第6話 小さな皇女と凶暴な獣の湯浴み
一歩足を踏み入れると、足元がふかっと沈んだ。
(……えっ?)
思わず足を止める。
恐る恐る、もう一歩。
ふかっ。
(……!)
もう一度、そっと足を踏み込んでみる。
ふかっ、ふかっ。
(……ふふっ。床がふかふかだ!)
どこからか、薪のはぜる音が聞こえてきた。
パチッ、パチパチッ。
(暖炉まであるんだ……!)
魔素の淡い光を頼りに、部屋の中を探る。
机に椅子。
そして、奥には大きなベッド。
(……こんなに広いお部屋を、私一人で使っていいのかな)
思わず息を呑む。
その時、ベッドの横にあるものに気づいた。
(……!)
(なんと!大きな窓だ!)
嬉しくなって、思わず駆け寄る。
(本当に窓だ……!)
しかも、窓の向こうには、さらに空間が続いている。
(……あれ?)
(バルコニーだ!)
(……でも、出てもいいのかな)
「あの……自由に外へ出てもいいのですか?」
「妙なことを聞かないでください。当たり前です」
アビゲイルさんの呆れたような声が返ってきた。
(やった!)
大きな窓を開けた。
途端に、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。
それでも、外の空気に触れられることが嬉しくて、寒さなんて少しも気にならなかった。
バルコニーへ出ると、魔素の淡い光の中に、広々とした庭園の輪郭が浮かび上がる。
石畳の小道が伸び、その両脇には、綺麗に整えられた木々が連なっていて、庭園の中央からは、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。
(……噴水?)
耳を澄ませる。
ちょろちょろ、さらさら。
(ふふっ。本当に噴水だ!)
さらに庭へ意識を向けると、木々の間に、いくつもの小さな輪郭が浮かび上がっていた。
(……あれ?)
ほかの植物よりも、ずっと鮮明な輪郭。
花びらの一枚一枚まで、はっきりと感じ取れる。
その時、風に乗って甘い香りが漂ってきた。
(……この匂い)
バニラに似た、優しい香り。
(もしかして……セルリアの花?)
夜になると花を開き、赤く灯る不思議な花。
塔に入る前に見た、ほのかに光る赤い色が、ふと脳裏によみがえった。
一つ、二つ、三つ……。
庭のあちらこちらに、セルリアの花が咲いている。
冷たい夜風に揺れるたび、花びらの輪郭が優しく揺らめいた。
(……こんなにたくさんのセルリアの花が咲いているなんて)
〈きれいだね〉
フィラックスが隣に並び、そっと身体を寄せてきた。
ふさふさの尻尾の先が、私の腕に優しく触れる。
その温もりを感じながら、しばらく庭園に意識を向けていた。
(……こんなに素敵なお庭があるなんて)
思わず頬が緩む。
〈ルシア、嬉しそう〉
(うん! とっても!)
フィラックスが嬉しそうに「きゅう」と鳴いた。
そのとき、
「……いつまでそこにいるんですか?」
アビゲイルさんの声に、はっと我に返った。
「あっ、すみません!」
慌てて部屋へ戻る。
けれど、どうしても気になることがあった。
「あの……バルコニーの向こうにお庭がありましたよね……? お庭にも出ていいんですか?」
「……当たり前のことを聞かないでください」
アビゲイルさんの猫耳が、呆れたようにぴくりと動いた。
(……うれしい)
「ありがとうございます」
すると、尻尾が一瞬ぴたりと止まった。
「っ……いいから、早く水浴びをしてください。あなたがいつまでも動かないと、こちらが寝るのも遅くなるんです」
アビゲイルさんは尻尾を苛立たしげに左右へ振った。
「すみません……」
「……ミーナ! 早く準備して!」
鋭い声と共に、猫耳が後ろへ倒れる。
「は、はいっ!」
ミーナさんの耳がびくりと跳ねる。
案内された浴室へ足を踏み入れると、思わず立ち止まった。
(……えっ?)
