第8話 空の旅と甘い寄り道
ひゅううっ――。
風が頬を撫で、指の間をすり抜けていく。
クーの柔らかな毛にぎゅっとつかまりながら、思わず息を弾ませた。
(……わあ。空を飛ぶって、こんなに気持ちがいいんだ)
「ぎゃああああああああーーーーー!」
(……なんだか、後ろでアビゲイルさんの叫び声がするような……)
後ろを振り返ろうとすると、
〈きっと、嬉しくてはしゃいでるんだよ! ルシアは落ちないように、前を向いてしっかりつかまっててね!〉
「そっか。うん!」
(……なんだかクーの声、とっても弾んでる?)
(……空を飛ぶのが好きなのかな……?)
クーの楽しそうな声につられて、私まで嬉しくなった。
黒いヴェールが、ふわふわと後ろへ流れていく。
その上にかぶったローブのフードも風に揺れ、フードについた二つの飾り耳がぱたぱたとなびいていた。
片手でクーの毛を握ったまま、そっとフードの耳に触れる。
指先で、その形をゆっくりとなぞった。
(…………)
ほんの少しだけ、口元が緩む。
それから、顔を上げた。
眼下には、まだ王城の大きな輪郭が広がっている。
その向こうには、いくつもの建物が並んでいた。
大小さまざまな屋根が幾重にも重なり、その隙間を縫うように道が伸びている。
獣国に来た日の夜にも感じた街並み。
けれど、こうして風を感じながら眺めると、まるで違う場所のようだった。
さらにその向こうには、周囲とは違って、こんもりと盛り上がった大きな輪郭が浮かんでいる。
いくつもの丸いものが、寄り添うように重なっていた。
(……あっ。昨日のマシュマロみたいな……)
(……やっぱり、森なのかな……?)
(……とっても大きくて、広い……)
(……あの中には、何があるんだろう……?)
そんなことを考えていると、
カーン、カーン……。
遠くから、澄んだ鐘の音が風に乗って届いた。
長い余韻が、街のざわめきにゆっくりと溶けていく。
(……ん?)
音のする方へ顔を向ける。
風の音に混じって、かすかに声が聞こえてきた。
笑い声や、誰かを呼ぶ声。
何を話しているのかまでは分からないけれど、街の賑わいが少しずつ伝わってくる。
(……すごい……)
夢の中で、アルお兄ちゃんが教えてくれた獣国の城下町。
ずっと、お話の中にしかなかった場所。
それが今、自分のすぐ下に広がっている。
(……本当に、来ちゃった……)
胸の奥が、きゅうっとなる。
(……アルお兄ちゃん……)
(……お兄ちゃんが教えてくれた街って、こんなに賑やかだったんだね……)
〈ルシア、あそこだよ!〉
クーの声とともに、身体がゆっくりと下がり始めた。
(……わっ)
思わず、クーの柔らかな毛をぎゅっと握る。
風がローブの裾を揺らし、身体がふわりと浮くような感覚がした。
さっきまで遠くに聞こえていた人々の声が、少しずつ近づいてくる。
どこからか、食べ物の香ばしい匂いも漂ってきた。
(……いい匂い……)
クーの身体がゆるやかに傾く。
賑やかな通りから少し離れると、騒がしい声も次第に遠ざかっていった。
ふわり。
身体を包んでいた風が弱まり、クーの背中が小さく揺れた。
やがて、人通りの少ない場所へ静かに降り立つと、ゆっくりと身体を低くしてくれた。
柔らかな毛につかまりながら、そっと背中から降りる。
足の裏に、地面の感触が伝わってきた。
(……わぁ……!)
(……ここが、獣国の城下町……!)
思わず、小さく足踏みした。
(……ふふぅ……!)
「……はぁ……」
フィラックスから降りてきたミーナさんが深く息を吐いた。
「こ、怖かったです……でも……」
垂れていた耳が、ゆっくりと持ち上がる。
「……あんなに高い空を飛んだの、初めてでした……!」
ミーナさんは、もう一度空を仰いだ。
「……最初は、怖くて仕方なかったんです。でも……」
「あんなに高いところから、お城や街を眺められるなんて……!」
ほうっと、感嘆の息が漏れた。
「……それも、野生のフィラックスに乗って……」
「……私、一生忘れません……!」
その声には、まだ少し震えが残っていたけれど、どこか弾んでいるようにも聞こえた。
「……わ、悪くはありませんでしたわ」
アビゲイルさんは、何事もなかったかのようにミーナさんの隣でローブの裾を整えている。
二人ともフードを背中に下ろしていた。
アビゲイルさんの長く波打つ髪が風に揺れ、その上には尖った猫耳がぴんと立っている。
隣では、ミーナさんのリボンで結ばれたふんわりとした髪が、長い耳と一緒にそよそよと揺れていた。
ローブの裾からは、それぞれの尻尾が伸びている。
けれど、アビゲイルさんの尻尾だけは、落ち着きなく左右に揺れていた。
(……ふへへ。さっきはあんなに大きな声ではしゃいでいたのに……)
(……アビゲイルさん、やっぱりツンデレさんだなぁ……!)
