第100話 やっぱり負けちゃう人でなし
絞り出した掠れ声に、詩音さんは即座に応えた。
彼女は足早で目の前に回り込み、私の行く手を塞ぐように立ちはだかる。
「5分前のアナウンスが入った時から。きっと終わりを意識しちゃって、堪えきれなかったんだと思うよ」
「っ……」
「そういうところ、初めて会った時から全く変わらないよね」
「……違います。これは雨が目に入っただけで」
言い張る私の声は自分でも驚くほどに、情けなく震えていた。
自分の体だと言うのに、思うようにいかない。
湧き上がるイラ立ちとは裏腹に、涙は次から次へと溢れ出し、視界を歪めていく。
拭っても、拭っても、指先を伝う熱い雫が止まらない。
「往生際が悪いなあ、本当に」
詩音さんは呆れたように笑うと、私の拒絶を無視して、その冷たい指先で私の頬をなぞった。
「自分だけでやっていける? 二度と関わるな? ……そんな顔して言われても、ちっとも説得力ないよ」
「一人にしてください…………さっきみたいに花火を楽しんでれば良いじゃないですか」
「一人にしないしどこにも行かない」
詩音さんは宣告するようにそう言うと、私の左手を捕らえたまま、芝生の上に静かに膝をついた。
「それと茜に渡したい物があったんだ。受け取ってくれると嬉しいんだけど」
「渡したいもの……今この状況で?」
「うん。もし茜が眼鏡で私のことが見えなくて、今みたいに分かりやすい顔してなかったら、渡すの躊躇してたかも」
彼女は空いた方の手で自身のポケットを探り、小さな、だけど確かな重量感を持った何かを取り出した。
それは――銀色に鈍く光る、小さな指輪だった。
「っ……!?」
心臓が跳ね上がる。
それを意味すること。
そんなのは小学生でも分かる話だ。
こんな物を受け入れるわけにはいかない。
私は彼女の手を振り払おうと、手に力を込めるが……
「茜、嫌ならもちろん断ってくれていいよ」
突き放すような……でも震える声を被せられ、私の動きは止まった。
「お断り――」
「けどっ……!!!!!」
「……」
「これは私から茜への、人生で最後の告白だから……もしこの指輪を受け取ってくれないなら、私は今この瞬間を最後に、二度とあんたの前に姿を現さない」
「…………私は……」
「10秒だけ時間をあげる。10秒後に返答がなかったら、私はこのまま何もせず帰るから」
唐突に突きつけられた、あまりに身勝手な自分ルール。
そんなのは願ったり叶ったりだ。
自分からそうやって約束してくれるなら好都合。
もう二度とあんな無茶苦茶な配信で呼び出されることも、平穏をかき乱されることもない。
清々する。
心底、そう思えるはずだった。
……それなのに脳裏を埋め尽くすのは、詩音さんと積み重ねた、なんてことのない日々の残像。
胸が弾むような刺激ではない。
彼女の家のソファで、永遠に続くかと思えるほど微睡んだ午後。
朝の教室で交わした記憶にも残らないような瑣末な会話。
彼女の健康を案じながら、毎朝弁当を詰めていたあの日常。
「10秒経ったよ……答えは?」
「…………………………」
「ないんだね。じゃ、さよならかな」
詩音さんが、未練を断ち切るように背を向け、立ち去ろうとする。
その瞬間、私の身体が思考を追い越し、反射的に彼女を芝生の上へと押し倒していた。
「ずるい……! ずるい、ずるい、ずるいです……っ!!」
馬乗りになった私の目から、堰を切ったように溢れ出した涙が、彼女の頬へと絶え間なく零れ落ちていく。
「あれ、あんた誰だっけ? 私、どうでもいいことはすぐ忘れちゃうタチなんだよね。……それとも、どっかの誰かさんに、都合よく記憶を書き換えられちゃったのかな」
「どうして私が、貴女みたいな馬鹿女のために、こんな惨めな気持ちにならなきゃいけないんですか……っ! 世の中、絶対に狂っていますよ……っ!!」
「そうだね。世界が狂っているからこそ、私みたいな馬鹿女と茜が出会うっていう奇跡が起きたんだと思うよ」
