第99話 本能はどうしようもなく詩音さんを求めている
詩音さんに手を引かれるまま、私はゆるやかな傾斜を描く芝生の広場へと足を踏み入れた。
「雨降ってきちゃった」
別にほとんど気にもならない程度の小雨だ。
天気予報も別に問題無かったし、空の様子もそこまで悪いものじゃないから、そのうち止むだろう。
「こんな小雨、すぐに晴れますよ」
「旅行の時のゲリラ豪雨は結構続いたけどね」
不意に繋がれた手の力が強まる。
指先が食い込むほどの、絶対に離さないという意志。
ただ純粋に私を渇望し、絡みついてくる彼女の情念が、その強さを通じて伝わってくる。
「茜はさ、Vtuberとしての私と現実の私に落差……っていうか、失望みたいなのはしたりした?」
「なんですか急に」
「ただの世間話と一年の振り返り。気にせず気楽に答えてよ」
そう言った彼女の横顔は、夜の闇に紛れてどこか頼りなく、迷子のような不安を抱えているようにも見えた。
「……それはもちろん、思うことくらいありましたよ」
「どんなの?」
「初めの印象は口が悪いけど仲間想いで、ゲームや歌が上手い超人的な人かと思ってました」
「うん」
「……いつかの時も言ったと思いますけど、私はそういう人望があって、なんでもできそうな理想の人に焦がれたんだと思います」
それこそあの頃は、詩音さんのことを神様のようにも見えていた。
私は盲目で彼女を追い続ける、愛の信徒だっただろう。
「そしたらここ一年くらいのせいで、やっぱり私の印象はだいぶ変わっちゃったよね」
「それはそうでしょう」
「あははっ……分かった。じゃあ今だけ私への悪口を許してあげる。存分に今の印象を言ってみて」
詩音さんは、凪いだ海のような静かな声で言った。
きっと彼女には彼女なりの意図があり、私に言葉を促しているのだろう。
私はその誘いを拒まなかった。
私の本音は熟練の編み手に糸を引かれるかのように、するすると彼女の手によって手繰り寄せられていく。
「……馬鹿で我儘で暴力的な人」
「他には?」
「…………救いようのないメンヘラで猪みたいに真っ直ぐ、それとすぐに怒りだす」
「確かにその通りだね。結構前にそれに近いこと茜に言われちゃった覚えがあるなぁ、懐かしい。……でもそれって茜もじゃない?」
「育ちが悪い、部屋が汚い、頭も悪い!」
「言い過ぎ!!!」
詩音さんは顔を真っ赤にして叫ぶと、下駄を履いている私の足を思い切り踏み抜いた。
「けど、私の良いところもいっぱいあったでしょ?一年も一緒にいたんだから」
「……くだらないですね。確かにあったかもしれませんけど、今私がそれを口にするわけないじゃないですか」
「そ、残念♪」
彼女は笑った。
私はそれと対象的に笑えない。
どうして詩音さんはそうやって笑っていられるんだろう。
私もきっと楽しいけど、そうやって自分を解放できない。
いや、違う。
楽しくなんかない。
もう私は詩音さんを必要としないくらい成長したんだから、そういう感情をこの人相手に抱いてはいけない。
ただただ虚しくなるだけなのだから。
「あっ、あそこ!」
そう言って詩音さんが、私たちのために確保された場所を指さした。
「結構離れたところに敷いたんですね。それに大きい……」
「これは茜に対しての配慮だよ。ありがたく思って――」
詩音さんの言葉が最後まで言い終わるより先に、花火が打ち上がり始めた。
大地を揺らすような重低音が、内臓にまで直接響く。
「わぁ」
彼女は用意したシートに座ることも忘れ、繋いでいた私の手を放した。
そのまま数歩、吸い寄せられるように前へ進み、夏に彩られた大空を見上げる。
「きれい……」
ついさっきまで狂おしいほどの執着を私に注いでいたはずの彼女。
でも今は後ろの私に目もくれず、夜空の火花に心を奪われている。
その事実がどうしようもなく癪に障った。
そのせいで私は、頭上に広がる花火を観る気にもなれない。
けれどそれを責める権利がないことくらい、自分でも理解できている。
「ん?」
だから私はせめてもの抵抗として彼女――の背中の服を、後ろから少しだけ強く指先で摘んだ。
俯き、視線を地面に落としたまま。
「詩音さんは初めて見たんですよね?……ここの花火」
「うん」
「見れば分かると思いますけど、ここの花火は他のところと違って、頭上いっぱいに広がるんですよ。凄く綺麗ですよね」
それこそ私のことなんかどうでもよくなるくらい、この光景は綺麗に映ったのだろう。
「下向きながら喋ってるのに、空の景色も分かるんだ?」
「今の私は化物なので、貴女なんかと違って五感の鋭さが段違いなんですよ」