「ふふっ。楽しかったですね!」
思わず言葉が出る。
「……は、はい!」
ミーナさんの声に、かすかな笑いが混じった。
(……あっ!)
(……ミーナさん、笑ってくれた……!)
なんだか嬉しくなって、私ももう一度笑った。
「……まったく。お二人とも、ずいぶん呑気ですこと」
アビゲイルさんが呆れたように言った。
すると、クーが、ミーナさんとアビゲイルさんを乗せてきた二頭のフィラックスに向かって鳴いた。
「きゅっ!」
その声に応えるように、二頭がそばへ近づいて、顔を寄せてくる。
「ひゃっ……!」
ミーナさんの短い悲鳴が聞こえた。
アビゲイルさんも、一歩、また一歩と後ずさる。
(……あれ?)
二人とも、少し離れたところにいる。
(……どうしたんだろう……?)
首を傾げながら、目の前の二頭へ手を伸ばした。
(……ミーナさんとアビゲイルさんを連れてきてくれて、ありがとう!)
一頭ずつ、そっと撫でる。
ふわふわの毛並み。
手のひらに伝わる、温かな身体。
二頭は気持ちよさそうに喉を鳴らし、私の手にそっと頭を擦り寄せてきた。
「きゅう……」
「きゅっ!」
〈つ……ぎ……ぼく……乗……せる……!〉
〈わ……た……し……も……!〉
(……え?)
二頭が競うように顔を寄せてくる。
〈ぼ……く……!〉
〈わ……たし……!〉
(……ふふっ。二人とも、ありがとう!)
すると、クーが二頭の間にすっと顔を割り込ませた。
「きゅうっ!」
〈だーめ! ルシアは僕が乗せるの!〉
(……あれ?)
二頭が、ぴたりと動きを止める。
〈ず……る……い……〉
〈オ……ル……ア……〉
クーは当然とでもいうように、胸を張った。
〈僕がずっと一緒にいるんだから!〉
(……オルア?)
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
(……どういう意味なんだろう……?)
「……あ、あの……」
少し離れたところから、ミーナさんの声がした。
「……だ、大丈夫ですか……?」
「はい!」
(……どうして、そんなことを聞くんだろう……?)
不思議に思いながら二人の方へ意識を向けると、いつの間にか、ずいぶん離れたところにいた。
(……あっ。二人とも、怖がってるのかな……?)
(……フィラックスが優しいって、教えてあげたいな……!)
「みんな、とっても優しいんですよ! こっちへ来ませんか?」
「えっ……! え、遠慮しておきます……!」
ミーナさんの長い耳が、ぺたりと伏せられた。
隣では、アビゲイルさんが腕を組んでいる。
「……まったく。いつまでそうしているおつもりですの」
けれど、こちらへ近づいてくる様子はない。
尻尾の先だけが、ぴくぴくと落ち着きなく動いていた。
(……?)
二頭は少し不満そうに喉を鳴らしたものの、もう一度そっと顔を寄せてきた。
〈つ……ぎ……は……ぼ……く……が……〉
〈わ……たし……も……乗……せ……たい……〉
(……ふふっ。うん! ありがとう!)
