第157話 思い出の輪郭
富士山麓霊園をあとにして、メイとマイを乗せたプジョー208は、西伊豆・安久里へと向かって走り出した。
御殿場を抜けて、伊豆縦貫道に入る。
窓の外では、走るにつれて景色がゆっくりと移り変わっていった。
途中、道の駅で短い休憩を挟みながら、車は順調に進んでいく。
軽快なBGMに乗って、他愛のない会話が車内を満たしていた。
船原峠を越え、視界がふっと開けたとき、
マイが助手席で身を乗り出す。
「……あ、この風景。見覚えある!」
「もうすぐ土肥だよ」
メイは前を見たまま答えた。
「マイ、安久里って何年ぶり?」
「えーっと……中学のとき以来だから、五年ぶりくらいかな」
「そっか。おじいちゃんも、おばあちゃんも、喜ぶよ。きっと」
「うん。おばあちゃんとは時々電話で話してるけど、
直接会うのは久しぶりだからさ。私も、ちょっと楽しみ」
そう言って、マイは窓の外へ視線を戻した。
しばらくして、ふっと何か思いついたように、マイが声を上げる。
「あ! 分かった」
「……何が?」
「なんでお姉ちゃんがさ、お墓参りに車で行くなんて言い出したか」
「え……なんで?」
「霊園から安久里まで、バスだと大変だからでしょ」
「あ……うん。そんなところかな」
メイは、曖昧に笑って答えた。
プジョー208は、土肥中浜の信号を左に折れ、
国道136号線を南へと走り出す。
海の気配が、ぐっと近づいてくる。
車窓を流れていく風景を見つめながら、
メイはハンドルを握る手に、ほんのわずか力を込めた。
――安久里は、もうすぐだ。
◇◇◇
土肥から二十分ほど走り、
『安久里北』と書かれた信号を右に折れると、
景色は一気に開けて、山と海に囲まれた安久里村へと入っていく。
車通りの少ない道を、ゆっくりと進む。
低い家並みの向こうに、潮の匂いを含んだ空気を感じた。
やがて、見慣れた看板が目に入る。
「とうふや」
「……あ、あそこだ!」
助手席で、マイが声を上げる。
「うん」
メイは小さくうなずいて、店の前に車を寄せた。
エンジン音が止まるのとほとんど同時に、
店の奥から、引き戸が開く音がする。
格子柄の割烹着に身を包んだおばあちゃんが、
いつもと同じ調子で、ゆっくりと外へ出てきた。
眼鏡の奥のやさしい眼差しも、変わらないままだ。
「おばあちゃん!」
マイは車を降りるなり、駆け寄っていく。
「マイちゃん、おかえり」
少し照れたように、でも嬉しそうに、おばあちゃんが言った。
続いて、メイも車を降りる。
ふと顔を上げたおばあちゃんと、視線が合った。
「……メイちゃん。おかえり」
「ただいま、おばあちゃん」
そう答えると、
おばあちゃんはメイの顔をじっと見てから、
「うんうん」と、何度も頷いた。
その様子を、少し離れたところから見ていたおじいちゃんが、
のそのそと、後ろに続いてくる。
「よく来たねぇ」
「おじいちゃん、足はもういいの?」
マイがそう聞くと、
おじいちゃんは得意げに胸を張った。
「ああ、骨か? 接着剤飲んだから、もう大丈夫だぁ」
「なんだい、あんた。
昨日まで痛い痛い言っとったくせに」
すかさず、おばあちゃんが突っ込む。
「そうだったかのぉ?」
「ダメだ。脳みそまで骨折しとるずら」
ぴしゃりと言うおばあちゃん。
メイとマイは思わず顔を見合わせ、くすっと笑った。
変わらないやり取り。
変わらない声と、空気。
安久里に帰ってきた、
――そんな実感が、ゆっくりと胸に広がっていった。
荷物を降ろしてから、
メイは車を近くの駐車場へ移動させ、
あらためて「とうふや」に戻ってきた。
店の奥の間では、
マイがすでに上がり込んで、
おじいちゃんとおばあちゃんと一緒にお茶をすすっている。
