。
ならば学校から退学し全ての人間関係を切って、月宮さんとの関係もゆっくりフェードアウトさせれば、私の傷も浅くすむと考えるのは自然なことだろう。
私がこの学校に縛り付けられている契約期間は、一年。
別にそれを待たずとも、ここでフェードアウトしてしまっても良いと思うのだ。
良い機会だ。
……もうここで一回、私も正直になっておくのも良いかもしれない。
「『冷めてる』ですか…………人の気も知らないくせに、ズケズケと言ってくれますね」
「茜……ちゃん?」
突然、乱暴になった私の口調に月宮さんは少し驚いていた。
「はぁ……一体、何だったら言うことを聞いてくれるんですか?」
「私から離れないなら、何でも……」
退学を認めてくれないクセに、何でもとはよく言ったものだ。
それならこっちは、残りのたった一つの願い事を提示させてもらう。
「――じゃあ一晩抱かせてください。退学がダメならそれでチャラにします」
「え…………ぇえッ?!」
月宮さんが驚愕してこちらを振り向こうとする。
私は咄嗟にその顔を左手で押さえ、強引に前を向かせた。
そして私はそのまま手のひらで、彼女の視界を覆った。
「いきなりで驚いちゃいましたか? 実は私、月宮さんの事を一人の女の子として、好きになっちゃってたんです」
「う、嘘でしょ……??」
「いいえ、本当です。貴女は気づいてなかったかもしれませんが、私は弦巻さんの煽りを受けてようやく月宮さんに対する好意を自覚しました」
「そ、そう……なんだ」
私は空いている右手で、彼女のパジャマの上から、その微かな鼓動を確かめるように胸に触れた。
「どうしました?……抵抗しないなら本当にやっちゃいますよ」
「茜ちゃんは私の事が本当に好きなの?……Vtuberとしての私じゃなくて?」
「そこは……本音を言えば自分でもよく分かってません。でも、弦巻さんと月宮さんのキスは今でも全く許せません。思い出すだけでお腹が煮えくり返りそうです」
「…………」
「なので月宮さんには今日だけ――私の物になって欲しいんです。この告白に返事は要りませんし、これ以上の関係を強要するつもりもありません。全部今日限りのそれっきりで終わりでいいんです。なので……」
月宮さんは私の宣告を聞き、長い沈黙に身を委ねた。
やがて、震える唇がゆっくりと開く。
「もしそれを断ったら?」
「私の手が少し湿ってるのには気づきましたよね? 貴女のせいで傷ついた手です。これを証拠に貴女を今すぐ警察に突き出します」
もちろん嘘だ。
そんな事、私にはできない。
大好きな人を警察に突き出すなんて暴挙、誰が出来るのだろうか?
「ふふっ……いつかの私みたいなこと、言うんだ」
「ちょっとした意趣返しですよ」
私がそう言うと月宮さんは少しの間黙り込む。
そしてゆっくりと口を開いた。
「そっか…………私にはまだ、そういうの理解できないけど…………それなら……仕方ないよね」
彼女は決心したように息を吐いた。
そして体を小さく振るわせた。
「いいよ。茜ちゃんの好きにして」
「…………」
「でも初めてだから……優しくして欲しい…………本当に本当に……優しくお願いします」
弱々しく、泣き出しそうな声音。
彼女は自分の身を犠牲にしてでも、私を失わないことを選んだのだ。
---
月宮さんは私の醜く歪んだ欲のために、その身体を差し出すことを選んでくれた。
好きでもない人間に抱かれることが、どれほどの屈辱と恐怖を伴うか。
それがここ最近で最も親しく過ごしてきた友人からの提案だというのなら、その絶望は察するに余りある。
私には絶対に耐えられないような苦行を、私は彼女に強要し、自身の欲を満たそうとしている。
――やっぱり私は、最低最悪の極悪人だ。
「はい、もちろんです」
私はゆっくりと、彼女の背後からその細い首筋に唇を寄せた。
パジャマのボタンを外そうとする指先が、先ほどの切り傷のせいでピリと痛む。
私の指先から滲む鮮血が、彼女の純白の衣類に、残酷な赤い染みを刻み込んでいく。
一つ、また一つとボタンを外し、パジャマのズボンの中に指を滑り込ませ、その絶対的な聖域に触れようとした、その時だった。
「茜……ちゃん……」
喘ぐような、懇願するような、私の名前を呼ぶ声。
その響きに私の身体は瞬時に氷結した。
……私は彼女の身体からそっと、その手を引いた。
「――やっぱりやめましょう」
「え?」
「月宮さんが一晩抱き枕になってくれれば、今日の事は無かったことにします。それにこっちは旅行費を全額奢って貰ってる身ですからね。ちょっと刺されたくらいで、ガタガタ言う方が野暮ってものです」
「いいの?何もしなくて」
「…………良いんです! 好きな人が嫌がってるのに、無理やりするなんて私のポリシーに反してますから」
「本当に私のこと、好きなんだ……」
「まだ疑ってたんですか?……何度も言わせないで下さい。私は月宮さんの事が大好きですよ!!」
「……でもシオンのことも好きなんでしょ?」
私はその質問から逃げるように立ち上がり、財布を手に持った。
「急にコンビニに行きたくなったので、行ってきます。すぐに戻ってくるので少しだけ待っててください」
「ねぇっ!シオンのことも好きなんでしょ!!……それって浮気って言わないの!!?」
「〜♪」
そして私は最低限の身なりだけを早々と整えて、鼻歌を歌いながらイヤホンを両耳に付けた後、ダッシュで部屋から飛び出した。
---
私はホテルの外に出て、コンビニまでの道を歩きながらさっきの出来事に頭を悩ませていた。
「…………やってしまいました」