「きゅう!」
「きゅっ!」
二頭は嬉しそうに鳴いた。
そして、ふわりと身体を浮かせると、空へと舞い上がっていった。
その気配が遠ざかっていく。
「……行きましたね……」
すぐそばから、ミーナさんの声が聞こえた。
いつの間にか、二人とも近くに戻ってきていた。
「……さあ、参りましょう」
何事もなかったかのように、アビゲイルさんが言った。
尻尾が、ゆっくりと左右に揺れている。
「市場でしたら、わたくしも何度か足を運んだことがありますわ」
「そうなんですか!」
思わず声が弾む。
「ええ。ですが、その前に一つ、お伝えしておきたいことがございます」
尖った耳が、こちらを向いた。
「はい!」
「市場には大勢の獣人が集まります。わたくしたちは耳がよいですから、どこで誰が話を聞いているか分かりませんわ」
「……そうなんですか?」
「ええ。ですから、安全のためにも、ここからは皇女様を『お嬢様』とお呼びいたしますわ」
「……お嬢様?」
「はい。くれぐれも、お立場を知られるようなことはなさらないでくださいませ」
「……わかりました!」
「ミーナ、あなたもよ。くれぐれも呼び間違えないように」
「は、はいっ! 気をつけます!」
ミーナさんの長い耳が、ぴんと立った。
「……それでは、お嬢様」
「はい!」
「……いったい、市場で何をなさるおつもりですの?」
「種を探しに来ました!」
「……種?」
ぴくり、と耳が動いた。
「はい! お庭で食べ物を育てたくて!」
「……食べ物を?」
怪訝そうに聞き返された。
「……まあ、それだけが目的とは思えませんけれど……」
(……?)
(……種を探す以外に、何かするのかな……?)
「……そうですか。この国で何をなさるおつもりなのか、わたくしがしっかりと見届けさせていただきますわ」
アビゲイルさんは小さく息を吐くと、尻尾の先をぴしりと一度だけ揺らした。
(……あれ?)
(……さっきも、そんなことを言っていたような……)
(……アビゲイルさんって、とっても責任感が強いんだなぁ……!)
「……あ、あの……」
ミーナさんが、おずおずと口を開いた。
「わ、私は、こちらの市場にはあまり来たことがなくて……」
「まあ、そうでしたの?」
「は、はい……。こちらは、いい品物ばかりが並んでいるので……」
長い耳が、不安そうに揺れた。
「私は市場に来ること自体、生まれて初めてです。でも、本で読んだことがあります。たくさんおいしいものが売っている場所だって!」
(……ふふぅ。市場なんて生まれて初めて!)
(……どんなお店があるのかな? 楽しみ!)
(……種も、いっぱいあるといいなぁ……!)
「……まあ、わたくしも何度か来たことがありますから、安心してついてきてください」
アビゲイルさんの耳がぴんと立ち、尻尾の先がゆったりと揺れた。
「ただし、くれぐれも勝手な行動はなさらないでくださいませ」
「はい! ありがとうございます!」
(……ふふっ。アビゲイルさん、頼もしいなぁ!)
〈僕も! 案内できるよ!〉
隣でクーが、ふさふさの尻尾を嬉しそうに振った。
その身体が、みるみる小さくなっていく。
「きゅう!」
とてとてと、私の足元に駆け寄ってきた。
〈ルシア、行こう!〉
(……うん!)
こうして、私たちは市場へと向かったのだった。
◇◇◇◇
しばらく歩くと、遠くから賑やかな声が聞こえてきた。
近づくにつれて、呼び込みの声や人々の笑い声が、次第にはっきりとしてくる。
石畳に響く足音も、いつの間にか増えていた。
ときおり、がらがらと荷車の車輪が鳴り、誰かが大きな声で道を譲るよう呼びかけている。
(……なんだか、賑やかになってきた……!)
やがて、魔素の向こうに、大きく開けた場所があるのを感じた。
その先には、いくつもの建物や、人々の輪郭が重なっている。
風に乗って、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
(……あれ?)
(……いい匂い……!)
一歩、足を踏み入れた。
途端に、それまで遠くに聞こえていた声が、一斉に押し寄せてきた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 東の兎族の村から届いた、朝露をまとった甘い果実だよ!」
「西の牛族の牧場から届いた新鮮なミルクはいかがな! 濃厚で、ひと口飲めば頬が緩むよ!」
「焼きたてのお菓子はいかが! 兎族の野原で集めた蜂蜜をたっぷり練り込んだ、外はさっくり、中はふんわりの焼き菓子だよ!」
あちらこちらから、威勢のいい声が飛び交っている。
焼きたてのパンの香ばしい匂い。
その向こうから、ふわりと甘い香りが流れてきた。
(……あれ?)
(……シナモン……?)
ほんのり甘くて、少しだけ刺激のある香り。
(……何のお菓子だろう……?)
すると今度は、じゅうじゅうと何かを焼く音が聞こえてきた。
バターの溶けるような香りに、こんがり焼けた生地の匂い。
その隙間から、熟した果実の甘酸っぱい香りまで漂ってくる。
(……わぁ……!)