「あ、そうだ。これ、仙台の」
そう言ってマイが差し出した手土産を、
おばあちゃんは目を細めて受け取った。
「おやまぁ。ハイカラなもんを。ありがとう」
メイも続いて、荷物の中から包みを取り出す。
「あと、これ。いつものシュウマイね」
「おぉ、これこれ。わしゃ大好物なんじゃよ」
おじいちゃんの声に、
おばあちゃんがくすっと笑う。
「あとで、みんなでいただくずらね。
あぁ、二階の部屋、使っておくんなまし」
『いつもの部屋』――
そう言われて、メイは少しだけ胸の奥があたたかくなる。
実際に泊まるのは、何年ぶりだろうか。
それでも、『いつもの』で通じてしまうことが、
なんだか、うれしかった。
「ありがとう」
二人はそう言って、
荷物を持って二階へ上がった。
部屋は、店舗の真上にあたる、
道路に面した十二畳ほどの広い和室。
おばあちゃんの家に泊まるときは、
いつも使わせてもらっていた部屋だ。
「おばあちゃんちの階段、手すり付いてたね」
マイは荷物を部屋の隅に置きながら、何気なく言う。
「え? あ、そういえば……そうだ」
言われて初めて気づいたメイは、そう答えた。
細かいところまでよく見ているな、と感心しながら、
メイもそっと、窓際に荷物を置く。
年季の入った木枠の窓の向こうには、
のんびりとした小さな港町の風景が広がっていた。
かすかに、潮の香りが混じる。
――なんか、落ち着くな。
そう思った、そのとき。
「ねえ、お姉ちゃん。散歩いこうよ!」
振り返ると、マイが楽しそうに立ち上がっている。
「うん、行こうか」
メイは小さく笑って、そう答えた。
◇◇◇
「とうふや」の前の道は、
安久里村の中心を通る、いわばメイン通りのような道だった。
車がすれ違うには十分な幅があるけれど、
センターラインはなく、行き交う車もほとんどない。
新聞販売店と、個人経営らしい洋服屋が一軒。
あとは民家と、長くシャッターを下ろしたままの店がぽつぽつと並んでいる。
いかにも、田舎の村らしい風景だ。
「人、いないね」
マイが、少し声を落として言った。
二人は並んで歩きながら、
その静けさを邪魔しないように、ゆっくり進む。
十字路を曲がると、
潮の匂いが、ぐっと濃くなった。
突き当たりまで行き、
背の高い防波堤に沿って数分歩く。
やがて防波堤が途切れ、
視界が一気に開けた。
港だ。
向かい側には、ヨットハーバーや造船所。遠くには白い灯台も見えていた。
晴れ渡った空の下、
冷たい潮風が頬を撫でる。
寒いけれど、どこか気持ちがいい。
深い入江になっている安久里港には、
漁船が数隻、静かにつながれていた。
「そういえばさ」
マイが、港を眺めながら言う。
「ここ、昔はイルカの追い込み漁してたんだって。
前におじいちゃんが言ってた」
「そうなんだ」
「今はもうやってなくて、
慰霊碑とかあるらしいよ」
そんな話をしながら、
二人は港に沿って歩いた。
少し離れた場所にある、
小さな海水浴場へ向かう。
まるでプライベートビーチのような、
こぢんまりとした砂浜。
子どものころ、家族でよく来た場所だ。
「こんなに、小さかったっけ?」
マイが、周囲を見回す。
「私たちが大きくなったんだよ」
砂浜に降りると、
足元には、相変わらず小さな石が多い。
「ここ、石多いんだよね」
マイは、少し懐かしそうに言った。
「私さ、ここで足の裏切ったこと、あったよね」
「あ……なんか、あったかも」
メイがぽつりと、つぶやいた。
「幼稚園か、小学一年生くらい。
血が出て、すごく泣いてさ。
お父さんに、絆創膏貼ってもらったんだ」
マイは、砂浜をゆっくり見渡す。
「……そうだったっけ」
メイの視界に、