高い天井。
どこまでも広がるような空間。
そして、部屋の中央には、見たこともないほど大きな浴槽があった。
(……これ、本当にお風呂?)
浴槽の縁は、私の胸元近くまである。
その向こうから、ふんわりと甘い香りが漂ってきた。
温かな湯気が頬を撫で、浴室全体を優しく暖める。
思わず浴槽に近づいた。
(これ、何人入れるんだろう……)
「早く服を脱いでください」
アビゲイルさんの声に、はっと我に返った。
「あっ、その……自分でできます。洗うのも、大丈夫です」
「そうですか。では、終わったら声をかけてください」
「えっ、いいんですか? 本当に?」
ミーナさんの長い耳がぴんと立った。
そのまま、ぴくぴくと小さく揺れている。
「馬鹿にされているのよ。なんでミーナには分からないの。いいから、早く行くわよ」
猫耳を後ろへ伏せ、尻尾を大きくひと振りすると、そのまま出ていってしまった。
(……馬鹿にしてる?)
(……誰が?)
(……私が?)
首を傾げて考えてみたけれど、さっぱり分からない。
(……まあ、いっか)
ベールを外す。
このベールと黒いドレスは、どちらもお母様が私のために作ってくださった大切なものだ。
ベールには透視魔法が施され、布越しでも魔素の輪郭を感じ取れるようになっている。
繊細なレースがふんだんに使われた黒いドレスは、身体の成長に合わせて大きさが変わり、さらに、季節を問わず快適に過ごせるよう、服の中の温度も一定に保たれている。
背中には、取り外しのできる大きなリボン。
その柔らかな布地を指先で撫でると、ふと、お母様の優しい声がよみがえった。
『私の可愛いルシア。お母様がベールとドレスを作ってあげる。ふわふわのドレスにしましょうね。何色がいい?』
『ルシア、黒がいい!』
『本当に黒でいいの? 白の方が似合うと思うわよ』
『ううん! 黒がいいの!』
何度聞かれても譲らない私に、お母様は困ったように笑いながら、優しく頭を撫でてくださった。
『ふふっ。分かったわ』
お母様は皇后という立場にありながら、自ら服のデザインや刺繍を手がける方だった。
その腕前は、皇宮のお針子たちも認めるほどだったという。
(……お母様)
私はそっとリボンを撫でた。
それから、水魔法でベールとドレスを綺麗にし、用意されていた籠の中へ丁寧にしまった。
髪をほどくと、長い髪がさらりと背中に落ちる。
(さてと……ふふぅ)
浴槽の近くには、身体を洗うための石鹸が置かれていた。
手に取ると、ふわりとバラの香りが広がる。
(……いい匂い)
石鹸を泡立てると、手のひらいっぱいに、きめ細かな泡がふんわりと膨らんだ。
(わあ……ふわふわ)
その泡で、そっと頬を洗う。
「……っ!」
傷口がじんとしみた。
(……あ、そういえば怪我をしていたんだ)
指先に魔力を集めた。
淡い光が頬に吸い込まれていく。
そっと触れてみると、先ほどまでの痛みは消えていた。
(……よし!)
身体を洗い終えると、傍らにいたフィラックスへ声をかけた。
「ねえ、一緒に洗う?」
〈いいの? やった!〉
耳がぴんと立った。
嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄り、私に頭をすり寄せてくる。
「うん。今日のお礼をさせて」
私は石鹸を泡立て、フィラックスの身体を丁寧に洗い始めた。
白い毛並みに、ふわふわの泡が重なっていく。
角の根元も、背中も、尻尾の先まで。
指先で優しく洗うと、気持ちよさそうに身体の力を抜き、私の手に身を預けてきた。
〈きゅう……気持ちいい〉
(ふふっ。よかった)
洗い終える頃には、すっかり泡だらけになっていた。
耳の先にも、尻尾の先にも、ふわふわの泡が乗っている。
(……ふへへ。泡立てたメレンゲみたい)
〈メレンゲ?〉
耳がぴくりと動いた。
(うん! ふわふわで、甘くて美味しいの!)