(……あっちにも、こっちにも、おいしそうなものがいっぱい……!)
いろんな匂いが混ざり合っている。
それなのに、シナモンの香りも、焼きたてのパンの匂いも、ちゃんと分かる。
(……ふふっ。おいしそうな匂いって、すぐに見つけちゃう……!)
まるで、いろんなおいしさが、風に乗って追いかけっこをしているみたいだった。
まだ何も食べていないのに、頭の中には、甘いお菓子や果物が次々と浮かんでくる。
『こっちだよ!』
『こっち、こっち!』
まるで、みんなが私に食べてほしくて、呼びかけているみたい。
(……ふふぅ……!)
(……どの匂いから追いかけよう……?)
本の中でしか知らなかった世界が、今、私のすぐそばにある。
(……わぁ……!)
思わず足を止めた。
(……ここが……獣国の市場……!)
「きゅう!」
足元から、クーの元気な鳴き声が聞こえた。
〈ルシア! ここなら、きっと種が見つかるよ!〉
(……本当!?)
〈うん! いろんなものが集まる場所なんだよ! 甘いものも!〉
(……ふふぅ! 甘いもの……!)
思わず唇を結び、こくんと喉を鳴らした。
(……いちごの種も、あるといいなぁ……!)
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
ミーナさんが、そっと声をかけてきた。
「すごいですね! こんなにたくさんの獣人さんに、食べ物の匂い!」
「ふふっ。本当ですね!」
ミーナさんの長い耳が、ぴくりと動いた。
「……お嬢様」
アビゲイルさんの声がした。
「市場が珍しいのは分かりますけれど、あまり立ち止まっていらっしゃると、通行の妨げになりますわ」
「あっ、すみません!」
慌てて道の端へ寄る。
そのとき。
「おっと、通るぜ!」
すぐそばを、大きな荷車が通り過ぎていった。
がらがらと響く車輪の音。
それに混じって、力強く規則正しい足音が聞こえる。
「……まったく。危ないところでしたわ」
アビゲイルさんが、小さく息を吐いた。
隣では、ミーナさんの長い耳が、驚いたようにぴんと立っていた。
「お嬢様、お怪我はありませんか?」
ミーナさんが、心配そうに尋ねてくる。
「はい! 大丈夫です!」
「……それなら、よかったです」
ほっとしたような声だった。
(……ふふっ)
(……ミーナさんもアビゲイルさんも、優しいなぁ……)
ふと、通り過ぎていく荷車の方へ意識を向けた。
荷車を引く獣人さんの輪郭が、魔素の中に浮かび上がる。
頭の上には、すらりと伸びた耳。
その後ろでは、長い尻尾がゆったりと揺れていた。
(……わぁ……!)
その後ろを、小柄な獣人さんが駆けていく。
周囲にも、さまざまな形の耳があった。
ぴんと立った耳。
丸い耳。
長く垂れた耳。
長い尻尾を持つ人もいれば、短い尻尾の人もいる。
(……本当に、いろんな獣人さんがいるんだ……!)
魔素が形づくる輪郭は、人間とは違う彼らの姿を伝えてくれた。
そのとき、懐かしい声が蘇った。
『ルー、獣国にはね、いろんな部族の獣人が暮らしているんだ』
夢の中で、アルお兄ちゃんが教えてくれたこと。
『……いろんな部族?』
『そうだよ。獣人たちは、似た特徴を持つ部族同士で、大きく十二の集団に分かれているんだ。それを十二大族と呼ぶんだ』
『……じゅうにたいぞく?』
『そう。例えば、齧歯大族には鼠獣人や栗鼠獣人、牛大族には牛獣人や羊獣人、猫大族には猫獣人や虎獣人がいる』
『……ねこ!』
『はは。ルーは猫が好きだね。それから、兎大族、熊大族、鹿大族、馬大族……』
『……まだあるの?』
『もちろん。鼬大族、犬大族、猪大族、鯨大族、ハイエナ大族だよ』
『……いっぱい!』
『全部覚えなくても大丈夫だよ』
アルお兄ちゃんが優しく笑った。
『獣人たちは、頭にそれぞれの獣の耳を持っているんだ。長い兎耳、丸い熊耳、尖った猫耳。それに、尻尾の形も部族によって違う』
『……お兄ちゃんみたいに、みんなモフモフしてるの?』
『はは……。多分ね。ルーは本当にモフモフしたものが好きだね』
『うん。モフモフ大好き……触ってると落ち着くの』
