第156話 冬晴れの空とお墓参り
2月23日の朝。
「マイ〜、もう行くよ〜」
玄関でメイが声をかける。
外では、プジョー208のエンジン音が、控えめに響いていた。
「いま行く〜」
少し遅れて、どたどたと階段を下りてくる足音。
マイは肩に少し大きめのバッグを提げたまま、玄関へ現れる。
「もー、ほんと、いつもギリギリなんだから」
「そのセリフ、お姉ちゃんには言われたくありませんよーだ」
軽く言い返して、マイは靴に足を通す。
「昨日、仙台から戻ってきたばっかなんだからね、ほんと」
ぶつぶつ言いながら、バッグを肩に掛け直した。
「ほら、ドア閉めるよ」
バタン、と玄関のドアが閉まり、
続けて、鍵の音が静かに響いた。
外はよく晴れていた。
吐く息は白いけれど、空の色はやわらかく、
二月の終わりにしては、どこか春を先取りしたみたいな朝だった。
二人を乗せたプジョー208が、静かに走り出す。
窓の外の景色が、ゆっくり後ろへ流れていった。
「お姉ちゃんの助手席、なんか久しぶり」
ちょっと楽しそうにマイがつぶやく。
「……そう、だね」
ハンドルに視線を落としたまま、メイは静かに答えた。
今日は、母の命日。
毎年欠かさず、お墓参りに行く日だ。
◇◇◇
綾瀬スマートインターから東名高速に乗り、御殿場方面へ向かう。
車は多いものの、流れは悪くない。
マイがスマホをつなぐと、
車内に、やわらかい音楽が流れはじめた。
はっきり主張するわけでもなく、
それでいて、どこか心地いい音。
「この曲、いいね」
メイがそう言うと、
マイは少し嬉しそうに答えた。
「あ、これね。大学のサークルの友達に教えてもらったんだ」
「サークル?」
「映像研究会。言わなかったっけ?」
「聞いたような……」
「お姉ちゃん、ほんと忘れっぽいんだから」
呆れたように言って、前を向く。
「ねえ。初めてお姉ちゃんと二人でドライブしたときのこと、覚えてる?」
「ドライブ?……どこだっけ?」
「鎌倉だよ。私が高校二年のとき」
マイは、思い出をたぐるように言葉を重ねていく。
「あのときさ、道に迷って路地に入ってったら、
どんどん道が狭くなって」
「竹藪みたいな行き止まりでさ。
バックしようとしたら、知らないおじさんが手招きして」
「あ、何となく思い出した。
家の敷地で、Uターンさせてもらったんだよね」
「そうそう。
お姉ちゃん、律儀に車降りて頭下げてたらさ、
おじさんがくれたじゃん」
一瞬、二人の視線が重なる。
「柿!」
声がぴたりと重なって、
次の瞬間、二人は同時に笑い出した。
「あのあと、大仏行って、ご飯して……」
「そうだったね……なんか、懐かしいな」
フロントガラスの向こうでは、
景色がやさしく流れていく。
やがて車は、大井松田を過ぎ、山あいの道へ入っていった。
「あ、富士山!」
マイが声を弾ませる。
「矢鞠からも、見えたでしょ」
「でも、大きいし、迫力ぜんぜん違うから」
マイは納得いかない、というふうに窓の外へ視線を戻す。
「まあ、そうだね」
押し切られたように、メイがつぶやいた。
「やっぱり富士山、いいよな〜」
楽しそうなマイの声を聞きながら、
メイは、ふと詩音とのキャンプのことを思い出す。
――あのときは、ここでは雲に隠れて、
あまりよく見えなかったっけ。
そんなことを思いながら、
メイは小さく微笑んでいた。
◇◇◇
足柄スマートインターで東名高速を降りると、
車はそのまま、道の駅ふじおやまへと向かった。
駐車場に車を停めると、冷たい空気の中に、どこか土の匂いが混じっている。
売店の前には、熊にまたがった金太郎の石像が、どっしりと立っていた。
「あ、金太郎……」
マイが足を止めて、石像を見上げる。
「なんか、懐かしい」
「そうだね」
メイは小さくうなずき、
そのまま建物のほうへ視線を戻した。
売店の一角にある花売り場には、
色とりどりの花が並んでいる。
白菊を中心に、落ち着いた色合いの花束を選び、
その隣で、お線香も手に取った。
そのまま歩き出したとき、
マイがふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ」
少し間を置いてから、楽しそうな声になる。
「私が小学生の頃さ。
お父さんと三人で、お墓参りに来たときのこと、覚えてる?」
「……うーん?」
メイは首をかしげる。
「駐車場が全然空いてなくてさ。
空くの待ちながら、ずーっと車でぐるぐる回ってたじゃん」
「ああ……」
「で、私が『トイレ行きたい』って言ったら、
お父さんが車止めてくれてさ。
『先に行ってきな』って」
マイは歩きながら、当時の様子をそのままなぞるように続ける。
「それでさ、
お父さんが『メイは?』って聞いたら――」
思い出したように、くすっと笑う。
「お姉ちゃん、青い顔して