〈……えっ? 僕、食べられちゃうの?〉
ぴたりと動きを止める。
(ふふっ。食べないよ)
すると、ほっとしたように小さく「きゅう」と鳴き、私の手のひらへ頬をすり寄せてきた。
泡を洗い流すと、ふわふわだった毛並みがぺしゃんとしぼんでしまった。
(……メレンゲがしぼんじゃった)
ぶるぶるっ!
身体を震わせた途端、毛並みがぶわっと膨らんだ。
〈元どおり!〉
(……ふふっ。魔法みたい!)
いよいよ浴槽へ向かう。
改めて浴槽の縁に手を伸ばしてみた。
(……やっぱり高い)
両手をかけ、よいしょ、と身体を持ち上げる。
(んしょ……!)
どうにか縁に腰掛け、足先をそっとお湯につけた。
ちゃぷん。
(……あったかい!)
足先から、じんわりと温もりが広がっていく。
慎重に身体を滑らせた。
ちゃぷ……。
「ふにゃぁ……」
思わず、気の抜けた声が漏れる。
(……気持ちいい)
肩までお湯に浸かると、身体の芯までじんわりと温まっていった。
湯気が頬を撫でる。
お湯の表面には、ふわふわの泡が浮かんでいた。
その泡が、腕にそっと触れる。
両手ですくうと、泡が指の間からこぼれ落ちた。
(……あわあわ)
ふぅ、と息を吹きかける。
ふわり。
小さな泡が指先から離れていった。
(ふふっ)
〈きゅう!〉
フィラックスがお湯へ飛び込んできた。
ちゃぷん!
小さな波が広がり、泡がゆらゆらと揺れる。
(……広いね)
〈うん!〉
二人で入っても、浴槽にはまだまだ余裕があった。
浴槽の縁に背中を預ける。
(……あったかい)
最後にこうしてお湯に浸かったのは、いつだっただろう。
もう何年も前のことだ。
塔では、いつも水魔法で身体を綺麗にしていた。
水魔法は便利だった。
時間もかからないし、汚れだってすぐに落とせる。
でも……。
(……やっぱり、お風呂はいいなぁ)
温かいお湯。
ふわふわの泡。
バラの甘い香り。
身体の力が、少しずつ抜けていく。
そっと目を閉じ、お湯の温もりに身を任せた。
しばらくお湯に浸かっていると、ふと、昔聞いた話を思い出した。
(そういえば……)
(アルお兄ちゃんが、獣国にはいろんな温泉があるって言ってたな)
甘いミルクや果実の香りが漂う温泉。
ラムネみたいに、しゅわしゅわと泡が湧き出す温泉。
それから……。
(今はもうないけど、身体を癒す特別な温泉もあったって言ってたっけ)
〈温泉、行きたいの?〉
(……えっ?)
〈僕、知ってるよ。身体を癒す温泉も〉
(知ってるの!?)
フィラックスは得意げに胸を張り、尻尾をゆらりと揺らした。
〈うん! 今度、一緒に行こう!〉
(……でも)
少し考え込んだ。
(宮で静かに過ごすって、約束したから……)
〈宮以外に出ちゃ駄目って言われたの?〉
(……あれ?)
よくよく思い返してみる。
(……確かに! 言われてない!)
〈じゃあ、決まり!〉
嬉しそうに、私の周りをくるりと泳ぐ。
(ふふっ。ありがとう。フィラックスは優しいね)
〈フィラックスじゃないよ〉
フィラックスが耳をぴくりと動かした。
(……え?)
〈僕、ルークっていうんだ〉
(……ルーク?)
〈うん! 獣人たちはフィラックスって呼ぶけど、僕にはちゃんと名前があるんだよ〉
そばへ寄ってきて、濡れた鼻先で私の腕をちょんとつつく。
〈クーって呼んで!〉
(……クー)
私は心の中で、そっと名前を呼んだ。
その瞬間、フィラックスがぴたりと動きを止めた。
(……あれ?)