「そうやって嘘ついちゃうのも私と似てるよね。本当は手を離されて寂しかったくせに」
「…………」
詩音さんは私の指に服を摘まれたまま、振り返ることなくそう告げた。
「私のこと――好き?」
「嫌いです、大嫌いです。なので私を突き放してください」
「そっちが強めに掴んでるのに、それはちょっと横暴すぎるでしょ……」
詩音さんは苦笑を漏らすようにして、私の指を優しく振り払った。
指先から熱が失われ私の心はさらに深く、光の届かない海の底へと沈んでいく。
「へ?」
声が漏れたのは、彼女の指が私の首筋に滑り込んできたからだ。
吸い付くような感触が耳の後ろを通り、私の視界をクリアにしてくれていた眼鏡を、ゆっくりと抜き取った。
彼女はそれを当然のように自分のポケットに収めてしまう。
「花火そっちのけで私のことばっかり見ちゃって。……そんなに求めてくれるなら、素直になって一緒に楽しんでくれればいいのに」
「眼鏡……返してください」
「茜はさ、どうして私があんたのことを好きになったか分かる?」
好きになった理由……
分からない、分かりたくもない。
「私は最初、絶対に裏切らない茜に対してただ純粋に、依存してたんだと思う」
「……恋と依存は似て非なるものです」
「そうだね。それに私は茜と違って、いっぱい選択肢もあるから」
そう。
彼女は普通で優秀な人間だ。
私以外にも、愛し愛される相手をいくらでも選べただろうに。
それこそ詩音さんは元々、異性愛者なのだから。
「でも私は茜を選ぶし、ずっと一緒にいてくれることを望んでる」
「私は……詩音さんとは違いますし、女です」
「化物とか性別が同じとか関係ない。これは純粋な好意だよ」
「…………」
「それに茜の悪いところなんかいっぱいあるし、直して欲しいところもある。けど、それを無視できるくらいの今までの積み重ねが茜にはある」
「……積み重ね」
「うん。私が思う好きっていうのは、やっぱりドキドキした瞬間とかじゃなくて、一緒にいてどれだけ安心できるかなんだと思う」
「……頭のおかしい化物が隣にいて安心できるのは、貴女くらいですよ」
私はそこで深く、肺の奥まで夜の空気を吸い込んだ。
彼女が放つ甘い空気に呑み込まれないように。
もう二度とブレないようにするため。
私は覚悟を決めてここにきているのだから。
「ねぇ、茜――」
「何度言われても答えは同じ、お断りします。私に貴女は必要ありませんから」
花火が頭上で無慈悲になり続ける。
私は剥き出しの瞳で彼女を射抜き、冷徹に言い放った。
「お互い好き同士なのに、私と一緒に歩く道を選んでくれないんだ?」
「詩音さんの理想と私の理想は、全く違うものですからね」
「茜が自分の理想を諦めて、私についてくるって選択肢はない?」
「世の中は弱肉強食で成り立ってるんですよ。私は二度と搾取される側にならない為に、頑張らないといけないんです」
「だから私が守ってあげるって言ってるじゃん」
また上からのもの言いだ。
守ってあげる? 私がいないと茜は幸せになれない?
ふざけたことばかり言ってくれる。
この人はどこまで私のプライドを逆撫ですれば気が済むのか。
「詩音さんがいなくても、私は自分一人でやっていけます」
私は彼女に背を向けた。
「今日ここに顔出したのは、自分の覚悟の再確認のためです。眼鏡に貴女のことが映ったのは想定外でしたけど、それでも私の心変わりません――二度と私に関わらないでください」
「そっか」
彼女は拒絶されたにも関わらず、どこか余裕そうなもの言いだった。
とても気に入らない。
けどもう要は済んだ。
言いたいことはいっぱいあった気がするけど、最低限はどうにか言い終えた。
それで十分。
これ以上、この場所に留まる理由はない。
もう……帰ろう。
私は鉛を詰め込んだような足取りで、どこかで寛いでいるはずの家族を探すべく、闇の中へ一歩を踏み出した。
「茜はいっぱいいっぱいだから、自分のことにも気づかないんだね」
うるさい、話しかけるな、黙れ。
暴言を投げつけたい衝動を必死に抑え込む。
詩音さんに反応してしまえば、またあちらのペースに引き摺り戻されるだけだ。
ここは無視を貫くのが最善。
そう自分に言い聞かせ足を早めようとした、その時。
「自分の顔に触れてみて――茜はずっと泣いてたんだよ?」
心臓を素手で掴まれたような気がした。
私が泣いている?
そんなわけがない。
でも……
私は震える指先で、おそるおそる自分の目元に触れた。
指先が触れたのは、微熱を帯びた確かな湿り気。
「いつ…………から……」