『わ、私もっ!』って、慌てて飛び出していったよね」
「あはは……」
メイは、思わず笑った。
「そんなこと、あったっけ?」
そう口にした、その瞬間、
ハンドルを握るお父さんの姿が、ふっと脳裏をよぎった。
胸の奥が、かすかに揺れる。
――ああ、あったかもしれない。
でも、その揺れは、深くは沈まなかった。
(……大丈夫)
メイは、そう自分に言い聞かせるように、
手にした花束を、ぎゅっと持ち直した。
「お姉ちゃん、覚えてないの?」
「忘れっぽいから」
そう返すと、
マイは「もう」と呆れたように笑い、
二人は並んで、再び歩き出した。
◇◇◇
ほどなくして、プジョー208は富士山麓霊園の入口を抜けていった。
日本屈指の広さを誇る霊園で、
まるで大きな公園の中に入り込んだような場所だ。
視界の奥まで、なだらかな坂道が続き、
その両脇には、季節を待つ桜の木々が並んでいる。
区画番号の書かれた看板を目印に、
少し中へ入っていくと、墓石の並ぶ一角がいくつも現れた。
どこもよく似ていて、
うっかりすると迷ってしまいそうになるほどだ。
墓地に近い駐車場に車を停めると、
エンジンを切った途端、あたりは驚くほど静かになった。
聞こえてくるのは、風に揺れる木々の音と、遠くで鳴く鳥のさえずりだけ。
その一つひとつが、
いつもより少し大きく、はっきりと耳に届く。
二人は車を降り、水場へと向かった。
備え付けの桶と柄杓を手に取り、
墓地のある方へと歩いていく。
「C区」と書かれた場所に入ると、
整えられた通路の両脇に、
同じ形の墓石が、きちんと並んでいた。
その通路を、
メイとマイは慣れた足取りで進んでいく。
もう何度も歩いた道だった。
「あ……またお花、ある」
マイが、ぽつりと声を上げる。
平瀬家の墓石の前には、
すでに新しい花が、きれいに手向けられていた。
白を基調に、
淡い紫が、そっと混じっている。
「いつも、誰か来てくれてるんだよね。
お母さんの命日に」
そう言いながら、
マイは墓石の前にしゃがみ込む。
花立ての横には、
まだ燃えきっていない線香の跡が残っていた。
「毎年……誰だろうね」
はっきりとした答えは出ないまま、
二人はいつものように柄杓で水をすくい、
墓石に静かにかける。
冷たい水が、
石の表面を伝って、すうっと流れ落ちていった。
用意してきた花を添え、
新しい線香に火をつける。
白い煙が、
細く、ゆっくりと立ちのぼっていく。
二人は並んで立ち、
静かに手を合わせた。
父と母に、
それぞれ心の中で挨拶を済ませてから、
メイはそっと目を開ける。
(お父さんの車で、
初めて、自分が運転して来たお墓参り)
胸の奥を探るように、
小さく息を整える。
もっと、苦しくなると思っていた。
もっと、心が乱れるものだと、思っていた。
けれど――
(……うん。大丈夫だ)
そう思えたことに、
メイ自身が、少しだけ驚いていた。
自然と、口元が緩む。
「あー、お腹すいた〜」
その空気を、
何事もなかったように破る声で、
マイが伸びをしながら言った。
「ここのレストランで、食べていこうか」
メイがそう返すと、
マイは迷いなくうなずいた。
二人は桶と柄杓を元の場所に戻し、
もう一度だけ墓石に軽く会釈をしてから、
車へと戻る。
管理事務所とレストランの入った建物へ向かって、
プジョー208は、
再び静かに走り出した。
◇◇◇
レストランで食事を済ませ、
ふたりはゆっくりとエントランスへ向かった。
外に出ると、ひんやりとした空気が頬に触れる。
さっきまでの室内のあたたかさが、少し名残惜しい。
「このあと、おばあちゃんとこだよね」
歩きながら、マイがふと思い出したように聞いた。
「うん。さっき調べたら、
ここからだと……一時間四十五分くらいかな」
スマホを見下ろしながら、メイが答える。
「え、同じ静岡なのに、意外と遠いんだ……」
マイは少し大げさに肩を落とすと、
すぐに気を取り直したように言った。
「じゃ、トイレいっとこ」
「うん。
その間に、おばあちゃんに電話しておくね」
背中越しにそう声をかけて、
メイはバッグからスマホを取り出す。
人の少ないエントランスの外で、
耳に当てたスマホから、懐かしい呼び出し音が流れた。
「あ、おばあちゃん?
いま御殿場。
これからそっちに向かうね」
短いやりとりの向こうから、
元気そうな声が聞こえてくる。
「うん……うん。
わかった。じゃあ、また後でね」
通話を終えて、スマホを下ろす。
その拍子に、
胸の奥に、ふっと浮かんだ記憶があった。
――あのとき、以来かぁ。
メイは、ほんの少しだけ目を細めて、
小さく微笑んだ。
そんなとき、
マイの戻ってくる足音が、近づいてきていた。
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