『みんなの尻尾も触りたいな』
『っ……』
『……どうしたの?』
『ルー、他の獣人の尻尾は、あんまり触らない方がいいよ』
『……どうして?』
『……とげとげしてるから』
『えっ……?』
『僕の尻尾が、一番モフモフしてるんだ』
先ほどまで地面についていたアルお兄ちゃんの尻尾が、頬をかすめる。
『……モフモフ……幸せ……』
『ルーだから、いっぱい触ってもいいよ。その代わり、他の尻尾は触っちゃ駄目だよ』
太陽の匂いがする柔らかい毛。
その感触に、ずっと触れていたい気持ちになった。
『尻尾も耳も、感覚が敏感なところだからね。誰にでも触らせていいものじゃないんだ』
『……どうして?』
『……それは、もう少し大きくなったら教えるよ』
『……知りたい!』
『えっと……ど……どこまで話したっけ……』
『尻尾モフモフ!』
『……そうだ。ありがとう、ルー』
アルお兄ちゃんが、少し困ったように笑った。
『それに、獣人たちは部族によって得意なことも違うんだ。耳がよかったり、力持ちだったり、遠くまで走れたりね』
『……すごい!』
『みんな、それぞれの得意なことを生かして暮らしているんだよ』
がらがら……。
荷車の車輪が、石畳の上を転がっていく。
(……アルお兄ちゃんが教えてくれたとおりだ……!)
耳も、尻尾も、みんな違う。
(……あっ!)
(……じゃあ、さっきの荷車を引いていた獣人さんは……)
もう一度、遠ざかっていく足音に耳を澄ませる。
(……馬獣人さん、だったのかな……?)
(……すごいなぁ……!)
嬉しくなって、あちこちへ顔を向けた。
(……アルお兄ちゃん、私、ちゃんと覚えてたよ!)
(……ふふぅ!)
ふと、頬をくすぐった柔らかな尻尾を思い出した。
(……また、モフモフしたいなぁ……)
(……ふふっ)
けれど、最後に会ったときのことを思い出すと、胸がきゅっとなった。
(……アルお兄ちゃん……)
(……今、どうしてるのかな……?)
(……元気だといいな……)
獣王様は、アルお兄ちゃんを探してくださると約束してくれた。
(……いつか、きっと会えるよね……!)
そのとき。
ふわり。
甘い匂いが鼻先をくすぐった。
(……ん?)
もう一度、くんくんと鼻を動かす。
(……なんだろう……?)
とても、とても甘い匂いがする。
(……あっち……?)
香りに誘われるように、とてとてと足を進めた。
「お、お嬢様……!」
後ろから、ミーナさんの慌てた声が聞こえた。
「……まったく。勝手に歩いてはいけないと申し上げたばかりですのに」
(……あっ!)
(……甘い匂いに夢中になっちゃった……)
「……すみません!」
そう言いながら、屋台の前で足を止めた。
「……!」
そこには、何かを焼いている屋台があった。
じゅうじゅうと、小気味よい音が聞こえてくる。
焼けた果物の甘酸っぱい香りに、濃厚な蜜の匂いが重なっていた。
(……おいしそう……)
屋台の向こうには、ふっくらとした大きな獣人さんが立っていた。
頭の両側には、ぐるりと渦を巻いた立派な角。
その下から、細長い耳が横に伸びている。
(……羊獣人さん、かな?)
(……あの角……)
(……くるくるしたパンみたい……)
(……ふふっ。なんだか、お腹が空いてきちゃった……)
じゅうじゅう。
そのとき、甘い香りがいっそう強くなった。
(……あっ!)
(……こっちも、おいしそう……!)
店主さんは、焼き上がった何かを皿にのせると、小さな容器を傾けた。
とろり。
甘い香りが、ふわりと広がる。
(……あっ……)
(……この匂い……!)
「はいよ! 蜂蜜がけの焼きリンゴ、お待ちどうさま!」
(……りんご!)
(……はちみつ……!)
「おっ、うまそうだな!」
「だろう? 焼きたてだからな!」
お客さんが代金を渡し、焼きリンゴを受け取った。
(……あっ)
つい、その手の動きを追ってしまう。
焼きリンゴが遠ざかるにつれて、甘い香りも少しずつ薄くなっていった。
(……行っちゃった……)
すると、また新しい焼きリンゴが皿にのせられた。
(……!)