詩音さんは私をゆっくりと押し上げ、座った体勢へと無理やり引き戻した。
「出血大サービスでもう一度だけ聞いてあげる。茜は私の物になる気ある?」
「……私は一人でだって生きていけます」
「指輪を受け取るつもりは?」
「…………理想を目指さないんだったら、どこに生きる意味を求めればいいんですか」
「これから死ぬまで私の隣にいるつもりは?」
「……………………弱肉強食は世の」
詩音さんの手が、私の浴衣の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「私をこれ以上待たせないで――返事は?」
逃げ場を許さない、静謐な真剣な眼差し。
これが最後なのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。
詩音さんは一度決めたことを決して曲げない。
今日この一秒を越えてしまえば、明日という地平に彼女という光は存在しないのだ。
私のこれからに彼女はいなくなる。
もう……私はダメだった。
結局どこまでいっても、理屈を並べても、私は詩音さんを求めてしまう。
どこまでいっても弱い藤崎茜のまま。
まんまとここへ誘導された時点で、彼女を切り捨てるという選択肢など、私には残されていなかったのだ。
私は涙を垂れ流す顔を右拳で拭い、震える左手を、ゆっくりと――捧げるように差し出した。
「……私に飽きたとか言いだしたら…………絶対に喰い殺してやりますからね」
呪詛のような私の言葉に、詩音さんは私の手を力強く掴み取って返した。
そして銀の輪を私の薬指へと、優しく滑り込ませる。
「負け犬の遠吠えだね。これから先はそんな事も言えないくらい、一緒に幸せを目指していくんだから、覚悟しておいてよ?」
………………あーあ。
結局詩音さんの言うとおり、負けちゃった。
理性ではこんなの絶対にダメだと分かってるのに、どこかホッとしている自分がいる。
ようやく楽になれるのだという、気持ちがある。
弱肉強食は世の常で、今の私からすれば他人なんて捕食対象でしかなく、弱者は淘汰されるべきで生きる価値はない。
もし私にどこまでも一人で進める足があったとすれば、私は他人が苦しんでいる姿を手を叩いて喜べる、人間として辿り着くべき到達点へと至れただろう。
けれどこれから先は詩音さんと、お互いに支え合っていく人生を歩んでいく。
きっと受け入れ難いこともいっぱい起きるはずなのに、私は彼女と共に生きることを選んでしまった。
もう迷うのはやめよう。
「詩音さん」
「なに?」
私は彼女の背に腕を回し、その細い体を壊さんばかりに強く抱きしめた。
「だい……すき、です」
「ぎこちないね」
「ちょっと……まだ心の整理がつききってない……ので、ごめんなさい」
「ううん、こっちこそだいぶ強引に進めちゃってごめんね? でもこうでもしないと、茜は決めきってくれないと思ったから」
「そうですね、そうかもしれません。……指輪のお返しはいつかします」
「えぇ、いらないよ〜。私には茜が編んでくれたマフラーがあるし」
「はぁ……あんな汚いもの、早く捨ててくださいよ」
私が腕を離すと詩音さんは満足げに微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
「絶対に捨てたりしないし、一生使えるようにちゃんとメンテナンスするつもり。それよりそろそろ私が取った場所でゆっくりしようよ」
「……そうしたいのは山々なんですけど」
「え、もしかして体調が悪い感じ?」
「ではなくて…………ちょっと腰が抜けちゃって立てないんです」
そう白状すると詩音さんは声を弾ませて笑い、迷わず私を背負ってくれた。
「……結構重い。フェスで膝に乗せた時は全然だったのに」
「失礼な、私の体重は平均より軽い方ですよ」