当時の父の姿が、ふっと重なる。
一瞬だけ、胸の奥が揺れたけれど、
深く息を吐くと、それは静かに収まった。
――うん。大丈夫。
「そろそろ、戻ろうか」
メイはそう言って、歩き出す。
来た道を戻っていくと、
さっきまで聞こえていた波の音が、少しずつ遠のいていく。
気がつけば、再び静かなメイン通りに戻っていた。
「ねえ、この角って、
喫茶店じゃなかったっけ?」
「喫茶店だった……」
メイが去年ここに来たときは、まだ営業していたはずだ。
今はもう、普通の民家になっている。
「閉めちゃったんだ……」
「そうそう。
ここの喫茶店でさ、かき氷食べたの、覚えてる?」
「なんとなく……」
「ほら、お姉ちゃん、
こぼして服ベチャベチャにして、ベソかいて」
「そんなこと、あったっけ?」
「ほんと、お姉ちゃん、覚えてないよね」
マイは、楽しそうに笑った。
そのまま二人は、メイン通りを歩いて
「とうふや」へと帰っていった。
「おばあちゃん、ただいま〜」
マイが店の正面から中へ入ると、
奥の土間で洗い物をしていたおばあちゃんが、
音に気づいて顔を上げた。
「ただいま…」
メイも、少し遅れて店の中へ入る。
「ふたりとも、おかえり」
おばあちゃんは、やさしく笑い、
手拭いで手を拭きながら歩み寄る。
「ほれ、少し二階で休んだらどうだい?」
「うん、そーする!」
マイは、元気よく返事をして、
先に二階へ上がっていく。
メイは、少しだけ立ち止まり、
おばあちゃんのそばへ行った。
「おばあちゃん……
この前の帰り、教えてもらった黄金崎公園、寄ってったよ」
「そうずらか……」
おばあちゃんは、やさしく続ける。
「メイちゃん。
なんか、いい顔になったずらね」
「おばあちゃんのおかげだよ。
ありがとう」
にこりと笑って、
メイも二階へと上がっていった。
その背中を、
おばあちゃんは、穏やかな笑顔で見送っていた。
ーーー
二階に上がると、
マイは畳に座り、スマホを手にしていた。
「お姉ちゃん、これ見て」
「なに?」
メイはマイの隣に腰を下ろし、
差し出されたスマホを覗き込む。
「……えっ」
思わず、声が漏れる。
次の瞬間、
メイは自分の目を疑った。
画面に映っていたのは、
ゆらゆらと揺れる、焚き火の炎。
——あの焚き火だ。
淡々とした日々の中で、
ふいに出会った、あの綺麗な焚き火。
いくら探しても、二度とは辿り着けなかった動画。
息を呑む。
「どうして……これ……」
かすれた声で、メイがつぶやく。
「キレイでしょ」
マイは、どこか誇らしげに笑った。
「これさぁ、お父さんが撮ったやつなんだよ」
……え?
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。
「ほら、お父さんの荷物を整理したときに、
ちっちゃなビデオテープ、出てきたじゃん」
マイの声が、
少し遠くで響く。
「あれをね、見られるように仙台のラボで変換してもらったの。
そしたら、焚き火が映っててさ」
「……」
「キレイだったから動画サイトにあげたんだけど、
画質が荒くて一回消したんだよね。
直してもう一回あげようとしたら、
なんだか分からないけどアカウントが消えちゃってて」
楽しそうに話すマイとは裏腹に、
メイの思考は、そこで止まっていた。
「あの焚き火が……」
いくら探しても見つからなかった理由は、
なんとなく理解できた。
けれど、
その先へ、考えが進まない。
「あとでさ、
おばあちゃんたちにも見せようかと思って」
弾んだ声でそう言うマイを、
メイはただ、呆然と見つめていた。
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