今度は、そちらに意識が向く。
とろり、と蜜がかけられる。
(……おいしそう……)
「なあ、親父。熊族の琥珀蜜は、まだ入らないのか?」
客の一人が尋ねた。
「……ああ。しばらく入荷してねえな」
「今年もか?」
「ああ。向こうじゃ、森の木が次々に枯れてるって話でな」
「おいおい、熊族の里は大丈夫なのか?」
「さあなぁ……。詳しいことまでは分からねえが、あまりいい話は聞かねえな」
(……?)
(……森の木が、枯れちゃうの……?)
少し気になった、そのとき。
じゅうじゅう……。
甘い香りが、また鼻先をくすぐった。
(……あっ!)
(……次のが、できた……!)
店主さんの手が、皿へと伸びる。
(……食べたい……)
じっと、店主さんの手元に意識を向ける。
一つ、また一つ。
焼きリンゴが作られては、お客さんの手に渡っていく。
そのたびに、私の意識もあっちへ、こっちへ。
「…………」
ふと、店主さんの手が止まった。
「……嬢ちゃん」
「……はい?」
「さっきから、ずいぶん食べたそうにしてるなぁ」
「……!」
「ははっ。そんなに蜂蜜が好きなのかい?」
(……はちみつ……!)
(……好き……!)
思わず、こくこくと頷いた。
すると、店主さんが豪快に笑った。
「はははっ! そうか、そうか!」
「だったら嬢ちゃん、ちょっと待ってな!」
(……えっ?)
第8話を読んでくださり、ありがとうございます!
第7話に引き続き、今回も少し長めのお話になってしまいました(笑)。
ルシアの初めての城下町を描いていたら、あれもこれもと書きたいことが増えてしまい……。
気づけば、またまたこの文量に(笑)。
それだけ、作者としても楽しく執筆できた回でした!
さて、今回はいよいよルシアが初めて獣国の城下町へ!
……の前に、まずはフィラックスたちとの空の旅から始まりました(笑)。
ルシアにとっては、風を感じながら空を飛ぶ、とっても楽しい時間だったようです。
一方、アビゲイルはというと……。
「ぎゃああああああああーーーーー!」
……はい。なかなか賑やかな空の旅になりました(笑)。
それなのに、クーの説明をすっかり信じて、アビゲイルが喜んでいると思っているルシア。
相変わらず、どこか天然な皇女様です。
そして、今回もフィラックスたちが大活躍!
ルシアを次に乗せたい二頭と、絶対に譲りたくないクー。
どうやら、ルシアを巡って小さな争いが起きているようです(笑)。
そんなフィラックスたちと別れ、いよいよ市場へ。
初めての城下町に、ルシアは興味津々!
賑やかな声に、さまざまな獣人たち。そして、あちらこちらから漂ってくるおいしそうな香り。
アルお兄ちゃんから聞いていた獣国の世界が、少しずつ現実のものになっていきます。
今回は、獣国の十二大族についても少しご紹介できました。
これから登場する獣人たちの耳や尻尾にも、ぜひ注目していただけたら嬉しいです!
それにしても、アルお兄ちゃん。
自分の尻尾が一番モフモフだと主張するあたり、なかなか独占欲が強そうですね……(笑)。
そして、肝心のいちごの種探しはというと……。
甘い香りに誘われ、ルシアは焼きリンゴの屋台へ。
……あれ?
種を探しに来たはずなのですが(笑)。
果たして、ルシアは無事にいちごの種を見つけられるのでしょうか?
次回も、城下町での小さな冒険が続きます!
◇◇◇
そして、Instagramのお知らせです!
最近、新しく第1話の「契約」の場面をリールにして公開しました!
ルシアが獣王に三つの願いを伝える、あの場面です。
小説では文章で描いているルシアの仕草や、黒いヴェール、紫の宝石のきらめきなどを、アニメーションのような演出で表現してみました。
特に、ルシアが一生懸命にお願いを伝える姿を、可愛らしく描けるよう工夫しています!
獣王の反応にも、ぜひ注目していただけたら嬉しいです(笑)。
小説を読んでくださっている方にも、イラストやリールを通して、また違った形で物語を楽しんでいただけたらと思っています。
漫画やキャラクターイラストなども公開していますので、ぜひInstagramにも遊びに来てください!
Instagramはこちら
https://www.instagram.com/nono.8893307
これからも週1回の更新を目標に、ルシアたちの物語を大切に書き進めていきたいと思います。
次回、第9話も楽しんでいただけたら嬉しいです!
© 2026 Nono
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