けれど、すぐに手に頭をすり寄せてくる。
(ふふっ。可愛い名前)
〈えへへ〉
嬉しそうに私へぴたりと寄り添い、喉の奥で小さく「きゅう」と鳴いた。
(私はルシア・オリベルタ。よろしくね、クー)
〈ルシア! よろしく!〉
クーは嬉しさを抑えきれないように、お湯の中でぴょんと跳ねた。
「きゅう!」
私は思わず笑みをこぼした。
それから、二人でのんびりとお湯に浸かっていると……。
(……ふわぁ)
思わず大きなあくびが出た。
(……ねむい)
瞼が、だんだん重くなってくる。
(……このまま眠ってしまいそう)
〈ルシア、お風呂で寝ちゃ駄目だよ。危ないよ〉
そっと腕に鼻先を押しつけてきた。
(……確かに)
〈ベッドに行こう?〉
(……うん)
「ふぁぁ……」
もう一度あくびをしてから、浴槽を出た。
火魔法で温かな空気を生み出し、クーと自分の身体を優しく乾かす。
それから髪を、いつものお団子に結った。
綺麗にしておいた黒いドレスを着て、ベールをつける。
(……よし)
身体がぽかぽかと温まったせいか、眠気はますます強くなっていた。
(……ねむい)
どっと疲れが押し寄せてくる。
浴室を出ると、ふらふらとベッドへ向かった。
(……あと、ちょっと)
ようやくベッドにたどり着く。
改めて近くに立つと、その大きさに驚いた。
(……おっきい)
私が横になっても、まだ何人も寝られそうだ。
そっと掛け布団に手を伸ばしてみる。
ふかっ。
(……!)
指先が、ふかふかの布団に沈み込んだ。
(……雲みたい)
(……ふわふわ)
もう一度、押してみる。
ふかっ、ふかっ。
(……すごい)
思わず頬が緩む。
ベッドによじ登り、そっと身体を横たえた。
ぽふんっ。
「……わっ!」
身体がふわりと跳ねたかと思うと、背中がゆっくり沈み込んでいく。
柔らかな寝具が、身体を優しく受け止めてくれた。
(……ふわぁ)
まるで、大きな綿あめの上に寝転んでいるみたい。
掛け布団を引き寄せると、ふわふわの生地が頬に触れた。
(……気持ちいい)
思わず、頬をすりすりと寄せる。
(……ふへへ)
(……しあわせ)
〈ルシア、嬉しそう〉
クーが隣で丸くなり、ふさふさの尻尾をそっと私の身体に寄せてきた。
(……うん)
私はその温かな身体に、そっと寄り添う。
(……クー)
〈なあに?〉
(……おやふみ……なしゃい)
〈おやす……〉
その返事を最後まで聞く前に、眠りに落ちた。
第6話を読んでくださり、ありがとうございます。
ふかふかの床に、大きなお風呂、そして雲のように柔らかなベッド。
何もかもが新鮮なルシアにとって、宮で過ごす初めての夜は、驚きと幸せでいっぱいだったようです。
そして、ついにフィラックスが自分の名前を教えてくれました!
本当の名前は「ルーク」、愛称は「クー」。
ルシアとクーの距離も、少しずつ縮まってきたようです。
さらに、獣国にあるという不思議な温泉のお話も登場しました。
果たして、二人は温泉へ行くことができるのでしょうか……?
これからの二人の冒険も、楽しんでいただけたら嬉しいです。
Instagramも更新しています!
現在、漫画や扉絵、キャラクターのイラストなどを公開しています。
リールでは、ルシアや獣王たちが少しだけ動く、アニメーションのような作品も投稿しています。
小説とはまた違った形で、物語の世界を楽しんでいただけたら嬉しいです。
ぜひ、可愛いルシアやクー、かっこいい獣王に会いに来てください!
Instagramはこちら
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今後も週1回の更新を目標に、物語を大切に書き進めていきたいと思います。
**第7話・第8話では、物語がさらに動き始める予定です。**
**第7話は火曜日に更新できるよう、頑張ります!**
これからもルシアたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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